
分別と無分別の分別も超える/言語化されたマンダラとしての神話は、分節と無分節を分けるでもなく分けないでもない無分節の分節の動きを表層意識の言語とイメージに写像している -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(113_『神話論理4 裸の人』-10)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第113回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。
前回の記事はこちらです。
前々回の記事はこちら。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
まず「経験的感覚的な区別」について。
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。
およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。
特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。
ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。
一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラは動いている
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。
「分けるから分かれる」 —意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。
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付かず離れずを実感する、イメージする
前回の記事で取り上げた神話では、全部で3回、結婚のようで結婚ではない関係が結ばれたり解かれたり、また別の形で結ばれたりした。
そうすることで付かず離れず、つまり完全に分離するだけでもなく、完全に結合するだけでもない、分離したり結合したり、分離と結合という二つの様相のあいだでどちらか一方に固まらない「あいまい」な(不可得な)感じを残すことによって、二項をそれぞれ別々のものとして保ったまま、その二つのあいだの関係を関係づける。
この付かず離れず、二項が異なったまま同じでもあり、同じではあるが異なったままである、という関係は、意味するものと意味されることとの関係、記号と意味内容の関係を関係づけている動き=アルゴリズムそのものである。経験的な意味分節、ものごとが、なにであってなにでないか、どうあるべきでどうあるべきでないか、といったことを分別できる意味分節システムは、このような非同非異の二項関係を関係づける分離する述語と結合する述語の動きが均衡したところに浮かび上がる。
*
神話では、しばしば結婚という、われわれ人類に馴染み深い分離と結合の伸縮の経験的な実例が引き合いに出されたわけであるが、この分離と結合の伸縮を言語化するために、必ず結婚のモチーフを利用しなければならないというものでは、もちろんない。
神話の思考が「経験的な区別を概念の道具とする」営みだとすれば、経験的に区別できる分離的な様相と結合的な様相のペアであれば、結婚に限らず、それこそなんでも、この分離と結合のアルゴリズムを言語化しイメージ化するための材料に、ブリコラージュの素材になりうる。
「なにであるか(どちらか)」より、「どう動くか」
ある関係、分離と結合の伸縮、均衡を表現するために、図2の1)〜6)にあるような伸縮モードを的確に表現することができる述語を担うことができるのであれば、主語が何であるかにはこだわらない。
この点によくよく注意するようレヴィ=ストロース氏は呼びかけている。
例えば、前の記事で取り上げた神話M546では天/地の二極のあいだを切り開くように、上昇する動き/下降する動き、の対立が語られる。ここでM546では「姉だけ」が他の村人達から分離してひとり「天に昇る」ことによって、妹が起こした大火から逃れることに成功するのであるが、別の神話の同じ場面では、「妹」一人を除く他の家族の全員が、大火から逃れようと、みんなで(ひとりではなく、みんなで結合して)籠や蜘蛛の巣にのって天へと昇っていくのであるが、籠や網の底が抜け、みんな揃って火の中に墜落してしまう。姉ではなく「妹」だけが、ひとり「地上にとどま」っていたおかげで、大火から逃れることができる。
