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「おじいさんは山へ…」、動物のように弓矢で狩猟される「タバコの木」から親族構造が起源する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(118_『神話論理4 裸の人』-15)

    クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第118回目です。『神話論理4 裸の人1』の第二部「こだまのゲーム」を読みます。

    前回の記事はこちらです。

    前々回の記事はこちら。

    前回までの記事を読まなくても、今回だけでお楽しみ(?)いただけます。


    経験的な区別が概念の道具となる

    レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

    「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

    経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったいどういうことだろうか?

    まず「経験的感覚的な区別」について。

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    図1

    仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ結合したもの(Δ1=Δ2)を、ひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。

    下図のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

    Δ1 寒い / Δ4 寒くない
    ||       ||
    Δ2 わるい / Δ3 わるくない

    といった具合になる。

    私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源

    私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界は、二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。

    人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。

    Δ自 / 他Δ
    Δ生 / 死Δ
    Δ好き / 嫌いΔ
    Δ因 / 果Δ
    Δある / ないΔ
    Δうまい / まずいΔ
    Δ高い / 安いΔ
    Δ遠い / 近いΔ
    Δ内 / 外Δ

    これらの区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。

    区別があること / 区別がないこと
    分節 / 無分節
    分かれてあること / 分かれていないこと
    分離している / 結合している
    一である / 多である
    同じである / 異なっている
    区別すること / 区別しないこと
    分離すること / 結合すること

    そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。

    マンダラ

    そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係、

    Δ=/=Δ
    ||    ||
    /  /
    ||    ||
    Δ=/=Δ

    という姿が定常的に安定して浮かびあがり得るように均衡している状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

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    二項対立関係の対立関係、四つのΔの均衡を保つためには、この四つのΔを、互いに区別できないように混じり合ってしまわないように分離する一方で、離れすぎてしまってペアになっていることがわからなくなってしまわないように結合するという、分離しつつも結合し結合しつつも分離する動きが動いている必要がある。この分離する動きと結合する動きを表現する述語を引き受ける主語の位置を占めうるものが、図1にβと表現した項、両義的媒介項である。

    主語的なもののペア、述語のペア、分ける述語と分けない述語のペアを分けるでもなく分けないでもなく

    例えば、弘法大師空海は『吽字義』で、

    • 因 / 果

    • 有 / 無

    • 損減 / 増益(生/滅)

    • 我 / 非我

    という四つの分別・二項対立と、

    • 因/果を分けるでもなく分けないでもない

    • 有/無を分けるでもなく分けないでもない

    • 損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない

    • 我/非我を分けるでもなく分けないでもない

    という四つの分けるでもなく分けないでもない、分離しきるでもなく結合しきるでもない、分別無分別どちらか不可得なモードとを、二重化した心のモデルを示している。

    およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかし、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)。この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、分離しながら結合し結合しながら分離する、非同非異、二辺を離れるでもなく離れないでもない「空」ということを覚るべしと教えるのである。

    転識得智

    仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない表層の分別心ゆえに人間は迷い、苦しむ。そこでこの「心」を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなくというモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。

    特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

    ユングによる意識の四機能

    ここで人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。

    ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

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    • 「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になるという。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。

    この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。

    • 「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別

    • 「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別

    • 「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別

    • 「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別

    多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどちらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。

    この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。

    そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層(自覚できるところとしては、前五識=感覚の分別=なにがあってなにがないのかの分別、第六意識の分別=思考の分別=ある何かがなにであってなにではないのか、ある何かは何であるべきで何であるべきではないのか、の分別。)の固着した様相である。

    一方、心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し、結合しつつも分離するという伸縮自在な動きを表している。

    この分離と結合の伸縮自在なこころの深みの動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。

    *

    神話や夢は、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影である。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
    夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。

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    • 前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ

    • 第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ

    • 第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ

    • 第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ

    この神話と夢と仏教、その他、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。

    マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。

    マンダラは動いている

    この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。

    マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

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    図1再掲

    マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

    図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節することを可能にしている二項対立関係の項である。

    一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、つないだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせたり、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。

    両義的媒介項

    両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。

    こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

    そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。

    分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

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    図2

    神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動

    神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

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    1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。

    2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。

    4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

    5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

    「/」(分ける)と「||」(結ぶ)は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する述語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。そして「=/=」と表記した様相においては分離しつつ結合し、結合しつつ分離する、分離することが結合することでもあり、結合することが分離することでもある、という関係になる。

    +

    この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。

    例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

    「分けるから分かれる」 —意味分節の起源

    意味分節というと、人間の主観と客観との分節を所与のものとみなした上で、主観の側の、主観の内部の何かなのではないかと考えられる向きもあるが、ここでいう意味分節はそうした主観内部の話ではない。主観/客観の分節もまた、人間が経験的に意味ある世界を理解しようとする時に用いるひとつの意味分節の最小構成単位なのであると考えてみたい。これは主/客にとどまらない。空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。

    主/客
    生/死
    遠/近
    内/外
    有/無

    こういったこともまた、分けるから分かれるのだ、となると、もしこれらを分けない、いや、分けるでもなく分けないでもない境位に入ることができるなら、そこで私たちの「心」は一体なにを経験することになるのだろうか?!

