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第七末那識の転回を促す神話-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(117_『神話論理4 裸の人』-14)

    クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第117回です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。

    前回の記事はこちらです。

    前々回の記事はこちら。

    前回までの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけます。


    経験的な区別が概念の道具となる

    レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

    「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

    経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったいどういうことだろうか?

    まず「経験的感覚的な区別」について。

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    図1

    仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ結合したもの(Δ1=Δ2)を、ひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

    上図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

    Δ1 寒い / Δ4 寒くない
    ||       ||
    Δ2 わるい / Δ3 わるくない

    といった具合になる。

    私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源

    私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界は、二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。

    人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。

    Δ自 / 他Δ
    Δ生 / 死Δ
    Δ好き / 嫌いΔ
    Δ因 / 果Δ
    Δある / ないΔ
    Δうまい / まずいΔ
    Δ高い / 安いΔ
    Δ遠い / 近いΔ
    Δ内 / 外Δ

    これらの区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。

    区別があること / 区別がないこと
    分節 / 無分節
    分かれてあること / 分かれていないこと
    分離している / 結合している
    一である / 多である
    同じである / 異なっている
    区別すること / 区別しないこと
    分離すること / 結合すること

    そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。

    マンダラ

    そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係、

    Δ=/=Δ
    ||    ||
    /  /
    ||    ||
    Δ=/=Δ

    という姿が定常的に安定して浮かびあがり得るように均衡している状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

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    二項対立関係の対立関係、四つのΔの均衡を保つためには、この四つのΔを、互いに区別できないように混じり合ってしまわないように分離する一方で、離れすぎてしまってペアになっていることがわからなくなってしまわないように結合するという、分離しつつも結合し結合しつつも分離する動きが動いている必要がある。この分離する動きと結合する動きを表現する述語を引き受ける主語の位置を占めうるものが、図1にβと表現した項、両義的媒介項である。

    主語的なもののペア、述語のペア、分ける述語と分けない述語のペアを分けるでもなく分けないでもなく

    例えば、弘法大師空海は『吽字義』で、

    • 因 / 果

    • 有 / 無

    • 損減 / 増益(生/滅)

    • 我 / 非我

    という四つの分別・二項対立と、

    • 因/果を分けるでもなく分けないでもない

    • 有/無を分けるでもなく分けないでもない

    • 損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない

    • 我/非我を分けるでもなく分けないでもない

    という四つの分けるでもなく分けないでもない、分離しきるでもなく結合しきるでもない、分別無分別どちらか不可得なモードとを、二重化した心のモデルを示している。

    およそ人間が分別(分けて、選んで、拘ろうと)して、しかし、拘りを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、分離しながら結合し結合しながら分離する、非同非異、二辺を離れるでもなく離れないでもない「空」ということを覚るべしと教えるのである。

    転識得智

    仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。

    特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

    ユングによる意識の四機能

    ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。

    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

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    • 「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。

    この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。

    • 「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものに拘ろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。

    この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。

    そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層とは、自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別である。

    一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し、結合しつつも分離するという伸縮自在な動きを表している。

    この分離と結合の伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。

    *

    神話や夢は、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影である。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。

    夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容させる「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

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    • 前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ

    • 第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ

    • 第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ

    • 第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方に拘ることのないモードへ

    この神話と夢と仏教、その他、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役に立つのが「マンダラ」である。

    マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。

    マンダラは動いている

    この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。

    マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

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    図1再掲

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

    図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。

    一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、つないだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせたり、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。

    両義的媒介項

    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。

    分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

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    図2

    神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動

    神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

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    1)ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。

    2)〜3)激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。

    4)付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮は限りなく減速する。

    5)Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

    「/」(分ける)と「||」(結ぶ)は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する述語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。そして「=/=」と表記した様相においては分離しつつ結合し、結合しつつ分離する、分離することが結合することでもあり、結合することが分離することでもある、という関係になる。

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    この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたりつないだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。

    例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

    「分けるから分かれる」 —意味分節の起源

    意味分節というと、人間の主観と客観との分節を所与のものとみなした上で、主観の側の、主観の内部の何かなのではないかと考えられる向きもあるが、ここでいう意味分節はそうした主観内部の話ではない。主観/客観の分節もまた、人間が経験的に意味ある世界を理解しようとする時に用いるひとつの意味分節の最小構成単位なのであると考えてみたい。これは主/客にとどまらない。空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。

    主/客
    生/死
    遠/近
    内/外
    有/無

    こういったこともまた、分けるから分かれるのだ、となると、もしこれらを分けない、いや、分けるでもなく分けないでもない境位に入ることができるなら、そこで私たちの「心」は一体なにを経験することになるのだろうか?!