ここで「大火から逃れる」というあり方をする主語的なものは、姉なのか、妹なのか、どちらなのだろうか、と分けて選ぼうとすると、野生の思考がやろうとしていることとは別の方向に話の矛先が向かっていってしまう。
同様に、「大火から逃れる」ことができる動き方は、「天に昇る」ことなのか「天に昇らない(地上にとどまる)」ことなのか、どちらなのだろうか。とか、「大火から逃れられる場所は、天と地のどちらか」などと分けて選ぼうとすると、野生の思考がやろうとしていることとは別の方向に話が飛んでいってしまう。
「妹」そのものや、あるいは「姉」そのものに、一人だけ他から分離して大火を逃れる性質のようなものがくっついているわけではない。
姉/妹
天/地
昇る/昇らない
姉であれ妹であれ、天であれ地であれ。
何であれ、図2の2)で言えば、過度な結合を過度な分離に転じたり、また過度な分離を過度な結合に転じたりする動き・述語的様相の主語の役割を担うことができるならばそれでよい。
*
どちらでもなく、どちらでもあり
二辺を離れる・排中律を解除する
レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
M546における放火犯は、一種のチョウ捕り網のようなもので犠牲者の心臓を捕える。この網の構造は入念に描き出されているが、そうして捕獲に使われる網は、M539で彼女に相当する主人公が、火から心臓を取り出すのではなく、そこに押しやるために使う櫂を反転させたものである。
そして、このふたつの道具は明らかにほかの道具と相関関係にある。
まず、ヤナのほかのヴァージョンで、アビ女が火のなかに、犠牲者の心臓ではなく眼を押し戻すために使う太い棍棒。そしてまた、M531とM538で、造化の神が女主人公の赤ん坊を燃え盛る火の外に投げ出すために使う木槌や杖[…]
仮に資料として選ばれた二つの神話において、よく似た同じような場面で、
網 / 櫂
|| ||
取り出す / 押しやる
という経験的に対立する二つの側の、どちらが選ばれ、語られるかが、真逆になっている。これもまた、その後の語りの進展で辻褄が合うのであれば、ある時点で、どちらを選んだとしても、全体の構造からすれば、どちらでも構わないのである。
分離する / 結合する
この対立を、どのような経験的に知られた道具(網でも櫂でも)の働き方の対立に重ね合わせるかが神話の思考にとっては大問題である。主語的なものそれ自体が即自的に何であろうがなかろうが、それがある特定の文脈で、他のものとの対立関係の中で、たまたま相対的に結合を分離に転じる述語的様相を担うのか、たまたま相対的に分離を結合に転じる述語的様相を担うのか、ということが重要なのである。

さらに興味深い一節がつづく。
大火事によって空中はるか高みにまで放り出されたこのふたりの生存者の心臓は、ひとつはクラマス湖の近くの河中の島に、もうひとつはシャスタ山のふもとに落下する。
すなわち、これはほかのヴァージョンとの関係で言えば二重の対立関係をつくっている。 島/山、そして山のふもと/山頂である。
われわれはここで、神話の本質的な変形にまで到達している。
どうして、M546では、落下するとすぐ、心臓はその持ち主の身体全体を復元しようとするのだろうか。それは、その続きで説明されている。この身体が、ひとつは首まで、もうひとつは顔まで埋もれることができるようにするためである。
つまり、これはふたつの軸で同時に鳥の巣あさりの話が複製され、反転されている状況である。というのも、この鳥の巣あさりの話のなかで迫害する者、される者として対立する父と息子は、ここでともに、迫害される者として出頭してくるからである。
そして、ふたりのうちひとりがもうひとりによって、木のてっぺんや岩壁高くに行かされるどころか、今やふたりとも地面に埋められる。息子だけが高みに上げられるのではなく、ふたりとも下方に投げ出されるのである。
だから、すでにわれわれが予告したように、ここでも、アビ女の神話は鳥の巣あさりの神話を反転したものであることが確認される。
神話の語りでは、ある神話で姉だったものが別の神話で妹になり、妹だったものが姉になり、高く上がっていたものが低く下がり、低く下がっていたものが高く上がり、高いところで顕になったものが低いところに隠される。
同じ神話の語りの中でも、一旦高く上がったものが、次には低く降りてくるとか、遠くへ旅立ったものが近くに帰ってくるとか、その動き方を反転させる。
神話の語りでは、至る所で、大小さまざまなスケールで、結合から分離へ向かったかと思えば、分離から結合へ向かう。
実際、クラマスとモドックのヴァージョンの双子は、ある意味では二分化のスペシャリストとして現われてくる。