    神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

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    上記を、冒頭の転識得智の図に統合して、仮に下記のように描いておこう。

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    起源神話 —区別があること、それ自体の起源

    神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。

    例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。

    A  /  非-A

    こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。

    そしてこの区別が、神話では、

    結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

    という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。

    神話の語りを分析する

    私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

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    主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。

    神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。



    *

    今回もレヴィ=ストロース氏の『神話論理4 裸の人』から、一つの神話をみてみよう。「M169 ワスコ タバコの起源」という神話である。

    この神話も、前回の記事で取り上げた話と同じで、神話的な登場人物が自分の口で自分の体をむしゃむしゃと食べてしまって、ついに頭だけになる、という話である。

    + +

    M169 ワスコ タバコの起源

    コロンビア川の右岸、ザ・ダルズから約五キロ下流に、矢じりづくりを専門とする石研ぎ職人が住んでいた。

    ある日、仕事の最中に彼は指を切ってしまった。
    その血を舐めるとあまりにおいしかったので、彼はやめることができず、自分自身をむさぼり喰って
    しまった。

    彼の身体は骸骨だけとなったが、肩の後ろに、届かなかった肉の切れ端、そして肋骨のあいだに、ぶらさがった心臓だけが残っていた。

    人喰い鬼となった彼は、隣村の住人に襲いかかって彼らを食べようとした。彼の骨は不死身なので、誰も彼を殺せなかった。

    *

    彼の妻は、幼い息子を連れて、足跡を残さぬよう草の先だけをかすめるように空中を歩いて、南に逃れた。

    しかし人喰い鬼は追跡を開始した。
    そして、彼女が青い山のふもとの家に避難したときには、ほとんど追いついていた。

    家の入り口の両方に、弓矢のつくり手である老人と、タバコ入れを製造するその娘が位置した。

    骸骨は恐ろしい北風に運ばれてやって来た。

    老人は護ってくれと哀願する逃亡者を背後に隠し、骸骨が矢を踏みつけ粉々に砕いてしまおうと躍起になっているすきに、長い矢じりで彼の心臓を射抜いた。

    すぐに、骸骨はバラバラになり、地上に骨の山だけが残ると、風もやんだ。

    老人は女に、骨を外に捨ててしまうよう命令した。

    その家を見おろす丘は野生のタバコで覆われていた。

    老人は日がな一日矢じりをつくり、矢筒がいったん満たされると山に登った。彼は矢筒を空にして、だが手にはタバコをいっぱい抱えてまた山を下ってきた。

    彼と娘はもっぱらタバコの煙で生きており、管の延長上に開いた火皿がついたパイプを使っていた。実はこの男は狩人だった。が、タバコの民だけが彼の獲物となっていた。

    *

    女とその息子は長いあいだ、この家の主人たちのもとで暮らした。子供は大きくなると、母親のためにリスを狩り始めた。ある日、彼は老人のあとについていって、老人が険しい岩場に出入りするタバコを狩っているのを見た。

    彼は老人をまね、最初の一矢で五束倒した。老人は踊り上がって喜んだ。
    というのも、彼も今までこれほどの成果を上げたことがなかったからである。彼は娘を妻として少年に与えた。

    「だから、これからは人々はすぐれた狩人を婿に選ぶことになるだろう」。

    タバコが豊富に手に入るようになったことに満足したものの、老人はそこに、近い将来の死の兆しを見た。そのあいだ、婿はタバコを狩り続け、家をタバコで満たした。

    そして、彼は、妻と母を連れてコロンビア川に戻ることを決めた。しかし生まれた村にはもはや、父の犠牲者の骸骨しか見いだすことができなかった。魔力を使って、彼はそれをすべて生き返らせることができた。

    母親は年老いていった。
    そして、毎日、嫁から食糧をもらっていた。
    主人公は、これからは若い女はこれと同じように義母の世話をするようになるだろう、と告げた。

