メインコンテンツへスキップ
見出し画像

チョコチップ・クッキー──『水辺のつつじ』ep.59

    大通りに面したカフェで彼女を待っている。
    そもそもここに、彼女が来る保証すらなかったのに。
    ガラス越しに動いた唇を辿って、僕はここまでやって来た。

    「ご注文は?」
    「ホットコーヒーをひとつ……」
    ふと思い出した。
    あの日、クロワッサンを食べながら彼女が言ったこと。
    僕の言葉の後しばらく間があって、首を横に振ったこと。

    「……と、それからチョコチップ・クッキーを、お願いします。」
    「そちらの籠から、お好きなものをお選びください。」
    そちら、を見逃してしまい僕の視線は中空を泳いだ。
    金髪をひとつにまとめた女性は、すかさずそれを捕まえて、年季の入った銀のカルトンの横のカゴを指さした。

    「それ、、、おいしいですよね。」
    釣銭を数えながら女性は呟いた。
    「え、あ……そう……ですね。」
    いらぬ嘘をついてしまった。
    でも、その人は笑っていた。
    「三十八円のお返しです。」
    「……きっと。」
    「きっと……?」

    釣銭を受け取るより早く、財布を鞄に入れてしまった。
    七枚の小銭とレシート、それからコーヒーとチョコチップ・クッキーをトレーに乗せて僕は店の中を見回した。

    ティータイムには遅く、夕食にはやや早い。
    中途半端な時間のカフェは、中途半端な席の埋まり方をしていた。

    僕はかろうじて誰とも隣り合わないカウンター席に腰を下ろす。
    観葉植物が吹き降ろす温風で忙しなく揺れていた。

    鞄から買ったばかりの文庫本とノートを取り出し、コーヒーを口に含む。
    左の親指は、ようやく一ページ目を繰った。

    誰かを待つということ。
    僕にはそれができなかった。
    あの頃は……いや、つい最近までは。
    待つふり、、ばかりが上手くなって、本当の意味での待つということができていなかった。

    ──誰かを待つということ。
    それは相手が「来る」と信じることだった。

    今、僕は彼女を待っている。
    待てている。
    現に僕はここに来てから何度、柱の時計を見上げただろう。
    何度、スマートフォンの画面に触れただろう。
    買ったばかりの文庫本にかけた左手の親指は、退屈極まったのかうつらうつらして、時折思い出したように動いては繰りすぎたページを元に戻している。

    ふと、手元のノートに貼り付けられた付箋を見て蒼褪めた。
    そこには、僕の「待ち人理論」を一瞬で論破する決定的な一撃が書き付けられていた。
    ……僕の字で。
    待たずしてもやってきて、静かに過ぎ去っていく。
    気が遠くなってきて、僕は考えることをやめた。
    遠のいていた景色が、瞳にぴたりと重なった。

    「あ。」
    僕はすっかりチョコチップ・クッキーのことを忘れていた。
    らしくない、、、、、ことに身体が追いついていないようだ。
    封を切る。
    いざ、ひとくちかじろうとしてその大きさの分だけたじろいだ。
    その一瞬の迷いがいけなかった。
    クッキーは砕け、袋の中で散らばった。
    僕は袋からかけらをつまみ上げ、口へと運ぶ。
    おおよそチップと呼ぶには立派すぎるチョコレートのかたまりは想像よりはるかに苦かった。

    左の指は本のページをめくっていく。
    右の指はクッキーのかけらを拾い、コーヒーを喉へと送る。
    そして時計を見上げては、また本へと目線を落とす。

    コーヒーの雫が喉に落ちたその瞬間ときだった。

    「これ。」
    ──気に入った言葉を書き留めておく。
    これはもう平仮名とほんの少しの漢字を覚えたころからの習慣だった。

    本の中の一文に眼を捕らえられたまま、僕はノートへ手を伸ばす。
    触れかけて、指先のべたつきで手がためらった。

    ウェットティッシュに右手の指先をこすりつける。
    べったりと茶色く染まった。
    白い面を探しては、指をこすりつけた。
    幾度となく繰り返した。
    いよいよ何もつかなくなった。
    でも、言葉になっていかない思いが胃もたれみたいに僕の中で蟠わだかまっている。
    右の指先を眺めたまま僕は立ち上がり、手洗いへ向かった。

    まず、水ですすいだ。
    まだ、だめだった。
    指を、手を、手首を、泡だらけにしてひたすらにこすった。
    真っ白な泡が、排水口に吸われていく。
    まだ、泡が透明な水になったところでようやく手を引いた。
    袖が肘のあたりまで湿っていた。
    水はしばらくボウルを洗い流してから、勝手に止まった。

    席に戻ると、両隣の席が埋まっている。
    左からは寝息が、右からはキーボードを叩く音が聴こえる。

    僕は、手つかずになっているもう一枚のクッキーと時計とを、交互に見つめた。
    ジャズに紛れて夕刻を告げる鐘チャイムが聴こえる。
    本もノートも鞄にしまった。

    僕はただ、座っている。
    じっとして「待って」いる。


    ↑
    【創作大賞2026】
    恋愛小説部門エントリー中。


    ↑
    直前のごみ

    ↑
    単品のゴミ

    ↑
    間に合えば明日までに読んでほしいゴミ

    ↑
    季節に合いそうなゴミ

     
     
    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

    あなたへのおすすめ