双子であることから母の胎内では合体しているのに、 祖母が彼らを母から取り出すときにふたりは分かれる。
しかし、祖母は彼らをひとつの存在にするためにふたたび貼り合わせてしまい、彼らはあとになって分離に成功する。
彼らは、近親者であるおばの頭を切り取ったとき、いわば自分たちの親密さも切除したのであり[…]
分けたり繋いだり、繋いだり分けたりする動きについて思考するために、神話は、「双子」であるとか、姉と弟の結婚とか、姉妹の対立といった人類が太古から身近に経験してきた家族、親族構造を引き合いに出すが、それは家族、親子、兄弟、男女、夫婦などなどの関係が、極めて具体的に実感できる「分離と結合の伸縮」の述語的様相であるからなのだ。
こうしたことを理解するための見取り図として、本記事ではこの分離と結合の伸縮、その均衡モードの変容を図2で表現してみているのである。

* *
思考と直観
現代人の思考は、経験的感覚的に観測できるもの、前五識でもってあれかこれかを分別できるものこと「だけ」を、言語的に(第六意識でもって)「なにであって/なにでないか」分別しようとする、という働き方をするように訓練されている。言い換えると、野生の思考に対する現代人の思考法は、相対的に、「分けて選ぶ」やり方を細かく追求していく方向に向かいがちである。そこでは切り分けられた選択肢一つ一つが、他の選択肢ひとつひとつと、どう同じで、どう異なるかが大問題になる。
それに対して野生の思考は「パイ生地や陶土をこねるように、伸ばしたり縮めたりする」動きのモードをあれこれ試そうとする。このパイ捏ねの渦中では、同じであることと異なること、同一性と差異性の区別が不可得になる。非同非異になる。同じであるということは分離したところを結合するということであり、異なるということは結合したところを分離することなのである。
現代人の思考が、何かと何かが、どう違うか、どう同じか、といったことを議論できるためには、そもそもその手前で、同一性と差異性を分別できていなければならないが、それをまず準備しているのが神話の論理、心の深みで動く動き、分離と結合の伸縮を通じてマンダラ状のパターンを浮かび上がらせる動きとして観測できる“なにか”なのである。
ただし現代人の場合、心の深みでいまここで、私たち一人一人の心の奥底でも現に動いている分けるでもなく分けないでもない分離と結合の伸縮が、表層の分け方選び方にこだわる思考に覆い隠されて、自覚的に意識されにくくなっている。現代人はあらかじめ物事の分別が事前にお膳立てされた、分別済みの意味ある世界を生きることができる。人間以外のものたちが不可視化された上で、言語を喋る人間ばかりが大勢集まっているところでは、個々人がその時々の瞬間瞬間にあれこれの分節の可能性を試しながら自他の関係の調和を時間をかけて探索・模索するよりも、その場その場であらかじめコード化されている分節体系を読み取って(空気を読むというやつである)、それに速やかに従うことのほうが一見スマートでスムーズに全体が動くように感じられるのである。
とはいえ、そこでは、謎多き他者たち、「わたし」の感覚や理解を超えた他なるもの達、感覚や思考を超えた不思議なものたち、なんとも言えないなんだかわからない気配や予感といったことや、あるいは霊的な存在のような直観的なものたちとの試行錯誤のコミュニケーション、ノイズと信号の区別もできないところで試行されるコミュニケーションの回路は細くなって、切れてしまう。
そしてなにより、私たち自身の自我意識にとっては、私たち自身の心と身体の深みこそが、感覚することも言語化することも困難な謎多き「不気味な」他なるものであるということ。そしてその深みを脈動させ、感覚や思考の素材となり分節を次々と発生させては組み合わせていくアルゴリズムこそが「分離と結合の伸縮」なのである。これは太古の人でも現代人でも変わらぬ話である。
以上を踏まえ、今回もまたひとつ、別の「アビ女」の神話をみてみよう。
M550 アツゲウィ アビ女
昔、人々は打ち欠いて矢じりにするための石をもっていなかった。
彼らは木の皮で矢じりをつくっていたが、それではあまり効果はなかった。
*
地上性のリスは石の主のところに行ってハラペコだと訴えた。
砕いた石がご馳走に出された。
彼はたくさん食べると、病気になって血便が出たふりをした。
主人は彼が死んだと思い、警戒をといた。
リスは石の入った大きな袋をもち、地下道を掘って逃げ出すことに成功した。
村に戻ると、彼は宝物を隠し、石のナイフだけを取り出した。
彼がそれを使って肉を切ると、皆が仰天した。
彼は仲間に石を分けた。「こうすれば、シカ狩りはもっと簡単になるし、肉ももっとよく切れるよ」と彼は説明した。