    最後に老女は、「娘」(嫁?)といっしょに南の方に行き、そこでふたりとも女シャーマンの守護霊になって、彼女たちにタバコを吸う権利を授けることを決めた。いっぽう、息子は(北の方で?) 幸福な狩人の守護霊となることにした (Sapir 1, p. 246-248)。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.169-170

    この神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

    「女主人公が転がる頭に変身することが自己喰いの起源と結びつけられ、それが食事の様式において、ほかのヴァージョンにおける性的インセストの等価物になっていた。」

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.170

    主人公が自分の口で、自分の四肢から胴体まで、およそ口で齧ることができる範囲の自分の身体をたべてしまう。しかし、自分の口では、自分の首や肩のあたりよりも上の部分を噛むことはできず、残る。

    こうして主人公は「転がる頭」という神話によくある両義的媒介項βの姿に変容する。

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    自分で自分を食べるとすると、最後に残るのは?!

    経験的感覚的に一体性同一性を保っているように感じられる存在者(Δ)を、ながく引き延ばすように二つの部分に分離することで、二つの両義的媒介項βを作り出す、ということがしばしば神話の語りでは行われる。

    β首から下の食べられた部分 ← Δ(経験的な全身)→β 頭だけ

    もちろんこの見立てだけでは一面的になる。神話においては引き伸ばして分離することは、縮めて結合することと置換可能なのである。

    つまり、一つの身体の上と下へ、付かず離れずに分離しつつ結合していた「Δ頭」と「Δ頭以外」とを、前者が後者を「たべる」という述語的様相でもってぎゅっと、過度に結合し、そうして「転がる頭」という両義的媒介項βをつくった、といってもよい。

    Δ頭 → β転がる頭 ←Δ 首から下

    どちらかといえばこちらの見立てのほうがしっくりくるかもしれない。

    そしてここでレヴィ=ストロース氏が書かれていることに戻ってみよう。

    転がる頭の「自己喰い」は、「性的インセスト」と等価であると書かれている。性的インセストというのはこれは神話では、兄弟姉妹間が結ばれるということである。

    兄弟姉妹の関係も、一人の人の頭と首から下の関係とよく似ていて、ひとつに結合(かたや一つの家族、かたやひとつの身体)しているが、男/女であるとか、年長/年少、上/下、天に近い/地に近い、といった対立においては分離している。つまり最小で二つの軸上で、一方では結合し、他方では分離している、という具合に、つかずはなれずになっているが、しかし同じ家族であるという点で他所の家族の間の男/女の関係に比べると相対的には結合しており、しかも結合しているのに「結婚」はしてはいけないという点で分離されている。分離する動きと結合する動きがつよい緊張関係にあるのが兄弟姉妹関係である。そこに「インセスト」タブーの侵犯が起きると、分離と結合の過度な伸縮が惹起される。

    自分の口で自分の首から下を食べてしまうことと、兄弟姉妹間でのインセストタブーの侵犯は、どちらも付かず離れず、分離しつつも結合し結合しつつも分離していたところを過度な結合に転じる動き=述語的様相である。この付かず離れずを過度な結合に転じる動き〜述語的様相の主語の位置に据えられるのが両義的媒介項βである。

    Δ → β ← Δ

    これは図2でいえば、6)経験的感覚的な現世の安定した分節システムを一挙に1)の場に変換、写像する処理である。

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    図2

    経験的感覚的Δ対立関係をブリコラージュして、分離と結合の伸縮を言語に託す

    神話が人間の言語、日常会話と同じように何の話をしているのか意識ある人間どうしが一応理解できる範囲の言葉でもって語られる以上、「天が上で地が下」といった類の二項対立の組み合わせ、を出発点にして、そこから始めざるを得ないし、徹頭徹尾、ありとあらゆる経験的感覚的な分別=意味分節システムを織り上げている二項対立関係の安定性を前提しないかぎり、語り手と聴き手のあいだの言語的コミュニケーションは成立しない。

    そうであるからして神話の語りも、ふつうに聞いたり読んだりする限りは、日常の言葉と変わらぬ姿をしていなければならず、図2の6)の対立関係の対立関係を定常化した意味分節の最小構成単位たる四項関係をいつもいつも同じようにパッと出してくる言葉のあり方から離れるわけにはいかない。

    とはいえ、あらかじめ分節済みであるかのようなあり方をしているΔ二項対立の組み合わせを前提にしたところで、あれこれのΔをひとつずつ選び出しては線形に並べていく、というやり方をしているだけでは、語りは経験的感覚的にリアルに意味ある世界の「外」を表現することが難しくなる。