    神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

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    上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

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    起源神話 —区別があること、それ自体の起源

    神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。

    例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。

    A  /  非-A

    こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。

    そしてこの区別が、神話では、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。

    神話の語りを分析する

    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。



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    *

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    頭の中、どないなっとんのやろな

    転がる頭とは?!・・・伸縮する述語?!

    ここまでの記事で示したように、神話の語りから図2のような分離と結合の伸縮を読み取るためには、その語りに登場するさまざまな主語的なものたちが「何であるか」を問うのを中断しておくとよい。

    「Δxとは、何であるか」式の問いは、その「Δx」を「他のどのΔに」置き換えるのか、という問題になる。

    ところがこの問題は、しばしば人を合理的思考の迷宮の奥へ奥へと引きずり込む。

    あるΔから、他のΔへの置き換えは、「Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり、Δ3はΔ4であり・・」といった具合の置き換えを、いくらでも、とめどなく、連鎖させることができる。

    私たちが「Δxとは、何であるか」と問う時、それは最終的にそれ以上先へと置き換えることができない特別なあるΔtをひとつ選んで、「Δxとは、究極的にはΔtなんですよ。以上、これより先の言い換えは不要!禁止!」とすることを求めている。

    しかし、Δ→Δ→Δ→Δ式の置き換え・言い換えは、結局あるΔはどのようなΔにも置き換えることが潜在的には可能であるが故に、そして言語でもって何かが何かを意味するということがそもそも何かを何かに置き換える・言い換えること、つまり分離を結合に転じる述語的様相の展開に他ならないが故に、たとえ束の間、言い換えの連鎖をつなげていくことを「禁止」と宣言したとしても、それは束の間の沈黙を響かせた後に、またすぐに、分離を結合に転じる動きを、言い換えの連鎖を、増殖させるように動くのである。

    「Δxとは何であるか」の問い=言い換えを止めることができる最終的な終端装置のようなΔは存在しない。この問いを仮に一時的に止めることができるのは、何らかのΔではなく、単に沈黙、問うのを忘れた、といったようなことに尽きるだろう。

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    ではそうなると、神話の語りが意味するところが何であるのかを決めることができず、神話は永久に意味不明なもののままになってしまうのかといえば、そうでもない。神話を意味不明なものではなく、それが意味しようとしていることとして経験するためには、神話の不思議な主語的なものたちの動き方、その分離する動きの述語的様相と、結合する動きの述語的様相が、どう切り替わっていくのかに注目してみると良い。

    *
    *

    転がって、追いかけてきたり、かえって行ったり

    このアプローチのモデルケースとなるのが、「アビ」であり、そして「転がる頭」である。レヴィ=ストロース氏は、ここまでみてきたいくつもの神話に登場した「アビ(アビ女)」が、「転がる頭」と同一視されることを指摘する。

    もうひとつのウィントゥのヴァージョンは、一見、常軌を逸しているように見える(M545b、DuBois-Demetracopoulou, p. 360-362)。というのも、それはアビ女を、南北両アメリカの端から端までよく知られている形象と同一視しているからである。まず近親者を、ついですべての住民をむさぼり喰う転がる頭である。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.162

    転がる頭というのは下記の記事にも登場している。

    姉は犠牲者たちの心臓を拾い集め、それで首飾りをつくった。
    そして彼女は、島に移り住んだ。

    妹はひとりぼっちになった。長いあいだ、彼女は姉を監視した。

    姉が寝ていることにつけ込んで、妹は心臓を奪い取り、姉の首を切り落とした。

    首は悲しげな長い泣き声をあげながらひとりでに身体にふたたびつながった。「好きなだけ泣け」。妹はひと掴みの灰を拾って姉に投げつけながら言った。

    「あんたは二度と人々を焼くことはできない。これからは水のなかで暮らすことになる。人々があんたを食べるとき、あんたの肉はまずいと言い、吐き出すようになる」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.64-66 M540 モドック アビ女 より

    頭が首から下と分離されたかと思えば、「泣き声をあげながら」動き回り、そしてまた「ひとりでに」、首から下の身体に結合する。

    現実には、経験的で感覚的なこのリアルな世界では、万が一人間の身体から頭がとれてしまうと、それはもう大変な事故・事件である。頭がとれてしまった人はもう生き返ることは難しい。頭だけになって声をあげたり、動きまわったり、また首から下のところに戻っていって、結合して、全身の一体性を回復する、といったことは、現実にはありえない。

