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冬の小夏狂騒

    不意に胃が溶け落ちるように疼いた。
    脳はひどく錯乱していて、咽喉のどを抜ける風がいやに熱い。
    網膜に注がれるのは歪む電球。
    閉ざせば左斜め後ろに回転する身体。

    苦く冷えた夏のようなものを貪りたい。
    ただそれだけだった。

    ──二月二十二日(日曜日)午前二時二十二分。

    パソコンの画面の右下、かろうじて意味を為しているであろう文字列を声でなぞってみる。

    「わあ……あひるさんがいっぱいだね……」

    俺の身体で別人の声帯が揺れ、俺の声でそいつの考えが鳴る。
    汚れた窓に向かって微笑んでいるのは俺なのに、俺じゃない。

    夜毎、否、朝も昼もずっとこんな調子だ。
    自分がいない。
    すっかり名前も思い出せない。

    時折、思い出したかのように「……先生」とか「原稿は?」と聴こえてくる。
    その都度はどうもわかっていて、のらりくらりとやり過ごしているようだ。
    今、ここで車輪付きの椅子を凹ませている“推定俺”とは別の奴が。

    「車輪の意味ないじゃん……」
    これは正真正銘俺の……いや、“推定俺”の声。

    足の踏み場もないくらい、
    不自然なまでに折れもヨレもない本の山。
    綺麗なまま積み上がる無秩序がどうにも気味が悪い。

    興味本意で、その中から女の喉にハンバーガーが詰まった表紙のハードカバーを開いてみる。

    「え?」

    十ポイントの明朝体が足元に散らばった。

    本をひっくり返して振ってみる。
    特に何も起こらない。

    もう一度、文字のある方を上向けてる。
    すると最初の二行と、隣のページの真ん中あたりがごっそりと消え失せている。
    足の甲にひっくり返った「時」の文字、床では「あ」が真っ二つに割れている。

    「まさか……な……」

    恐る恐る、谷間の四行に目をやる。
    図星だ。
    ポテトのLサイズも、コーラも、店員の笑顔も全てこの無秩序な山とわずかな床に散らばった。
    その度に真っ黒だった紙は真っ白に変わっていく。

    面白くなってきて、何度も何度も文字列の上に目を走らせた。
    残りページ、八分の五。
    突然、脳が鉛の塊と化したかのように思考は低速に転じる。
    身体は背骨が宙吊り式に抜かれていくような絶望的な脱力に見舞われた。
    手の力も失せ、背表紙の尖りは足の甲を打つ。
    身構えるための関節はグラグラで、かろうじてすがったシワだらけのシーツ。
    わずかに生温さの感じられるベッド。
    中綿の抜けたような黒い犬のぬいぐるみもぐったりしている。

    猫っ毛の“推定俺”のとそっくりな髪のついた枕に額をついた。

    なんだ、先生とやらは推定俺と同じシャンプー使ってんのか。
    奥の方に若干の年齢の嵩みのようなものが沈んでいる気がする。
    気をつけろよな……

    推定俺は、自分みたいな匂いに抱かれ眠りに落ちた。
    瞼の落ちきる前に見た床には、綺麗な無秩序の積み上げのみで散々落っことして遊んだ文字どもはどこにも存在しなかった。

    ──二月二十二日(日曜日)午後二時二十二分……

    「え? あれ……」

    膝から転げ落ちたノートパソコン。
    見たくもない件数の着信履歴が並ぶスマートフォン。
    絶望的なまでの冬の青空。
    朗らかな陽射しが穏やかに僕の肺を膨張させていく。

    「ああ……ああ! 一文字も……ない!」

    ひっくり返ったパソコンに合わせて床に左頬をくっつける。
    そんなことをしたところで、ゼロはゼロのままだ。

    そのまま本の山が崩れるのも構わず、身体ごと天井を向いた。

    いつもの電球がぶら下がっている。
    無意味な光を灯している。

    こう見えて……いや、一人暮らしの身で誰に見られるわけでもないけれど今僕はすごく焦っている。
    心拍は一拍ひとはく一拍ひとはくが重苦しくゆっくりと打っている。
    拍動ごとに心臓が喉元から飛び出しかけるのだ。

    吐き気がして両手で口を覆った。

    「え?」

    また、声が漏れる。
    ここのところ独り言がひどい。
    そういえば死んだばあちゃんも晩年……

    一応僕はまだ二十八だ。
    何日か前に不機嫌な顔して八本の蝋燭に息を吹きかけて、一本も消えなかった。

    その時すぼめていた唇がベタついている。
    顎も、なんなら左の首筋も。

    ホイップクリームのくどい甘さを思い出す舌の上は薄らと苦い。

    「何? え? は? 何?」

    ──ピンポーン

    マヌケなインターホンの音。

    十年以上聴き続けているのに慣れない。
    もう、謎のベタベタと馬鹿過ぎる音で我慢ならない僕は腹を抱えながら玄関へと向かう。

    途中、シンクの中に鮮やかな黄色を見た。
    四つもらったメロウゴールドの実。
    残りは三つ。

    おいしいところは全部君が持っていくんだね。
    まあ、いいけど。

    僕は扉を開ける。

    黄色い陽射しは、まだわずかにひんやりとしていた。

    ↑
    誰の人生なのかはわからない。


    ↑
    本当に私が書いたのか、と驚く恋愛小説。

    ↑
    こっちも私が書いた。

    ↑
    昨日もいた。
    レモンの人。

    ↑
    ゆきお様・作
    乖離は続くよどこまでも。
    戻れそうで戻れないんだ。
    乖離にすら気づいていないのか。
    気付いていて野放しなのか。
    絶妙なラインで読めます、読んで?
    わかるから。

     
     
    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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