村中が忙しく矢じりを研ぎ、つぎの日、獲物を山ほど殺した。
**
一日後、犬が、ただひとりの火の所有者である女からその火を盗むため、遠く西へと出発した。彼は小屋の煙穴の上に身をかがめ、火の粉をいくらか耳殻に集めると、そこに麻くずを少しつめ、逃げ出した。
火の主の女の頼みで、トリックスターのアオカケスは雨を降らせた。
しかし、犬はかなりの早さで走ったので、日暮れには村に到着した。
翌日、彼は住民に火を分けた。
以後、狩りをするだけでなく、彼らは獲物の肉を焼くことができる ようになった。
* * *
この夜、オオヤマネコという名のひとりのインディアンが悪夢に悩まされ、皆の共同の家を離れて、彼のふたりの姉妹、ワシとアビが住んでいる小さな小屋に寝に行った。
この訪問者がこれからも来ることを見越したアビは、身体に樹脂を塗った。
つぎの夜、最初の試みで大胆になったオオヤマネコは彼女と愛を交わしたが、そのとき彼の衣服の毛が相手の身体に貼りついたままになってしまった。こうして訪問者が誰だかわかったアビは、怒って、共同の家に炎を投げた。
住人たちはおびえて、オオヤマネコを責め、彼を告発者に委ねることに同意した。
が、チョウは彼のペニスをみすぼらしい器官に変えてしまった。
アビは愛人と出発し、欲望に燃えて日暮れを早めた。
しかし、どう努力しても愛人は彼女を満足させることができなかった。
明け方ごろ、彼女が眠っている隙に、彼は自分の代わりに薪を置いて逃げ出した。
|
そのあいだ、クモは網を紡いでおいた。
オオヤマネコが到着するとすぐ、皆がそこに入った。
ふたりの姉妹の父、コヨーテは最初に乗りこんだ。
ワシもまた、自分で飛び立った。
網がすでに空高く張られたときに、侮辱されたアビは村に到着し、火を放った。彼女は、兄弟に待ってくれと懇願したが無駄だった。
が、娘を最後にもう一度見たいと思ったコヨーテは網に穴をあけた。
すぐに網は裂け、積んでいた人々を燃え盛る火のなかに落とした。
アビは急いで打ち木―――編んでつくる一種のラケットで、女たちが茂みをたたいて種子を籠に落とすために用いる――をつくった。
犠牲者たちの身体がはじけ、心臓が火の外にほとばしり出ると、彼女はその網を使って飛んでいる心臓を捕えた。
が、父の心臓だけは捕えるのをやめた。ほかにも三つの心臓が彼女から逃れた。
森のイモムシの心臓は飛んでいってシャスタ山の方に落ちた。
チョウの心臓は東方のどこかに落ち、「青い石」の心臓はどこかに消えてしまった。
もうひとりの姉妹、ワシは泣きながらあちこちを飛び回り、地面に起伏をつくった。というのも、この時代、まだ山はなく、地面はどこも平らだったからである。
アビは心臓で、自分のために首飾りをつくった。
そして、湖から湖へと移動し、ビュット・クリークの源の湖にまで達すると、そこに身を落ちつけた。
ワシは心臓を探しながら、山をつくっていた。
そしてとうとう、北の国で森のイモムシを見つけた。
そこではビーズという名の二姉妹が、地面に埋まった心臓を掘り出していた。
心臓が埋まっていた土地は、彼の涙で塩分を含むようになって、それをシカが嘗めにやって来ていた。
ワシは兄弟が生き返って、彼を救ってくれた女たちと幸せに結婚しているのを知るとビュット・クリークの湖へと戻った。
そこに住んでいたふたりの兄弟は、褐色の水鳥にならった名をもっていたが、アビがそこにいる、と彼女に教えた。「首の回りに首飾りをつけて、水に映った自分の姿をうっとりと眺めて過ごしているよ」。
彼らは罪人を殺すことを受け入れたが、ワシに、シカの骨でつくった矢じりを提供してほしいと条件を出した。
ひとりには、毛が赤く変わるときに殺したシカの骨でつくった矢じりを、もうひとりには、角を失うときに殺したシカの骨でつくった矢じりを。
ふたりの少年は、どちらが最初に矢を射るかで争ったが、最後にはいっしょに行動することで合意した。彼らは殺したアビの死体を、姉妹のワシのところに運んで来た。
ワシはアビを裸にしてから、藁でくるみ、これからはアビが「春になると泣いたり笑ったりする」のが聞かれるだろうと告げた。それから、欠けていたふたつの心臓を回収してくると、それを首飾りの心臓に加えた。
ワシはビットヴィルの方にある自分の生まれた村に戻り、共同の家を再建した。
彼女は、家のすぐ近くを流れる川に心臓を沈めると、家に帰って眠った。
明け方、心臓は生き返り、彼女は身内の者全員をふたたび見いだした。生活はふたたびかつてのように始まった。
狩猟の道具の起源
人間←/→動物

この神話の冒頭は非常におもしろい。
「昔、人々は打ち欠いて矢じりにするための石をもっていなかった。」