    これが、神話の世界では、頭だけになった主人公が、ごろごろと好きなように動きまわったり、また首から下に結合したり、またものによっては他の人に噛みついたりする。

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    つながる、離れる、追いかける、噛み付く、貪り喰らう

    ここでこの不思議な「転がる頭」、頭だけで動きまわったり喋ったりするものが「一体何であるのか」を問いたくなるところである。ここで分離する述語、結合する述語に注目してみよう。

    頭は、まずは首から下と一体的に結合していた。
    それが一挙に分離される。頭が取れる。
    しかしとれた頭は再び動いていって、首から下の身体に結合する。

    1)結合する動き → 2)分離する動き → 3)結合する動き

    という展開が見えてくる。

    1)は話の最初から、すでに結合済みの様相で現れる。例えば通常私たちは頭と身体の関係を、本来分離しているふたつのものが二次的にわざわざ結合したもの、とは考えない。最初から不可分一体、結合しているという必要もないほどの結合である。

    その相対的に過度な結合が、激しく、過度な分離へと転じる。

    経験的な存在Δである普通に頭のある人物が、まるで長く引き伸ばされて、その端をぷちんとちぎられるように、β転がる頭とβ首から下に分離する。βは、しばしば経験的感覚的な存在者であるΔを引き伸ばし、その端を切り離す=分離することで作られる。

    β転がる頭 ← /経験的な存在Δ/ → β首から下

    そしてこの頭が、今度は過度な結合を起こす。

    β転がる頭 →<つながる>← β首から下
    β転がる頭 → <むさぼり食う>← β近親者・村人たち

    このβ転がる頭は神話の世界では「両義的媒介項」とよばれるものである。

    両義的媒介項は、この結合→分離→結合、といった動きを聞き手にイメージさせることができる、経験的に分離する様相や結合する様相を言語化し意識させるものであればなんでもよい。それこそ、β転がる頭が「結合する」相手方は、自分の首から下の身体でもよいし、近親者たち(これもまたもともと転がる頭と「結合」していた者たちである)でもよい。いずれにせよ、「くっつく」とか「むさぼり喰う」、そして切断するといった述語に対して、その主語の位置を占めることができるものであればよいのである。

    ほかにも過度な結合の述語的様相として、「インセスト」であるとか「自分で自分の血を舐めて、味を占めて自分で自分を食べてしまう」といった様相が語られることもある。

    例えば、ひとつレヴィ=ストロース氏がまとめている神話の展開をみてみよう。

    アビと同じようなことを、転がる頭が

    […]ウィントゥの神話は十人の子供という静的な一そろいを捨てて、機能面でペアを組んだ二系列をつくっている。つまりそれぞれ対照的な性格をもつ、ひとつは兄弟、もうひとつは姉妹のペアに配分された四人の子供たちである。

    そして、M553と同じように、負の原子価の担い手である妹は、月経中の娘たちにふさわしい慎みを守らない。姉によって自分の腰布をつくる樹皮を探しに行かされたインセストの妹は、あやまって切り傷を負い、自分の血を舐めるが、その味は彼女の激しい空腹感をかき立てる。そのため彼女は自分を食べてしまい、転がる頭になって、すべての住民を食べ尽くそうと攻撃を始める。

    恐れをなした彼女の家族は天にまでのぼる。

    しかし古い人糞の山が、頭に情報を与えた。彼女は逃亡者に追いすがり、欲望に燃えて、そこから兄弟をもぎ取ることに成功すると、彼を股のあいだにはさんだ(原文のまま)。

    が、彼は彼女を満足させることを拒否したので
    、彼女は彼を食べてしまい、心臓だけを残し、それを首飾りに通した。

    彼女はそれから北の川の方に行って、大きな湖に身を落ちつけた。

    夜だけ彼女はそこから出て、南の岸に涼をとりにいった。

    難を逃れた家族は水を通さない籠を準備し、水と、焼けるように熱い石でそれを満たした。姉はその籠を身につけると、湖の南東で位置についた。ハチドリも北で、矢じりはないが先をとがらせた矢で武装して、身構えた。

    彼が致命傷を負わせると、罪人は土手に来て息を引き取った。

    姉は首飾りと心臓を奪い取ると、心臓を煮立った水のなかに沈めた。
    そこで殺された兄弟は甦った。

    しかし、人に戻ったものの、彼は普通ではないようで、さほど長くは生きられなかった。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.164-165