    そこで、神話は、図2の6)のモード、安定した二項対立関係の対立関係たる四項関係を織りなすΔ項たちのあいだを、自分の口で自分の体を食べるようにして過度に結合する動きを動かすことで、見た目は通常の経験的感覚的世界を安定して分節するありかたと寸分かわらぬ言葉のあり方を保ったままに、一挙に図2の1)のモードをシミュレートする、「もどく」ことをする。

    このことをレヴィ=ストロース氏の用語を借りるなら「ブリコラージュ」という言葉で呼んでみたいとおもうところである。

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    図2の6、経験的感覚的に定常化した意味分節の最小構成単位を「ブリコラージュして」(=適度に分離しているところを過度に結合したり、適度に結合しているところを過度に分離したりして)、分節以前、分節と無分節の分節の以前でもなく以後でもない、絶対無分節の分節と呼ばれるようなことを言葉にしようとする。それが神話であり、目覚めて想起された夢、なのかもしれない。そこでは過度に結合された=圧縮された主語たちがうごきまわり、あちらこちらと過度に結合したり過度に分離したりすることで絶対無分節の分節を表現する。

    + +

    以上を踏まえ、上掲の神話をくわしくみてみよう。

    冒頭、「コロンビア川の右岸、ザ・ダルズから約五キロ下流に、矢じりづくりを専門とする石研ぎ職人が住んでいた」とある。ここでは「川」つまり、山/海の分節、水界/陸界の分節、左/右の分節、上流/下流(上/下)の分節、そしてさらには天然の石とそれを研いで作られた鏃の区別、つまり自然/文化の分別までが、すでにひととおり分節済みであることが宣言される。

    つまりこの冒頭の一節では、この神話は、わたしたちにとって馴染み深いこの現世、経験的で感覚的にリアルな世界を意味分節する諸々の二項対立関係が、すでに分節済みである世界のことを語っているのである。図2でいえば6)である。

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    自分の口で自分の首から下を 

    ところがここで、Δ→β←Δ式の方法で、経験的に安定して付かず離れずになっている二項対立関係の両極をひとつにぎゅっと潰すようにして、両義的媒介項が作られる。

    この石研ぎ職人、鏃作りの主人公は「ある日、仕事の最中に彼は指を切ってしまった。その血を舐めるとあまりにおいしかったので、彼はやめることができず、自分自身をむさぼり喰ってしまった」ということになる。

    ここでご丁寧に、「彼の身体は骸骨だけとなったが、肩の後ろに、届かなかった肉の切れ端、そして肋骨のあいだに、ぶらさがった心臓だけが残っ」たという描写が続く。つまり口が「届かない」ところ、口でかじりつくことができない部分、口と経験的に「結合できない」ところが残った、ということを念押ししているのである。彼は「転がる頭」であるが、頭だけではなく、その首から下、肋骨のあたりや心臓も齧り残っているのである。

    過度な結合へ

    さて、こうしてとんでもない姿に変容した主人公は、自分の体だけにとどまらず「隣村の住民」たちまで食べようとする。迷惑な話であるが、ここは神話である。現世の分別よりも、激しい分離と結合の述語的様相をイメージさせることの方が急務である。

    隣村の住民というのも経験的感覚的にリアルな現世における「付かず離れず」の典型であろう。この付かず離れずに分離している人たちとの間も、「食べる」ことで過度に結合しようとする図2の1)の様相である。

    分離の始まり

    さてこのひとしきりの過度な結合ののち、分離する動きが出てくる。

    彼(頭だけの人食い鬼)が人間だったときの「妻」と「幼い息子」がこの惨劇の場から逃げ出していくのである。元いたところから逃げることは、元いたところから分離して、別のところと結合しにいく動きである。

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    ここで「彼の妻は、幼い息子を連れて、足跡を残さぬよう草の先だけをかすめるように空中を歩いて、南に逃れた」とあるが、まずこの「空中を歩く」という逃走の方法がおもしろい。ここでは経験的感覚的な、天/地、地上/空中の分節が緩くなっている。とはいえこの妻、空中を歩くと言っても、天高く飛翔するわけではなくて、足跡が残らない程度に浮かぶ、ちょうど初期設定のドラえもんのような浮かび具合である。

    Δ天 → β歩ける空中 ← Δ地

    天に登ってしまった、というと、単にそれだけではその天はΔ天になってしまう。あくまでも天地のあいだで、どっちつかずの場所、天でもなく地でもないところで動いているという様相を描く必要がある。

    つまりこのとき、妻もまた天でもなく地でもない領域の動きの主語の位置を担う者、両義的媒介項βになっている。

    両義的媒介項である夫と両義的媒介項である妻の間を、追う/逃げる、結合を分離に転じようとする/分離を結合に転じようとする、という二つの真逆に対立する動きが伸縮させる。

    鬼ごっこ

    このβふたり、β転がる頭になった夫とβ天でもなく地でもない領域を空中歩行する妻とが「鬼ごっこ」を展開する。β妻は逃げ、β夫は追いかける。

    鬼ごっことは、追うものと追われるものとの間が、近づいたり離れたり、分離を結合に転じようとするもなかなか結合せずに分離したり結合したり、伸縮する動きである。鬼ごっこは図2の2)、3)の様相を経験的感覚的な言語で語るときにじつに具合の良い表現である。

    そうして鬼ごっこはクライマックスを迎える。

    あわや結合!過度な結合!
    追いつかれ、食べられる!