つまり、狩猟の道具をもっていない、石器をつくれない、といっているのである。
これは要するに、人間と動物の区別がまだはっきりしない、ということである。古来から、人間と動物の間にはつぎのような対立関係が経験的に見出されやすかったことだろう。
人間 / 動物
|| ||
道具を使って狩をする / 道具を使って狩をしない場合が多い
この神話の冒頭では、人間と動物の区別があるでもないでもない。よく読むと、「彼らは木の皮で矢じりをつくっていたがそれではあまり効果はなかった」とあるように、全く道具を知らないわけではない。道具を使った狩をしないわけではないのである。この道具を使って狩をしようとしているという点で、この神話の冒頭に出てくる登場人物達は100%完全に経験的なΔ動物ではない。とはいえ彼らはΔ人間でもない。仮に「人間である」ということが、石器を作って狩をする者である、という意味だとすれば、石器を作ることができていないらしい者達は人間であるようなないような何者かである。
これはすなわち、人間/動物という経験的区別の二極を一つに短絡結合した存在である。
Δ→β←Δ
この短絡結合する動きは、図2で言えば1)のモードである。すなわち、人間/動物、という経験的な区別を前提として、この対立関係の二極、人間と動物を区別なく、ひとつに結合する操作によって、両義的媒介項を、分離と結合の伸縮する動きを担う主語の役割を引き受けるものを作り出しているのである。
そういうわけで、最初の登場人物「地上性のリス」は人間でももなく動物でもない、両義的媒介項である。
*
このリス人間が、ある日、仲間達のもとから分離して、どこか遠く離れた「石の主」なるもののところへと出かけていく。
<石の主> ← βリス人間 ←ーーーーー βββ(動物人間たちの村)
もともと結合していたところが分離する。図2の1)から2)へ、様相が転換する。そして元いたところから遠く分離したβリス人間は、元々遠く分離されていた「石の主」のもとにたどり着く。リス人間と石の主の関係が、過度な分離から過度な結合へと転じたのである。
ここでリス人間は石の鏃の材料となるであろう石を「食べ物」として供される。食べ物ではないもの、食べ物を得るための手段が食べ物のように扱われているところが面白い。まだ狩が済んでいないのに、大急ぎで慌てて狩の道具を食べてしまう。食事が配られる前に皿を食べるようなもので、これは過度な結合の様相と過度な分離の様相をひとつにしたものである。すなわち、狩猟道具の石鏃を獲物の代わりに食べる時、それを食べている神話の登場人物は、経験的には適度に結合している獲物との関係を過度に分離されたままであり、経験的には適度に分離している狩猟道具のと関係を過度に結合している。
そういう具合に分離と結合の激しい伸縮を体現する石たちを口の中にたくさん詰め込んだリス人間は、死んだふりをして、石の主を油断させる。
死んだふり。
生/死
この区別があいまいで不可得になっている。
そうして石の主を油断させたリス人間は、石の主に見つからないように、一目散に村に帰る。石の鏃を村の人々(といってもまだ動物人間の皆さんである)のもとに持ち帰ることに成功するのである。
これによる元々分離されていた狩猟のための石器と人間動物との間の関係が、分離から結合に転じたのである。
ただしここは、過度な分離が過度な結合に転じたということであり、図2の2)のモードで激しく伸び縮みしている状態である。その証拠に、一旦石のナイフと鏃を手に入れた動物人間たちは、鹿を大量に狩ってしまう。
この獲物が取れすぎるということは、経験的なΔ人間とΔ狩猟対象動物との關係ではない、神話によく出てくる過度な結合の様相である。
Δ獲物→β獲物を獲れすぎる狩人←Δ人間

* *
火の起源
さて、石鏃をもたらしたリスの次に登場するのは犬である。
この犬もβ犬、β犬人間である。
β犬人間は、先ほどのリス人間と同じように、村から遠く離れたところに暮らす「火の所有者である女」の小屋の屋根に忍び込んで、火種を盗んで、村に持ち帰ってくる。途中、火を盗まれたことに気付いた火の主は、眷属に雨を降らせてβ犬人間が隠しもつ火種を消そうとしたが、むだであった。
この犬人間とリス人間の動きをみてみると、彼らの距離を開く移動が、空間的な遠/近の分節、特に水平方向での遠/近の分節や、小屋の煙の穴に登ったり、雨が天から地へと降ってきたりと、垂直方向での上/下、遠/近といった分節を切り開いていることに注目しよう。
β
↓
↑
β → ←/→ ← β
↓
↑
β
そうして空間の分節を開きつつ、一方の極から他方の極へと激しく移動するβ両義的媒介項たる動物人間たちは、石鏃や「火」との関係を、過度な分離状態から過度な結合状態に転じたのである。
