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情熱と石を砕いて|メオ・カミュゼとブルゴーニュ神話の舞台裏『日経xwoman Terrace』寄稿文

    ※本記事は、2023年3月1日付『日経xwoman Terrace』に寄稿した記事を転載・改訂したものです。

    ブルゴーニュ、それは単なるワイン産地という言葉では到底言い尽くせない、奥深い場所である。そこには、自然の猛威に抗い、畑を耕し、テロワールを愛し、時には石を砕きながら、自らの哲学と信念を貫いた人々の物語が眠っている。
    そして、それらの物語が生んだワインは、いつしか「神話」と呼ばれるようにまでなった。

    今では世界のワインラヴァーたちの憧れとなっているヴォーヌ・ロマネのグラン・クリュやプルミエ・クリュ。その背景には、知られざる戦いと選択の連続があった。今回ご紹介するのは、その「神話」の一角を成す、ドメーヌ・メオ・カミュゼの物語である。

    リシュブール、クロ・ド・ヴージョ、オー・クロ・パラントゥー……それらの名に心ときめく人へ。
    この土地で生き、選び、苦闘し、挑み続ける人々の姿を知ることは、ブルゴーニュのワインをより深く味わうための、最も贅沢な「入り口」となるだろう。

    神話的ワインが息づくブルゴーニュの奇跡

    ブルゴーニュには、数多くの神話的ワインが存在し、多くの人々を魅了している。その多くが、歴史的な背景と希少性を持ち、世界最高峰の評価を獲得してきた。そして何よりも、真のワイン愛好家たちの夢に応える存在である。

    その中でも際立って注目を集めるのが、ドメーヌ・メオ・カミュゼのワイン。特に、リシュブール、オ・クロ・パラントゥー、オー・ブリュレなど、名高いヴォーヌ・ロマネの区画から産出される彼らのワインは、単なる高級品ではなく、「時代を語る物語」と呼ぶにふさわしい。2021年の限られた収穫から捻出されたワインが、2023年3月初旬に蔵出しオークションとして当時世界の注目を集めたのは当然の成り行きである。

    このオークションの背景には、15人のフルタイム従業員の給与を含む、ドメーヌ経営に必要な資金調達という現実的な理由がある。現当主ジャン・ニコラは語る。「市場価格は、私たちが蔵で提示する価格とはかけ離れている。最大で10倍もの価格差が生じる場合もある。市場がより適正な価格に戻ることを願うばかりだ」と。

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    ブルゴーニュの誇り、メオ・カミュゼの系譜と畑

    メオ・カミュゼは、コート・ドールの中心、ヴォーヌ・ロマネ村に位置する、ブルゴーニュでも屈指の名門ドメーヌである。その所有するグラン・クリュの数は6つにおよび、いずれもがブルゴーニュの宝石である。リシュブール、クロ・ド・ヴージョ、エシェゾー、コルトン・クロ・ロニェ、コルトン・レ・ペリエール、そしてコルトン・ラ・ヴィーニュ・オ・サン。ジャン・ニコラの醸造哲学に基づき、果実味のバランスとピュアさを追求し、見事な成功を収めている。

    ドメーヌの創設者であるエティエンヌ・カミュゼ(1867-1946)は、情熱的なヴィニュロン(ブドウ栽培家)であるだけでなく、コート・ドールの国会議員とヴォーヌ・ロマネ村の村長として、パリとブルゴーニュとの行き来する生活をしていた。クロ・ド・ヴージョ城と畑を取得するのは1920年のことである。畑を維持するために、有能な小作人に農地を託していた。 娘が財産を相続後、彼女には子供がいなかったため、財産は最も近い親戚であるジャン・メオに受け継がれた。 ジャンは国政にも深く関与し、シャルル ド ゴール内閣の一員を務めていたことでも知られる。 こうして、パリからドメーヌを管理し、品質を保つことは容易なことではなかった。

    時代の逆風と、アンリ・ジャイエという光

    20世紀初頭は、ブルゴーニュにとって苦難の時代であった。フィロキセラ禍、第一次世界大戦、そして経済危機が小さな区画を直撃し、さらに第二次世界大戦中には畑にキクイモを植え、牛を放牧するような日々が続いた。

    そのような時代に、一人の伝説が舞い降りる。1945年、ドメーヌ・メオ・カミュゼに採用されたアンリ・ジャイエである。彼が着目したのは、冷涼な微気候に恵まれた区画「オ・クロ・パラントゥー」。ここにこそ、ピノ・ノワールの理想郷があると信じ、誰も手をつけなかった土地を開墾し始めた。400本のダイナマイトを用いて大岩を破砕し、石の山を手押し車で取り除き、ブドウを植え替える。誰もが見過ごした土地に、彼は神話を築いたのである(詳細は、以下の拙ブログ『アンリ・ジャイエ ― 伝説のピノ・ノワールを生んだ男、その哲学と情熱』を参照のこと)。

    運命を継ぐ者、ジャン・ニコラの決断と挑戦

    ジャン・メオの息子であるジャン・ニコラは、当初パリでの穏やかな生活を送っていた。だが1980年代初頭、多くの契約農民の引退が相次ぎ、ドメーヌの未来が揺らぐ。その時、ジャン・ニコラは一大決断を下す。保証されたパリでの生活を捨て、ブルゴーニュの地に根を下ろす覚悟を決めたのである。

    彼には、ブドウ栽培も醸造の知識もなかった。そこで頼ったのが、かつての開拓者アンリ・ジャイエであった。アンリは惜しみなく知識と経験を伝え、3年間にわたって彼を指導した。1988年にアンリが引退すると、ジャン・ニコラは一人立ちし、ドメーヌの未来を担うことになる。

    一度きりの人生を、自分で決めて生きるということ

    ジャン・ニコラの人生は、大自然と向き合い、自らの決断に責任を持つという厳しい道である。それでも彼の表情には、迷いや後悔は見えない。それはまるで、森で自由に生きる野生動物のような、生への集中と誇りに満ちた眼差しに見える。

    自ら選んだ道を、自分の意志で歩むということ。それは「一度きりの人生を、思い切り生きる」ことの本質ではないだろうか。厳しくとも、美しいこのブルゴーニュの大地で、神話は今も静かに、そして確かに紡がれている。

    本稿は、公開されている情報や資料をもとに、その魅力を紹介しています。また、掲載写真は各公式サイト等より引用しています。



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