    といったところで、この過度な結合に向かう動きは、一挙に分離へと転じられる。

    *

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    逃げるβ妻は「青い山のふもとの家」に逃げ込む。

    その家には「弓矢のつくり手である老人と、タバコ入れを製造するその娘」という二人の人物がいる。二人は「家」の「入り口」の「両方」に陣取る。そして背後にβ逃亡者たちを隠す。

    そこへβ転がる頭が「恐ろしい北風に運ばれて」、つまりすごい勢いで過度に結合してくる。

    * *

    ここでβ転がる頭は「矢を踏みつけ粉々に砕いてしまおうと躍起にな」るという動きをする。妻を探す前に、まず「矢」を「粉々に」なるまで「踏みつけ」ようとする。もともと矢じり職人であった彼が、「矢」を踏みつける=矢と過度に結合することで、結果として「粉々に」バラバラになった状態のものを析出する。

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    過度な結合(踏みつける動き)から転じて、分離の様相(粉々になった矢)が出てくる。図2の2)や3)の様相が、4)のバラバラに安定的に分かれた状態へと転換する気配がある。


    矢の破片← (β転がる頭→<踏みつける>←β矢) →矢の破片

    そしてこの「粉々になった矢」という図2の4)の様相が浮かび上がり始めた瞬間に、「弓矢のつくり手である老人」は、β転がる頭=骸骨の「心臓」を狙ってそれを射抜く。

    心臓を射抜かれたことでβ転がる頭=骸骨も、バラバラになる。

    β転がる頭とβ矢との過度な結合(射抜く=射抜かれる)を通じて、「バラバラ」になった骨という分離した様相が出てくる。

    これは先ほどの、β転がる頭が矢を踏みつけてバラバラにした動きと同じ動きである。


    バラバラの骨← (β転がる頭→<射抜く>←β矢) →バラバラの骨

    どちらもβ矢とβ転がる頭とのあいだの過度な結合であるが、前者では矢の方がバラバラに分離し、後者では転がる頭の方がバラバラに分離する。

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    話の都合上、二段階での処理になるが、β転がる頭とβ矢、二つの両義的媒介項が過度に結合し(踏みつける、射たれる)、そこからバラバラ粉々、分離の様相(図2の4))が浮かび上がってくる。

    Δ
    ↑
    β =/= β
    ||     ||
    Δ←/    /→Δ
    ||     ||
    β =/= β
    ↓
    Δ


    *

    おじいさんは山へ柴「狩り」に?

    さて、β転がる頭がバラバラの骨になると、風も止み、世界には静けさがもどった。

    ここで場面は、弓矢作りの老人と、その娘、そして逃げてきた女性とその息子、この四人が活動するくだりになる。

    まずこの「青い山のふもとの家」を見下ろす丘の上には「野生のタバコ」が群生していた。

    弓矢作りの老人は、弓矢を、矢じりも自分でつくり、矢筒をいっぱいにする。その矢筒をもって山に行くと、どういうことだかいっぱい入っていた矢は一つ残らず山に残して、代わりに矢筒にタバコの葉を満たして帰ってくる。

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    野生の葉タバコを採集するのに、動物を狩るための弓矢は必要ないように思われるが、ここは神話である。そしてまだ経験的感覚的にリアルな二項対立関係は定常化していない。

    どうやらおじいさんは、まるで動物を狩りにいくようにして、植物であるタバコの葉を採集してきているのである。

    それもそのはず、このタバコ、その煙こそがおじいさん一家のほぼ唯一の食料だったのだ。「彼と娘はもっぱらタバコの煙で生きており、管の延長上に開いた火皿がついたパイプを使っていた。実はこの男は狩人だった。が、タバコの民だけが彼の獲物となっていた」というのである。

    経験的には植物ではなく動物であるはずの「獲物」が、ここでは植物なのである。

    ここでタバコが、経験的なΔタバコではなく「タバコの民」、つまり植物でありながらも人間であるという、β両義的媒介項であることがしっかりと言及されている。

    Δ人間 →  βタバコの民 ← Δタバコ

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    タバコ「狩り」について、レヴィ=ストロース氏は次のように書かれている。