火 / β人間
↓
火→←β人間
こうして村の動物人間たちは、先ほどの石の鏃につづいて火も手に入れ、より“人間らしい”生活を始めることになる。
とはいえここはまだ、図2でいえば2)〜3)の様相である。狩猟の道具である鏃も、料理の火も、いまだ動物人間たちと過度な結合の様相にある。これをどうにかして、図2の5)の状態に転換しなければならない。
火と、動物人間たちを、過度に結合させるような語りを入れないと話が進まないのである。

動物人間達の共同の小屋が大火にみまわれる
さて、β動物人間たちと火(β火)との過度な結合の表現としては、やはり神話は「大火」を選ぶ。β動物人間たちが、火(β火)で焼かれてしまうのである。
この神話、いきなり脈絡なく大火を起こすのではなく、大火が起きるに至る経緯を別の激しい分離と結合の伸縮、インセスト・タブーの侵犯にまつわる分離と結合の急転換でもって語ろうとする。
まず新しい登場人物(β動物人間)「オオヤマネコ」が出てくる。このオオヤマネコは「オオヤマネコという名の」人物であり、つまり人間である。β動物人間であるが、かなり、というかほぼ人間である。この時点で神話の語りは図2の4)から5)に向かおうとしている。
しかしこのオオヤマネコ氏、悪夢に魘されたことをきっかけに、「皆の共同の家」、β動物人間たちがみんなで寝泊まりしている家から、一人だけ、分離して、そして、「彼のふたりの姉妹、ワシとアビ」の小屋で寝泊まりをすることになる。元々分離していた姉妹達との関係を、過度な結合へと転じようとする。図2の4)から3)や2)へと転じる感じである。
さて、ここでオオヤマネコ氏は姉妹である「アビ」と結合=過度に結合するのであるが、この時、真っ暗闇の中で「アビ」は自分の相手が誰であるのか、よくわからなかったらしいのである。
そこで日本の三輪山神話にもあるように、謎の訪問者=夫の正体を暴くことにする。アビ女は「身体に樹脂を塗っ」て訪問者を待ち構える。
何も知らずに訪れた訪問者(実は兄、オオヤマネコ)は姉妹であるアビとよろしく結ばれる。兄弟姉妹間の「過度な結合」である。
ところが、アビがあらかじめ体に塗っておいた樹脂のために、オオヤマネコの服あるいは毛皮が、アビの身体に張り付いたまま残ってしまった。
明るくなると訪問者が兄であることが、アビにもわかってしまった。
*
ここから、β動物人間たちとβ火との過度な結合がこうして実現する。
知らずにインセスト・タブーを侵犯することになってしまったアビは怒り、「共同の家に炎を投げ」る。共同の家の住人である動物人間たちは驚いて外に出てきたらしい。
そして「住人たちはおびえて、オオヤマネコを責め」、オオヤマネコを「告発者」アビに「委ねることに同意」したとある。つまり先ほどのリス人間や犬人間を含む動物人間村の人々は、要するに、インセスト・タブーを侵していると知りながらも、オオヤマネコとアビが夫婦になることを、結婚することを認めた、ということであろう。
引き続き過度な結合がここに動いている。
過度に結合したはずが、実は過度に分離していた
ところが、この結合。過度な結合を達成したと見せかけて、実は結合できないように、分離したままになるように仕組まれるのである。β蝶々人間が一計を案じて、オオヤマネコの性的能力を奪う。つまりもうオオヤマネコは、アビと、インセスト・タブーを侵犯して過度に結合しようにも、どうにもしようがなく、分離したまま、ずっと分離したまま、つまり過度に分離したままになっているのである。
結合しているかのようで分離している。
分離しているのであるが結合しているようにも見える。
分離か、結合か、どっちだどっちだと、大混乱である。
* *
さて、アビはオオヤマネコを連れて、皆の村から分離して、二人だけになって、過度に結合しようとなさるわけであるが、前述の通り、もう「どう努力しても愛人(オオヤマネコ)は彼女(アビ)を満足させることができなかった」ということになる。
能力を失ったオオヤマネコはアビの仕返しが恐ろしくなり、アビが寝ている間に、身代わりの「薪」を寝床に置いて、一人、アビのもとから分離して(過度な分離)、村のみんなのところに逃げ帰る。
* * *
村の動物人間たちはこうなることを見越して、準備をしていた。
アビが、怒って戻ってきて、火をつけるにちがいない。
そこでアビから逃れるために、村の一員であるβ蜘蛛人間が、「網」をつくっていた。
そして村人一同がそこに乗って、空高くに持ち上げられる形で、地上のアビから一時的に分離することに成功する。この動きもまた経験的に分離しているところを過度に結合する動きである。飛行機がない時代の人類にとっては、空に浮かび上がるというのは、まず不可能なことであった。天/地の対立でいえば、経験的には人間は天からはっきりと分離されている。
