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指と待ち人──『水辺のつつじ』ep.60

    ──いらっしゃいませ。
    その声に続いて外を指す彼女の指に誘われるままに席を立った。
    窓には店内の様子ばかりが映り込んでいて、外の様子ははっきりとはうかがい知れない。
    ジャズの中に、薄らとクラクションが響いた。

    左の寝息はようやく目覚めホットサンドを食べ始め、代わりに右のキーボードが静まり返っている。
    僕は極力なるべく、音と埃を立てぬよう配慮して立ち上がった。
    コートと鞄を腕に掛け、トレーを片手に。

    「ごめん、待たせちゃって。」
    彼女の息は弾んでいた。
    前髪を撫でつける指先から鼻の先、頬、耳朶まで薄く赤らんでいる。
    「全然。」
    僕は首を横に振った。
    また、嘘をついた。
    でも僕は信じている。
    これはきっと、いい嘘、、、なのだと。
    しかし彼女は萎れてしまって、
    「それはそれでなんかさみしい。」
    と唇を尖らせた。
    「あ、いや……その……」

    時が戻せるとして、「ごめん、待たせちゃって。」と言う彼女に「うん、待ったよ」と答えるのはなにか違う。
    言語としての意味も、僕の行動の実際もその通りなのに。
    言葉にした途端、全く意図しない意味をまとってしまう。
    これじゃあまるで、手渡した途端に枯れ腐る、「呪いの花束」みたいじゃないか。
    突然謎の幻想ファンタジー的妄想にとり憑かれた。

    「あ……それ、もらっちゃいますね。」
    トレーの上のコーヒーカップは、干魃かんばつに喘ぐ砂地の如く、茶けて静まり返っていた。
    黒いサロンエプロンの女性は手つかずのチョコチップ・クッキーを僕に渡し、バックヤードへと去った。

    ごちそうさまでした、そう声をかけ扉を引いて外へ出る。
    街が放つ光は強く、明るさだけで言えば日中とそう変わらないような気さえする。
    見上げた空は紺色で、そこで初めて日が暮れたことを実感する。
    通りを走る車のハイビームに僕は顔をしかめる。

    「ゆうか。」
    「ん?」
    「来てくれて……ありがとう。」
    彼女は一瞬メデューサとばちりと視線が合ってしまったみたいに固まってから、ばつが悪そうに笑った。
    「それから……」
    僕はさっきから指先にぶら下げたままになっているチョコチップ・クッキーを渡した。
    ……絶対に今じゃない。
    そう制止する理性を、宝物を見せたがる幼い子どもの感情が振り切ってしまった。

    一体僕は何をやっているんだ……
    恥じる気持ちをひた隠して、空いた指でコートのボタンをはめていく。
    「瑞樹君。」
    忙しない車のライトを眺め続けている。
    「瑞樹君!」
    「なに?」
    「ありがとう。」
    「え……?」
    彼女は僕を見上げてほんのわずかに照れくさそうにしている。
    あのクッキーを手で包み、胸に当てていた。
    「覚えててくれたんだ。」
    僕は首を横に振った。
    「あの、違……」
    僕の指はボタンの上を滑る。

    店から人が出てくるたびにジャズとコーヒーの匂いが漏れてくる。

    「ねえ、ずれてるよ。」
    「え?」
    僕は彼女の目を見るのが怖かった。
    また、間違ったんだ。
    そう思ったら、もうどうしようもなく情けなくなってきた。
    「ごめん。」
    「何が?」

    彼女の指が僕の胸元に伸びてくる。
    「ちょっと……」
    たじろぐ僕にお構いなしで、いたずらっ子の顔をして彼女は指を近づけてくる。
    僕はどういうわけだか息を止めた。
    時を同じくして、彼女の指がコートのボタンを押し込んだ。

    「ボタン、ずれてるよ。」
    彼女はけらけら笑って、「やり直し!」と全部のボタンをはずしてしまった。

    僕がまたボタンに触れると、もう彼女は歩き始めている。
    「待って。」
    「待たない。」
    彼女は振り向いてからしばらく後ろ歩きをして、また前を見る。
    そんなことを幾度か繰り返して、それからやっと、僕が追いつき横並びに歩き始めた。

    コートのボタンを撫でる。
    縦に三つ、横二列。
    銀のボタンは街明かりを吸い込んでいた。

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    【創作大賞2026】
    恋愛小説部門エントリー中。



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    レジの横のクッキーの話。

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    ラブラドールの匂いで肺を満たしたいアラウンドサーティ。 9歳児に親育てされている本末転倒人間。 文字に嫌われた人間が、しつこく文字を掻き集める滑稽な姿を東京の片隅からお送りしております。 ※連載小説も基本的には一話完結として読める構成を目指しているので、おじけづくことなかれ。

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