    あちらこちらを遍歴している途中で、造化の神たちはタバコの木を見つけた。その木の太い枝は、振り子運動で通りかかったすべての人を殺していた。あるいは、同じことだが、その木のタバコには毒があった。

    造化の神たち、あるいはそのうちのひとりが、あるヴァージョンによれば矢じりを調整する道具で木を倒し、これからは、 タバコにはもう毒はなくなり、人々は支障なく喫煙できるようになるだろう、と宣言した(シュスワップ)。

    チルコーティンのヴァージョンは道具を使わず、代わりに、ステッキを斜めに据えることで、造化の神は身体の上に落ちてくる木を逸らしている。

    トンプソンは木に死の影を与えているが、コヨーテが石のパイプをつくってから葉を集め、それを吸うと、葉は以後タバコに変わった。

    だから、今日、石の矢じりが獲物にとって毒だとするなら(しかし、狩人の観点からすれば有益である)、かつてはタバコが人間にとって毒だったのである。

    そして、矢じりを調整する道具こそが、タバコから毒を抜き、タバコを矢と同じ程度に、しかしそれを補完する領域で、同じ獲物の狩りに対して強力な補助者とすることができた。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.172

    「造化の神たち」というのが、今回の神話でいえば「青い山のふもとの家」の老人とその娘、そして身を寄せている母子である。

    彼らが山で獲っている「タバコ」は、経験的に感覚的な現世のΔタバコではなく、タバコであってタバコではないβタバコである。

    それは別の神話では端的に「毒がある」と、つまり経験的感覚的に現に存在する我々Δ人間が喫することができるような代物ではない、といわれることもある。

    この人間にとって「毒」であるβタバコ、動物にとっての「矢」と同じような、それと結合することが「死」に直結するような在り方をするβ両義的媒介項が、「造化の神たち」によって「倒される」ことで、図2で言えば5)のモードで、そのポジションをβの位置からΔの位置へとずらされることで、「毒はなくなり、人々は支障なく喫煙できるようになる」。

    この生死を転換してしまうほどのβを、生/死をはっきり分けて、生の極を保ったまま脅かさないΔへと変換するために、神話はさまざまな文化の道具を引き合いに出す。

    石のパイプにして矢じりを調整する道具であったり、弓矢に関連する道具であったりと、それらは特に、自然の領域の動物に死を与えつつ、それを人間に食料としてもたらすことで人間に生を与える道具たちである。動物と人間、獲物と狩猟者、生と死を分けつつ、完全に分離したり隔絶したりすることはなく、一方から他方へと一方通行で通り道を開く道具たちである。

    生 / 死
    ||   ||
    人間 / 動物
    ||   ||
    食べる人 / 食べられる肉

    ←←←(矢)←←←

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    *

    親族構造の起源

    さて、この家で暮らすことになった、転がる頭の元妻とその息子であるが、彼女らはタバコの煙だけでは生きられず、肉も食べる必要があった。成長した息子は「母親のためにリスを狩り始め」ることになる。

    成長した息子は、「青い山のふもとの家」の主、山でβタバコの民を狩猟して生きる老人のあとをついて、一緒に狩りにでるまでになった。

    そして「彼は老人をまね、最初の一矢で五束倒」すという成果を上げる。やはりタバコの木を射て倒すというのは奇妙な感じがするが、それでよいのである。

    さてこの「最初の一矢で五束倒」すというのは、長年タバコ猟師(?)としてやってきた老人からみても大変な成果だったらしく、「老人は踊り上がって喜」ぶ。そうして彼が娘と結婚することを認める。

    ここで山でタバコ狩りをする老人は、意味深なことをいう。

    「だから、これからは人々はすぐれた狩人を婿に選ぶことになるだろう」

    これは要するに、結婚の起源、結婚という社会制度、親族構造の起源、親族の基本構造の発生である。

    親族構造が起源するということは、図2における6)のモードを定常的に発生させることができる5)のモードがリズミカルにテンポよく常時稼働した状態になる、ということである。

    現世の起源もいよいよちかい。

    ここで神話の語りは仕上げにかかる。

    「タバコが豊富に手に入るようになったことに満足したものの、老人はそこに、近い将来の死の兆しを見た」という。β老人はこれより後に展開するΔ世界の表舞台からは、姿を隠すということである。まさにその通り、図2の6)の世界、Δ四項関係が安定化した世界では、両義的媒介項βの姿は隠れ、みえなくなる。深層の方へ、図2で言えば4)の方に留まり続けるのである。ここで婿は、たくさんのタバコを狩って、表層に対する深層の世界へ入っていく、いや深層の世界に残る義理の父への置き土産にする。ほぼ無尽蔵のタバコを得たことで、この老人、「死の兆し」などと言ってはいるが、実は深層で生き続ける、というか不生不滅、Δ生/Δ死の分別をも超えるのである。