それがこの網に乗ったり籠に乗ったりして、天に上がったり、太陽にぶら下がったりできる、というのは経験的な区別を短絡、圧縮した、過度な結合である。

しかしこの過度な結合は、すぐに過度な分離に転じる。
空に上がってきた両義的媒介項たちは地上に落下して、火に飲まれ、バラバラになる。
怒り狂ったアビがオオヤマネコを追いかけて村に戻ってくる。そして村中に火をつけて回る。とんでもない話であるが、これは神話である。主語的なイメージの様相に困惑せずに、分離と結合の伸縮に意識を合わせて読んでいこう。
さて、村人達は高いところに張られた網の中に隠れて、燃える村を遠く離れて見守っていたのであるが、オオヤマネコやアビたちの父親である「コヨーテ」は、実の娘がどうなってしまっているのかを案じて、網の底に穴を開けて、地上の燃える村を見てみようとした。
その途端、網は破れて、網の上の動物人間たちは、バラバラと火の中に落ちて、火に飲まれることになった。
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両義的媒介項を長く伸ばして
さて、仲間達が火の中に落ちたのをみて、アビは急いで、「茂みをたたいて種子を籠に落とすために用いる」打ち木という道具を「つくった」という。
燃えているところで、道具作りから始めるなんて、なにやら悠長な話だという気もするが、さすが神話である。いそいでいるならゆっくりする。
ちなみにこの道具の創造も、これは狩猟とは別の、食料採集の起源である。この「打ち木」を用いて、火の中に落ちた人々を叩き出し、助けようと?したのである。
炎の中で、「打ち木」で叩かれたβ動物人間たちの身体は「はじけ」て、特に「心臓」だけが、「火の外にほとばしり出」る。
β動物人間の心臓 ← ・・・・ → β動物人間の心臓以外
↓
(Δ)
心臓たちは集められ、「首飾り」にされて、アビの首に巻かれ、アビの体に結合したままになる。
しかし、この心臓のうちの四つ(コヨーテの心臓、森のイモムシの心臓、チョウの心臓、「青い石」の心臓、である)は、アビに捕えられることなく、飛び去っていった。
β心臓1
β心臓2 * β心臓3
β心臓4
この四つ、明確には語られていないが、どうやら東西南北といった方位に分かれて飛んでいったらしきことがうかがえる。
森のイモムシの心臓
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北
?ー西 東ーチョウの心臓
南
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?

分離と結合の伸縮の均衡と存在者が安定的に収まる余地
この遠くへ飛んでいった心臓たちを探したのが、アビの姉妹である「ワシ」である。
βワシはそもそも籠に乗っておらず、籠から落ちて火の中に落ちる難を逃れていた。
このワシ、おもしろい動きをする。
ワシは泣きながらあちこちを飛び回り、地面に起伏をつくった。
というのも、この時代、まだ山はなく、地面はどこも平らだったからである。
ワシの動きが、地形の起伏を、高低差を作り出したというのである。
高/低
地形の高低差は水の流れ、人々の生活の基軸になる水の流れを決定づける要因である。「地面はどこも平ら」ということは、つまり、水の流れもなく、川も湖も海もなく、つまり人々が生きていくことができる経験的な三次元空間が未だ起源していなかったということである。

そこに生きられる風土、高低差のある三次元の生きられる空間を区切り出す=分節する動きを、この「ワシ」が体現している。
空間の分節、時間の分節
さて、このワシ、いや、βワシ人間の娘は、「森のイモムシ」の心臓が、落下して地面にめり込んだ先で、その土地の娘たち「ビーズという名の二姉妹」に救助されたことを知る。
「森のイモムシ」は心臓だけになって飛んで、墜落して、地面に埋まっている間、「涙を流して」、塩分を含む湖を創造した。
この湖がのちにシカ狩りの場所になったのである。もともとβ動物人間達は、石の主から手に入れた鏃でシカを狩りすぎというほどたくさん狩猟していたのであるが(獲物と狩猟者の過度な結合)、この塩の湖ができたことで、シカ狩りの場所が限定され、つまり獲物と狩猟者、シカと人間達の間が、付かず離れずの現世的な距離感に均衡することができるようになったのである。
Δ狩猟者 /(塩の湖)/ Δ獲物
さて、「森のイモムシ」が北の国で二人姉妹とよろしく暮らしていると知ったワシは、また地域の中心に位置する湖に帰っていった。