    姉妹あるいは大勢の子供が居る一家という、図2の1)の様相、結合の様相からはじまって、そこに最初の区別が分離していく。ここで最初の分離は、姉/妹の性格が真逆であるということである。姉/妹のどちらか一方が慎み深く、もうひとりは慎みが足りない、といったことである。

    真面目/不真面目

    姉妹は同じ親から生まれ同じ家に暮らす者であるという点では「同じ」=不可分に結合しているが、しかし性格が真逆であるという軸上では真逆に「異なって」=分離し鋭く対立している。

    性格が真逆の姉妹は非同非異の関係にある。

    *

    こちらで過度に結合し、あちらで過度に分離し

    しかもこの姉妹のどちらかが(どちらでもよいのだが、たいがいは慎み深くない方が)、しばしば兄弟と「インセスト」の関係にある。これはつまり過度な結合の様相である。あるいはインセストでなくても、例えば、自分で自分の血を飲んだり、はては自分で自分の身体を食べてしまうという様相でも過度な結合の述語的様相を示しつつ、同時にその自分を食べることが頭と首から下を分離することにもなっている、という過度な結合がそのまま過度な分離でもある、という実におもしろい様相にある。

    そしてこの転がる頭は、家族たちをも食べようとする。これも過度な結合へと向かう様相である。

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    * *

    結合しようとするなら分離する、分離しようとするなら結合する

    ところが、家族たちは易々と食われたりはせず、転がる頭から逃れようとする。分離しようとする。

    このとき、分離する動きと結合する動きが展開する「軸」が、水平方向と、垂直方向、直交する二軸で別々に動くことに注目しよう。

    上昇する
    |
    |
    転がって来る ー ー ー ー 転がって行く
    |
    |
    下降する

    転がる頭は地面の上を、水平に転がってきて、家族たちを食べ=過度に結合しようとする。

    他方、家族たちは、「天に昇って」、つまり垂直方向で分離をしようとする。

    • 水平軸上での分離→結合→分離

    • 垂直軸上での結合→分離

    ここに水平軸と垂直軸の対立、つまり三次元の空間という分節体系が発生する。

    地面を水平面上で転がるばかりの頭は、垂直方向に注意を向けることを忘れている。家族たちがよもや上に昇ったとは思わないのである。

    分離を結合に転じる
    分離するでもなく分離しないでもなく

    ところが「古い人糞の山」なるものが、転がる頭に、上を見上げてみるようにアドバイスをする。

    「古い人糞の山」などというのもその主語的な様相だけみれば、何故にそんなものが突如登場人物として現れて、しかも喋るのだろうか・・・とわけがわからない感じになるが、そういうときは述語的様相をみればよい。

    「古い人糞の山」はもともと人間と不可分一体、相対的に過度に結合していたものである。これが人体の外に排泄されると分離したことになる。しばしば排泄物は、人体から排泄された後、さまざまな方法で処理され、分解され、見えなくなる。その姿は消え、完全に遠くへ分離していく。

    ところが分離した後に、どういう理由があってのことかはわからないが、古くなるままに山のように集めておくと、それは分離しながらも、もともと結合していた身体の近くに付かず離れずとどまる関係に収まる。

    経験的に排泄物は、人体とはっきり結合しているか、はっきり分離しているか、どちらかである。

    Δ分離している / Δ結合している

    *

    これに対して「古い人糞の山」というのは、分離したはずなのに近くにあり、とはいえ結合しているわけではないが、しかし経験的な分離の様相に比べると分離しているとも言い切れない、という曖昧な状態にある。

    Δ分離している / Δ結合している
    ↓
    分離しているでもなく結合しているでもなく
    ||
    β「古い人糞の山」

    というわけで、人糞人糞と、お食事中の諸賢に対しては不躾な主語を連呼してしまったが、これも述語的様相でみれば、「分離しているでもなく結合しているでもなく」ということにつきるのであって、第七末那識の好き嫌いの分別を働かせようとする必要もない。

    ++

    さて、重要なのはこの「分離しているでもなく結合しているでもなく」がこの神話で果たす働きである。「分離しているでもなく結合しているでもなく」の「古い人糞の山」にアドバイスされたことで、転がる頭は、逃げた家族たちの姿を発見して、「追いすがり」、「欲望」し、逃げた「兄弟をもぎ取」り、「股のあいだにはさ」む。追いすがるも欲望するももぎ取るも股に挟むも、すべて過度な結合へと向かおうとする動き、述語的様相である。一旦は、姿を見失うほど遠く分離したのに、「古い人糞の山」の「分離しているでもなく結合しているでもなく」の動きに媒介されることで、遠く分離した家族たちとの間がまた結合する。