    +

    これに対して、老人の家の婿となった少年とその妻(老人の子にあたる)、さらに婿の母親の三人は図2の6)、表層の経験的感覚的に意味ある世界の方へと出ていく、残っていくことになる。

    三人は、婿とその母がもといた村、つまりβ転がる頭に破壊された村へと向かう。

    破壊された村にはだれもおらず、β転がる頭の犠牲者たちの「骸骨(β)」が散らばるばかりであったが、三人は、「魔力を使って」、村人たちを「すべて生き返らせることができた」、という。神話ではこういうことがよくある。一度や二度死んでも、魔力でもってすぐに生まれ変わる。なぜなら彼らはΔ生/死の分別の手前の存在、両義的媒介項だからである。両義的媒介項ならば、生/死のような経験的な区別の二極の間を自在に分離したり結合したり、反転させたりすることができる。

    これは経験的感覚的に意味ある世界ではあり得ないことなので、どうして神話がこうも軽々と生/死のあいだを転換できてしまうのかと訝しく思うところであるが、実は生/死の区別もまた、図2の6)、経験的感覚的にリアルに意味あるΔ四項関係の上での分別であり、ひとたび表層の分別心を離れることができるなら、生/死の分別を超えて、絶対無分節の分節、不生不滅、阿字本不生の境地へと切り替えることができ、そこでは生/死は分かれるでもなく分かれないでもないことになる。

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    ところで、ここでこの三人は深層の絶対無分節の境地に入り込もうというのではなく、逆にΔ表層世界に出てこよう、Δ表層世界の分節体系を安定的に建立しよう、という方向で動いている。彼らがやりたいことは現世を起源させることなのである。 

    ここで神話は親族構造の起源の念押しをする。

    まず、三人のうちの最年長、β転がる頭の妻だった女性は、年老いていく。

    老/若、生/死の分別があり、生老病死がある世界である。

    そうして年老いた彼女は、嫁(もともとタバコの煙だけで生きていた人)から食料をもらって生きる時間を過ごす。

    ここで次のような宣言がなされる。

    「これからは若い女はこれと同じように義母の世話をするようになるだろう」

    嫁姑問題の渦中にある方からすると、何を余計なことを!と思われるかもしれないが、ここは親族構造の起源を語っているのであるから、これを言わないと、この現世、対立関係が織りなす分節システムとしての現世は発生しない。

    + +

    そうして神話はいよいよクライマックスへ。

    「最後に老女は、「娘」(嫁?)といっしょに南の方に行き、そこでふたりとも女シャーマンの守護霊になって、彼女たちにタバコを吸う権利を授けることを決めた。いっぽう、息子は(北の方で?) 幸福な狩人の守護霊となることにした」

    この神話では、三人は普通のΔ人間になることなく、最終的には守護霊になる。とはいえ「南の方」といことで現世の空間、時間の分節システムの中に、その収まるべき位置を確保している。

    女性シャーマンの守護霊であり、幸福な狩人の守護霊である。

    ここで守護霊と神がちゃんと区別されていることに注意しておこう。

    守護霊もまた、アニミズム的な日本人の感性からすれば、神のようなもの、八百万の神であるが、これらの神のおおくは、神といってもΔ神、経験的感覚的な人間が「神である/神でない」と分別できる限りでの、現世における対立関係のうちの一項としてのΔ神で(も)ある。守護霊は、経験的で感覚的な世界の中で、私たちと一緒に、その傍らに存在する存在者である。

    一方、不生不滅の神は、強いて言えばβ神である(このような呼び方自体が的外れであるが、説明の都合上、Δ神との比較のために仮にそう呼んでおこう)。ちょうど如来と、菩薩、明王、諸天の関係である。

    *

    自然と文化を超えて

    以上、この神話は人間が現に生きる、経験的に意味のある世界の起源を語っている。

    人間が生きる世界とは何かといえば、人間が生きる世界ではない世界ではない世界である。

    人間が生きる世界は、人間が生きる世界ではない世界と分節されて、初めてそれとしての輪郭を浮かび上がらせる。

    つまりどう分節してくるかによって、そこに区切り出されてくる人間が生きる世界なるものの姿があれこれ異なるのである。弘法大師が『十住心論』で論じておられるような、第一住心のような世界が分節されてくることもあれば、第二住心のような世界が分節されてくることもある。

