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ハンドリガード──『水辺のつつじ』ep.56

    コートのボタンを外す。
    左の親指に押し出されたボタンを右の人差し指と親指で受け止める。
    これを三回繰り返す。
    僕は僕の抜け殻を白い壁に掛けた。

    なんのこだわりもない部屋の灯りに照らし出された襟元のほつれ、袖口の毛玉、裾の汚れ……
    無関心が微かに糸を揺らす。

    残りの抜け殻を洗濯機に放り込んだ僕は、右手で蛇口を捻る。
    吹き出した水が髪を濡らした。
    毛先をすべり、背を伝う水は冷たい。
    足にあたる頃には温度の有無を忘れている。
    バスタブの底を這う水は渦を巻きながら、やがて温まっていく。
    飛沫は湯気に紛れ、見えなくなってしまった。

    絶え間なく続く温かな豪雨の中、シャンプーボトルのポンプを押仕込んだ。
    右肘がシャワーカーテンに触れる。
    思わず短い息が漏れた。

    ボディソープのポンプを押す。
    溶けた真珠を手のひらの上で掻き混ぜる。
    すると右手の指先に、真っ赤な匂いの真っ白な花が咲く。
    わざとらしい花の匂いだ。
    それを身体に塗りつけていく。
    まるで白鳩の羽のようだった。
    しかしシャワーをひと捻りすると羽だったものはただの泡、それも人間の匂いのひどい泡に変わり、排水口の上をくるくると廻り始める。
    排水口は、マヌケな獲物を泳がす狡猾な捕獲者ハンターのように見えた。
    銀色の口を歪め、僕を待ち構えている。
    こうして僕は、色も形も失っていったのだ。

    嘘の花の匂いだけをそのままにして。

    僕は時を巻き戻すみたいに蛇口を回す。
    また、右手だった。
    ようやく雨は止んだ。

    びしょ濡れの僕はタオルにくるまる。
    あんなにふんわりとしていたのに一分とたたずに濡れ雑巾みたいになってしまった。
    力無く、僕の肩でうなだれる白い布。
    僕が飲ませた水の分だけ、今度は僕の熱を奪っていく。
    そのくせ顔だけはやたらに熱っぽくて妙な感覚だった。

    締まりのないシャワーヘッドにはもう、うんざりすることも忘れている。
    世話が焼ける、それくらいの感情で温ぬるまった銀色の突起物を軋むほどに捻るのだった。
    それでもまだ、ぼたぼたと音を立てている。
    そういうもの。
    僕の中ではそういうことになっている。
    ただ、時折思い出したみたいに苛立ってみたりとする。
    けれどもそれも、本当に苛立っているわけではなくて「苛立ち」がどんなものだったのか、はたまたどのようなものなのか、覚えておくための作業に過ぎなかった。

    鏡の靄を右手で拭った。
    なんの表情もない人間と目があった。
    中途半端に拭いた髪と、火照った頬。
    熱そうな顔をして震えるおかしな身体──
    その肩にはやっぱり力をなくしたタオルが引っ掛けられていた。
    彼は僕に向かって手を伸ばしている。
    その手を見ようとすれば、もう彼と目は合わない。
    しかし、どう足掻いても彼の手は見えない。
    代わりに僕の手の甲が見える。
    湯気が邪魔をして、その手は輪郭さえも怪しかった。

    曖昧な指で壁際にだらりと垂れたコードを手繰る。
    冷えた銀色を壁の穴に突き刺したのと同じ手でドライヤーを握り込んだ。
    熱風が髪を揺らし始める頃には、鏡はすっかり晴れている。
    こめかみに銃口を突きつけるが如く、僕は脈に熱を浴びせかけていた。
    季節にそぐわぬほど、汗が吹き出している。
    「本末転倒──」
    溜め息混じりの独り言は、舌よりも唇よりも熱かった。

    僕はプラグを引き抜いた。
    熱を持った金属に触れ、指先がはねる。
    「熱あつ……」
    挿した時にはあんなに冷たかったのに。
    平静を装う銀に僕は慄いていた。

    熱さでぼんやりしたせいか、僕は眠りたくなってしまった。
    ベッドに身体を投げて僕は眩しすぎる灯でんきを見つめた。
    自分で目を遣ったのに、眩しさを遮ろうと右の手を翳す。
    筋張った手の甲の上を青紫の血管が走る。
    そこから伸びる中指は薬指の方に緩やかに曲がっている。
    人差し指の付け根には赤く薄い腫れがある。
    わずかに向きを変えてみると、半透明の三本線やさっきの銀色にまんまと騙された熱の痕を見つけた。

    身体を横たえた時、小テーブルに置いた白鳩が目に映った。
    掴もうとして、右手はだらりと床を撫でた。
    見えているようで見えていない。
    それでも必死に瞼を持ち上げては右手を見る。

    かろうじて見えた僕の手は何かを包む形をしていた。
    その温度も、柔らかさも、その中うちに感じた硬さも、全部覚えている。

    白い光の中、僕は眠った。
    昨日になる前の今日に、明日への怯えさえ抱く間も無く。

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    【創作大賞2026】
    恋愛小説部門エントリー中。
    初詣から帰ってきた貝原瑞樹。
    鳩みくじの容器を異様に大事にする男。





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    ゆきお様・解説
    読み方のコツつきです。
    事件がないからこそ、「ん?」となりがちなシーンなので解説がありがたいです。
    飽きさせない本編を描きたいものですが技術がまだまだ故。
    精進します。

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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