    分離 →(分離するでもなく結合するでもなく)→ 結合

    分離モードから結合モードへの転換のためには、途中で「分離するでもなく結合するでもなく」の様相を介する必要がある。

    +++

    さて、そうして「転がる頭」は、ついに目当ての兄弟と、誰に邪魔されることもなくインセスト的結合ができる状態になるのだが、ところがここでまさかの「拒否」である。兄弟は「転がる頭」と結ばれることを拒む。

    インセストという形では、過度な結合は達成されないのである。

    結合しそうでけっきょく分離する。
    結合するでもなく結合しないでもない。
    分離か結合か、どちらか不可得なモードで振動がつづく。

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    燃やして灰にするのではなく、食べる

    インセスト的過度な結合が叶わないと知った「転がる頭」は、急遽作戦変更、「食べてしまう」という形で、過度な結合を遂に達成する。

    ところでこの際、兄弟は「転がる頭」に食べられてしまうのであるが、完全に消化され溶けてしまって「転がる頭」と不可分に一体化してしまうのではなく、「心臓」だけは兄弟の身体から分離されて残る。ただし、心臓だけの姿になった兄弟も、「首飾り」に加工され、「転がる頭」に身につけられることになる。ただし首にぶら下げられるのと(転がる頭に首があるのかどうか謎だが)、食べてお腹に治るのと(転がる頭にお腹があるのか謎だが)では、結合の度合いがちがう。

    *

    何かを食べて消化する、というのは経験的な結合の様相である。Δ結合である。Δ結合、分離か結合か、どちらか一方を排他的に選べるような対立関係の一方にあるようなΔ結合では、神話の分離と結合の伸縮のモードを表現することはできない。

    そうであるからしてこの「食べる=食べられる」は、経験的な食べる=食べられるの様相に比べると、完全に結合するのではない、分離の様相を残しつつ、それでいて分離しきるでもなく結合しきるでもない、どっちつかずの振幅を残す。

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    この分離しきるでもなく結合しきるでもなくという様相を描いているのが首飾りにされた心臓である。

    兄弟は「転がる頭」に食べられるが、しかし、心臓は食べられず、とはいえ食べ残された心臓も、どこかへ放り出され=分離されるのではなく、首飾りにされて肌身離さず転がる頭と結合されたままになる。この結合は食べられたのとは違って、完全に姿が消えてしまうわけではなく、かろうじて二者の分離しながらの結合という様相を保っている。

        首飾り β→ <分離しながらの結合> ←β 首飾りの持ち主
    ||            ||
    心臓だけ        転がる頭
    /           /
    <分離>         <分離>
    /           /
    心臓以外の身体      頭以外の身体

    それぞれ経験的な様相に対して相対的に過度にその身体から分離されている「転がる頭」と「心臓」同士が、分離しながら結合する。

    ちなみに、転がる頭がどうやって首飾りを首にかけているのかはまったく謎である。首から下がないところに首飾りをかけても、落ちてしまうと思うのだが、それは経験的感覚的なΔ世界、分節システムが定常化した世界での分別である。そもそも首だけになっても、動き回り、声を出し、あげくインセストまで(首だけで)どうにかしようとする登場人物たちに、Δ世界の常識であれこれ物を申してもお門違いも甚だしい。


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    空間と時間の分節の設立

    さてさて、この首飾りとその持ち主の「付かず離れず」の関係になった心臓と転がる頭は、「北の川」へ空間を移動し、「大きな湖」に定住し、「夜」になると、「南の岸」に行く、という動きをする。

    ここでさりげなく、南/北、昼/夜、といった経験的に意味ある世界、Δ世界の分節の基本のひとつである時間と空間の分節体系が区切り出されていることに注意しておこう。

    *

    ここから神話は、転がる頭が退治され、心臓だけになった兄が復活するくだりにはいる。

    まず転がる頭を退治する方法である。

    転がる頭は、過度な分離モードから過度な結合モードへ、そして分離するでもなく結合するでもないモードへ、激しく振幅を描いて動き回っている。この転がる頭を退治するとは、ようするにこの動き、振幅を描く動きを止めるということである。

    そのためには、激しく分離と結合の伸縮を演じるβ「転がる頭」に対して、同様に激しく分離と結合の伸縮を演じる別の両義的媒介項βを結合するとよい。どちらも激しく振幅を描いているが、うまい具合に位相が合うならば、互いの振動を打ち消しあって、とまっているようにみせることができる。