そこで次に、βワシ人間の娘は「褐色の水鳥にならった名」をもつ二人兄弟と知り合う。彼らは、くだんのアビ、β動物人間の村の人たちを首飾りにして捕えたままのアビが、近くに住んでいるのを見たと報告する。
ワシはこの兄弟に対して、アビを打ち取ることを許可する。
兄弟達はアビを討つと約束する一方、そのための「シカの角でつくった鏃」を与えてくれるよう、ワシに依頼する。
ひとりには、毛が赤く変わるときに狩ったシカの骨でつくった矢じり
もうひとりには、角を失うときに狩ったシカの骨でつくった矢じり
ここで二種類のシカの姿が象徴するのは、季節の周期的な交代である。
ワシの飛翔で、現にある経験的で感覚的な空間が分節され、そしていまこの二種類の季節違いのシカの鏃によって、長周期の時間の動的な分節システムも、区切り出されたことになる。
さて、一年周期の時間を象徴するかのようなシカの鏃を手に入れた兄弟は、最初は競い合うも、のちに協力し、二人で一緒にアビを討ち取り、アビの姉妹であるワシのもとにつれてくる。
*
*
表層の分別の直下で伸縮している分離と結合
次に、βワシ人間の娘は、アビと、アビが首に巻いている家族達、β動物人間の仲間達を、一挙にまとめて復活させようとする。

ワシは、アビから首飾りされていた心臓達を取り外し、また遠くに飛んでいってなくなったままだった心臓ふたつも、詳しい話はすっ飛ばしてとにかく回収してきて、首飾りの心臓達と一緒にし、もともと皆で暮らしていた「共同の家」の近くの川の流れの中に沈めた。そうして心臓達を川に沈めたまま放っておいて、じっと見張らずに、見ないように分離して、再建された共同の家で眠る。
そうして朝になると、川の中の心臓から、βワシ人間の娘の家族達、仲間達が復活している。復活した人々は、再びまた、β動物人間たちの村で、「かつてのよう」な暮らしを取り戻す。
このβ動物人間達のあいだで、過度な結合と過度な分離の伸縮を引き起こした張本人であるアビは、β動物人間たちの村で蘇ることはなく、Δ分節された世界、つまり図2の6)に示す経験的で感覚的に分節済みとなった世界で、「春になると泣いたり笑ったりする」Δアビとして存在することになった。

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まとめ
この神話がおもしろいのは、図2に示したような展開を典型的にたどりつつも、この図2の1)〜6)の展開が、決して時系列に、単線的に、シーケンシャルに変化するのではなく、1)〜6)の各モードが、いわば時間の分節に照らして言うならば同時に、空間の分節に照らして言うならば重なり合っていることが明かされていることにある。

神話の論理では1)が2)になるときに、1)が完全に消え去って、溶けて無くなって、代わりに2)が出てくる、ということはない。1)も2)も、そして3)〜6)も、すべて同時に、同じ場所に、重なり合っているのである。
通常人間の経験的な自我意識(前五識と第六意識のハイブリッドによる分別識)は6)の関係、二重の四項関係
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
このモードだけを明晰に分別して意識し自覚することができる。
ここでいう意識とか自覚というのは、あれかこれかを分けて選んでこだわることができる、ということである。
反面、その明晰な表層の分別識は、5)〜1)のことをうまく「思考」できずにいる。思考できないどこか、不気味で、なにやら恐ろしげなものとして、できることなら避けておきたいと目を背けたりする。

とはいえ実は、ありとあらゆる表層の分節体系、6)のΔ四項関係は、常に、いまここで、1)〜5)が瞬時に同時に時空の分節を超えたそれ以前のところで動いているからこそ、分けられて、分かれるのである。
6)のΔ四項関係を第六意識と前五識がはっきりと分別できているということは、それは他でもない、第七末那識と第八阿頼耶識の分節フィルタを突き抜けた先で、1)〜5)が分離と結合の伸縮を時間を超えた超高速で振動させているからに他ならない。
そして、その、時空の分節の手前の1)〜5)の動きの陰のようなものを、生きた人間がそのΔ四項関係である表層の分別識に射影させて味わいつくそうとするときには、マンダラを観想したり、神話の語りを聞いたり、あるいはおのれの無意識の声にならない声に耳を傾けてみたりするような、特別な時間と、その時間を過ごすための場所、神話の語り手のような導者(現に生きている人でもよいし、過去に生きた語り手でもよい)の助けが必要になるのである。
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