    この時、分節すること、分節する動き、これをどのような述語で表現できるのか、分節の仕方の癖のようなことを左右するのかもしれない。

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    レヴィ=ストロース氏は次のように書かれている。

    アツゲウィのヴァージョンは直接的に、ほかのヴァージョンは変形という覆いはかけてもやはり同じ起源論のテーマに還元できる形で、アビ女の話(それが鳥の巣あさりの話を反転していることは証明した)を、文明の技法の発見に従属させるからである。

    つまり、打製石器の矢じりをもった狩りのための矢、肉を切るための包丁、その肉を焼くための家の竈、という三つの相のもとに表現される文明の技法である。

    だから、新大陸のふたつ、とはいってもおたがいかなり離れているふたつの地域で、料理の起源に関する神話群が、ひとつには服飾品や調味料の起源神話、もうひとつには肉やタバコの起源神話を生みだすのは確かなことなのである。

    クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.172-173

    矢、包丁、竈

    矢は、過度な結合の述語的様相にある。
    包丁は、適度な分離の述語的様相にある。
    竈は、付かず離れず、分離しきるでもなく結合しきるでもない述語的様相にある。

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    こうした述語的様相の様々なモードを切り替えながら連鎖させていくことで、私たちひとりひとりにとっての人間が(自分が)生きる世界というものがそのつど分節されてくる。

    だからこそ、人間にとっては、私たち一人一人にとっては、自分たちの生きる世界をつどつど建立し続けるために、図2で表現したような、分離と結合の伸縮の多様なモードを変換していく技が不可避に切実に重要なのである。

    上記の引用箇所に加えて「それだけではない」と、レヴィ=ストロース氏は指摘する。ここにはさらに、「おたがいに対称をなすが、それぞれが最初の体系には変形の関係で結びつくようなふたつのべつの体系」、として「生の短さの起源に関する神話群」と「もういっぽうでは動物の種の多様性と、鳥の色の起源にかかわる神話群」のペアを見出すこともできるという。

    また「さらにそれ以上のこと」として、「鳥の色の起源」と「漁の毒の起源」の神話も結びつくという。南米神話の「鳥の色の起源」と「漁の毒の起源」の関係が、北米神話では「反転」されて、「鳥の色の起源」と「狩りのためのひとつの毒となる石の矢じりの起源」の関係になる。ここで、その狩り(漁)のための毒は、どちらも「自然状態で存在する」、つまり火を通して調理するといった文化の操作が関与しない形で、人間の食糧獲得に寄与するという点で同じなのである。

    「種の違い」の「創設」は、「自然が秩序づけられること」である。

    経験的にも感覚的にも、文化が秩序をもつのに対して、自然が無秩序である、というわけではない。

    文化 / 自然
    秩序 / 無秩序

    この二つの対立関係は単純に前者どうし後者どうしが結合するわけではない。自然もまた秩序を持つし、人間の文化が時に無秩序であることもあるのだ。

    ここでいう秩序とは、人間のことであれ、自然(野生)のことであれ、経験的感覚的な区別がまず端的にあるように人間には経験されるのだ、ということである。人間の思考は、とにかくまず、経験的区別から始まるのだ。

    そして神話は、「経験的区別を概念の道具として」、経験的感覚的に区別される物事の間を分離したり結合したりする動きを語ることで、ありとあらゆる分節体系、秩序の起源を語ろうとするが、そこで起源を語るべきことの一つに、そもそも秩序/無秩序の分節、区別があること/区別がないことの分節からして語る必要がある。

    出来合いの分節システムであるなんらかの所与の世界を前提としたところで、その既存の分節体系の中に、新たに何か新規のものが起源するというのではなく、世界そのもの、分節体系そのものの起源からして語らなければならないのが神話である。

    そうした宇宙の「開闢」から語ろうとする神話においては、時間(周期性のある交代)という分節システムや、空間(遠/近、天/地、高/低、東西南北)という分節システムがまだないところから、それらの分節システムを織りなす対立関係を引き開くような結合を分離に転じつつ、分離をまた結合に転じ、対立関係をつかずはなれずの均衡にたもつ動きが語られる。

    そして一連の「アビ女」の神話は、こうした「宇宙開闢論」を語ろうとしている。

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    つづく


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    意味ということの謎に憑かれ濫読の途上で博士(学術)号取得。コミュニケーションを考える法人の代表兼大学非常勤講師。主な業績はコロナ禍の遠隔授業を乳幼児2名在宅中に実施したこと。高専出身柔道初段 https://note.com/way_finding/n/n5af3a19375b7

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