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    ここで登場する第二の両義的媒介項は「矢じりはないが先をとがらせた矢」である。経験的感覚的に通常のΔ矢が鏃を結合された棒状のものであるとすれば、鏃を取り外された矢は、

    β分離された鏃 ← Δ経験的な矢 →β矢じりなしの矢

    という具合にして作られた両義的媒介項βである。

    このβ矢じりなしの矢は、単に鏃が取れてしまった棒ではなくて、鏃こそついていないが、しかし先端を鋭く尖らせた矢である。この先端は鏃ではないが鏃のようなものである。このβ矢じりなしの矢は、鏃と分離されているが、しかし鏃と結合しているようなものでもあり、鏃と分離しているでもなく結合しているでもない、といった様相にある。

    神話は、下図の5)に相当する動きを、6)の方から遡って動かすことで、経験的感覚的に安定した対立関係を織りなすΔたちを長く引き伸ばして、二つのβに分離することで、両義的媒介項をつくる。

    そういう意味で言えば、下図は少し描き直した方がよいかもしれない。神話は1)のモードから始まるが、じつはその手前で、前処理が行われていて、6)を5)へと引っ張って、両義的媒介項たちを作った上で、1)について通常のΔ分節世界のものごとを語るのと同じ言語でもって神話を語れるようにする。

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    図2

    いや、さらに細かく言えば、両義的媒介項βを作る方法は、一つのΔを引っ張って、二つのβをつくる、というやり方だけでなく、二つのΔを近づけ、結合し、過度に結合することで、経験的に対立する二極を一体化したような形で両義的媒介項をつくることもできる。ある種のアンドロギュヌスがこれに相当する。

    いずれにしても、今読んでいる神話では、「β矢じりなしの矢」が即席で?用意され、これが「β転がる頭」と結合されることで、図2の5)の様相、二つの両義的媒介項を結合したところで、一つのΔを作る、というやり方で、β転がる頭をΔ世界の存在としての「死者」、現世において生者と対立する非生者として固定するのである。こうして神話の語りのモードから、両義的媒介項たちが消えていき、その分離と結合の伸縮がおさまったところに、6)のモードが浮かび上がり始める。

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    復活から、生/死の分別へ

    さて、家族たちのうち、転がる頭の「姉」にあたる慎ましい方の登場人物が、「水を通さない籠」を水で満たしたものに焼石を放り込み沸騰させる。そしてそれを背負って、湖の「南東」に位置を定める。この火を使わないが激しく沸騰する道具でもってβ心臓になった兄弟を煮込むと、彼が復活するという算段である。

    ここで、水を通さない籠で火を使わずに煮込む、というやり方は、それ自体が両義的媒介項である。なぜなら、調理とは一般に火を通すことだとすれば、この籠は火を使わずに、火を通したのと同じように調理できるからである。これは「火を通さないのに火を通したのと同じ」、つまり、火と結合していないのに、火と結合したのと同じ、ということである。これは分離したまま結合している、結合しているでもなく分離しているでもない、という様相である。そしてこの「結合しているでもなく分離しているでもない」は、先ほどの「β矢じりなしの矢」と同じである。

    つまりこういうことである。

    結合しているでもなく分離しているでもないβ焼石煮込み籠とβ矢じりなしの矢とを、これまたもともと結合していた身体の他の部分に対して「結合しているでもなく分離しているでもない」状態になっているβ心臓とβ転がる頭と、「結合」する。

    それによって両義的媒介項同士を二つ結合してΔを作るやり方で、経験的で感覚的な意味での生者と非-生者を作り出しているのである。

      Δ非-生者
      ↑
    β矢じりなしの矢 → ←  β転がる頭
    ||             ||
    β焼石煮込み籠 → ←   β心臓 
      ↓
    Δ蘇った兄弟(寿命のあるΔ生者)

    β焼石煮込み籠とβ心臓を結合したところで復活=生成したΔ蘇った兄弟について、神話は「しかし、人に戻ったものの、彼は普通ではないようで、さほど長くは生きられなかった。」と語る。

    この「長く生きられない」は、神話的な登場人物たち、頭だけになっても生き生きと活動したり、心臓だけになってもまた蘇ることができるような神話的な神=人の「長生き」に比べれば、相対的に長く生きられなかった、ということである。これはつまり経験的な人間の寿命、Δ寿命のあるΔ生者に、彼はなった、ということである。

