
『彼方の物語』ー待つ時間ー
改まって思うことでもないと知りながら、何年も彼を待っている。待つ間に私がしたことは、時計を見続けていること。秒針が正確に時を刻み、やがて分針に伝えると、「ゴトリ」と一目盛りが動き、やがて時針に伝わり毎日、毎時当たり前のことが繰り返されていく。
やがて積み重なった時が、1日となり、1年となり、数十年と続いていく。私は、一目盛りずつ刻む時計の針を愛おしみ、飽きもせず眺め続けていた。時計に茜色の光が差し込む頃、雲間に人の影が見え始め、数が増し長い影を落としている。まるで、分針のように。
「今日も定刻通りね」
と、独り言を呟きながら、西日を遮るようにかざした手が、しなやかに日陰を作り眩しさを和らげる。いつものように、その集団の中に彼の姿を探すものの、それらしき姿は見当たらなかった。やがて夜の帳が降り、星の瞬きがはっきり見え始める。さっきまで立ち込めていた雲は消え、下界の街明かりが覗けるようになっていた。
一人の女性が私の隣に座った。お互いに目を合わせにっこりと微笑む。会話はしない。というよりも会話の必要がない。
どれ程時間が経ったのか、また傾きかけた陽の光が差し込んでくる。人影の集団がこちらへ向かってくると、隣の女性は立ち上がりそこへ進んでいく。その中の二人が女性に歩み寄っている。一人の男性と女の子、女性は男性の側まで来ると、
「おかえりなさい」
と言うと、膝まずいて女の子と目線を合わせ、
「おかえり」
と言いながら三人は手を繋いでゆっくりと茜色の空の方へ歩いていった。
私は、久しぶりに他人の声を聞いた。
ここには私と同じように待つ人々が大勢いる。なだらかな雲の階段に座り時計を見つめながら。
ここは、待つことを許された特別な場所。地上と宇宙の狭間にあり、その間を浮遊しながら周回している。
明け方、斜め前方に小さな人影、その周りに数人立っている。中央の人物は旗を山頂に立て誇らしげにこちらに目線を向けている。私たちはその光景を見つめながら皆微笑み合っている。
その景色を間近に見ながら大きな山脈を越え、平原に至り、砂漠の砂嵐を横目に、稲光が雲間を這う様を見ている。熱せられた砂を巻き上げ、砂漠の嵐が大海へ移り行く様子が垣間見られ、嵐との境界には虹の橋が架かっている。そのまま進むと、私たちの眼下にゆっくりと進む氷河の渓谷が見え、ペンギンやアザラシの群れ、クジラの息が凍りつき、くっきりと白色の霧になる。
やがて西日が差し込む時間に。今度は数人が人の影へ向かっていく。影の人々も数人こちらへと向かってくる。
互いに抱擁を交わしながら、
「おかえりなさい」
と、凛とした佇まいの人々は口々に言葉を放っている。私は、その人々を祝福すると同時に、また彼の存在が無かったことに少し安堵しつつ、彼に残された時間はどれ程なのかと切ない気持ちになっていた。
ある日、いつもは夜空を明るく照らす月が、段々と欠けて、しまいには「赤銅色の月」が現れた。同じような月を見たのは何十年ぶりだろうか。幾度か見た記憶があるものの以前の記憶は曖昧で、今見ている月の輝きは何物にも代え難い神々しさを纏っている。思わず手をかざすと、しわにまみれ節くれだった私の手がそこにあった。
時計の分針がまた「ゴトリ」と時を進めている。月が丸さを取り戻し夜明けがやってくる。誰の姿もない山頂を横目に、再び大陸を横切り大海を渡り、そして茜色の陽光が差す時刻になると、影の人々がやって来た。その中に見覚えのある人影が見える。その人影は私の方へと進んでくる。私は立ち上がると彼の元へ、そして、
「おかえりなさい」
と言葉をかけると、彼は赤いバラを胸ポケットから差し出し、
「待っててくれたんだね」
と言った。彼はあの頃と少しも変わっていなかった。背は私と同じくらいで少し痩せた体型、いつも笑顔を絶やさず優しい眼差しが愛おしかった。ようやくその笑顔を見ることができた。
「よく私だと分かったわね」
私の体は数十年の歳月を経て、身長も縮みシワだらけの体、白髪の老婆になっていた。彼はバラの花を私の胸元に飾る。その手を手繰り寄せると、彼と過ごした日々が蘇り、心なしか体が羽の様に軽く感じた。
「どんな姿でも、君と分かるよ」
と彼が言いながら、シワだらけの私の手を優しく誘い、茜色に染まった空へと歩みだしていた。