    β転がる頭が経験的なよく知られたΔ死者=非-生者になったのとペアをなして、β心臓兄は、経験的によく知られたごく普通のΔ生者になった。

    こうしてこの神話は、生/死の区別の起源、つまり経験的に知られたΔ人間の起源を語ることができているのである。

    「この神話も死者を本当に甦らせることは不可能だと告白して終わっている」(p.165)とレヴィ=ストロース氏は指摘する。経験的な現世のΔ生/死を分節したところで、この神話は語りを閉じるのである。

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    第七末那識を「智」へ転じることの重要性

    この神話に限らずであるが、例えば「転がる頭」とか「積み上げられた人糞」といった言葉が登場してくると、行儀良く衛生的な私のような現代人からすると思わず眉を顰めたくなるものである。読者諸賢も同様でいらっしゃることと思う。およそ主語の位置にあろうが、述語の位置にあろうが、あらゆる言葉、単語は、日常の意味ある世界の意味分節体系を不断に再生産しつづけている私たちの分別心、特にその「第七末那識」〜「感情」が分別する、よい/わるい、好き/嫌い、の対立にかっちり結合されている。例えばランダムに100個、単語を並べて、順番にそれが「好きか/嫌いか」聞いていけば、私たちは大抵の場合、迷わず好き嫌いを言うことができる。

    そうなると、「わるい」「嫌い」の側に分別されたものが動き回るような神話となると、分別心がゾワゾワと刺激されて嫌な気持ちになる、ということになるわけであるが、実は神話はそうと承知でこれをやっている可能性がある。

    鈴木大拙は『浄土系思想論』で、「霊性と云うのは、末那識の上において生じたる転回後の働きである」といったことを書いている(鈴木大拙『浄土系思想論』p.16)。

    転回後の末那識はもはや六識の緊縛を受けぬ、却ってこれを頤使するのである。自由創造の世界が進展して来た。これが法界である。これが極楽である。

    鈴木大拙『浄土系思想論』pp.16-17

    このご指摘はたいへんなもので、まさに、仮に第六意識を不可得モードの智(妙観察智)へ、前五識を不可得モードの智(成所作智)へ転じることができたとしても、末那識の好き嫌いの分節ががちがちに働いていると、それが邪魔をして分別心を絶対無分節の「霊性」へと転じることは叶わない、というのである。

    神話のこの、一見すると気味の悪いもの、不衛生なもの、まさに第七末那識の「嫌い」センサーを鋭く刺激するものたちを畳み掛けてくる感じは、みようによっては第七末那識を平等性智に転じるための加持のようなことなのかもしれない。

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    こうなると、分離する述語、結合する述語、分離と結合の述語的様相にフォーカスして、主語的なものの与える好き嫌いの印象に引っ張られないようにするということは、第七末那識を平等性智に転じる練習になりそうである。

    神話の語りは、経験的に意味ある世界の起源を説明するためのものであるという。

    経験的に意味ある世界というものが、対立関係の対立関係の対立関係を組み合わせた意味分節システムであるとすれば、この分節システムの起源を語るために、この分節システムがまだないところを言語化することから始めざるを得ない。そうなると分別心が分別をできるようになる手前、つまり「絶対無分節」のモードで言語的思考を展開せざるをえなくなる。

    絶対無分節モードで言語を使おうと思うと、一見すると主語的なものたちが所与ですよという顔をしながら静かに並んでいる線形配列をそのまま転用、ブリコラージュして、分離と結合を分離したり結合したりする述語のマンダラを描くように使わざるを得ない。

    仏教は、どうにかして分別を離れようとさまざまな道を探りながら(離れるでもなく離れないでもない)迷いを破り覚りの境地に至ろうとする。

    神話は、分別する心を転用流用して、分別する心の分節する言語の空間に、分別がまだないところの動きが投げかける波紋のようなパターンの影を浮かび上がらせてみようとする。どちらも分別の仕組みを転じて・転用して・ブリコラージュして、無分別の分別、無分節の分節に即してみようとする。

    古来、神話の語りを祭りや通過儀礼の場に限定し、日々の暮らしの中で無闇に語ることを避けてきた部族もあるという。日常の経験的で感覚的な現世というものが、図2の6)、静止しているようにみえる分離と結合の動きが均衡した分節システムであるとしたら、それを引き延ばしたり縮めたりぐにゃぐにゃとうごかす神話の語りは、その分節システムの均衡を揺るがして、壊してしまうこともある。そういうことは避けておきたいところであろう。

    それゆえ、神話の語りは、日常の分節システムが揺らいでしまったときに、この揺らいだ分節システムを改めて再生させるためのしかけとして呼び出される。子供が大人になるとき。子供なのに大人、大人なのに子供のモードを通り抜ける。日照時間がどんどん短くなって昼と夜の均衡がくずれ、昼が夜になってしまいそうになる。そうしたときに、すでに揺らいでしまった経験的な分節システムの均衡と調和を回復するために、一旦分節システムを図2の1)〜4)あたりの動きで伸縮させて、改めて、付かず離れずに均衡した分節体系、対立関係の対立関係のネットワークを編み直すのである。

    +

    ここでレヴィ=ストロース氏による興味深い一節をみてみよう。

    「糞」と「灰」が同じだと言うのである。

    「M555bからM545bへと、情報提供者の役割が灰から糞に移行するのはまさにこの解釈と合致している。というのも、いっぽうでは大火が、もういっぽうでは人喰い――つまり、食糧消費の一形式――が問題になるのだから、灰と大火の関係は、糞と人喰いの関係に等しいことになる。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.165

    灰 〜 大火の関係
    糞 〜 人喰いの関係

    この二つの関係が「等しい」と言うのである。

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    神話では、灰も糞も、逃げる家族(分離しようとする)の居所を、追いかける加害者(結合しようとする)に教える役割をする。つまり分離しようとする者と、結合しようとする者の間の関係を、分離モードから結合モードへと転換するところで、灰と糞は分離を結合に転じるという決定的な動きを動かしている。

    分離と結合の伸縮が意味ある世界を発生させるという野生の思考の論理において、分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動き、つまり分離と結合を分離したり結合したりする動きは、きわめて根源的なアルゴリズムであるが、このアルゴリズムの述語的様相を言語化しようというときに、仮に連れてこられる主語的なものが灰であり糞である。

    大火は、すべてのものを焼き尽くして、区別なく一つに、灰という姿へと、分離を結合に転じる。そして食べること消化することもまた、食べ物をすべて溶かして、あれこれに分離していたものを区別なくひとつに、糞という姿へと、分離を結合に転じる。

    逃げる者と追う者、つまり分離しようとするものと結合しようとするものとの関係を、分離から結合へと転じる。そのときに消化と大火において「分離が結合に転じられた姿」そのものである灰や糞が、分離を結合に転じる述語を引き受ける主語の位置を担うのである。

    今までの議論はさまざまなことを教えてくれる。まず、形式の分析という観点からすると、対称性には数多くのさまざまなタイプがあり、神話的思考が一連のヴァリアントにつぎつぎと変形をこうむらせるとき、その変形に各状態の独創的容貌は保たせながらも、神話群の統一性は守らせるために、こうした対称性を用いることが明らかになった。

    クラマスとモドックのヴァージョンはわれわれにとって出発点となったが、すでにそれらのヴァージョンにおいても、おたがいがいくつもの軸の上で反転しあっていた。彼らのパラダイムは隣接する部族のイデオロギーによって変形され、そのスクリーン上にそれに見合うイメージを投影するが、そうしたイメージ全体の構造はいつも同じ変形群に属している。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.166

    神話では、いったい何故にそれなのか、いくら考えてもよくわからない感じがする登場人物たち、主語たちが登場する。ここで、なぜこの主語なのか、なぜあの主語なのか、という答えの見つからない問いの連鎖から離れて思考する上で、鍵になるのは「形式の分析という観点」、つまり本稿の用語で言えば、図2、分離と結合の伸縮モードに注目をするということである。

    形式、分離と結合の伸縮に注目すると、主語的なものたちが「対称性」を示していること、つまり対立関係が見えてくる。神話の語りにおいては、主語的なものたちは単独で登場しているようでいて、かならずそのペア、相手方をもっている。

    しかもこの対立関係は、分離と結合を分離したり結合したりする動きを、経験的な記憶に託してイメージさせることができるものの組み合わせであればなんでもよい。こうして「対称性には数多くのさまざまなタイプがあり」ということになる。しかもその対立関係にある二項の組み合わせは「つぎつぎと変形」していく。

    こうなるとなんでもありになってしまいそうであるが、神話はそうはならない。その主語的なものの組み合わせがどう変わっても、「イメージ全体の構造」が「いつも同じ変形群に属している」ようにみえるのが神話である。

    神話は、分離と結合を分離したり結合したりする動きを、仮にここで図2に整理したような諸モードを切り替えながら動かし続けるために「対称性を用い」ていく。この対称性ということ自体、分離と結合の伸縮する動きが、言語の意味分節体系に振動をかけたときに、そこから浮かび上がってくる言葉たちの姿なのである。



    つづく


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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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