
掌編小説|鍵、閉めたっけ?
二度寝した。
一度起きて洗濯機を回し、
あと少しだけのつもりで布団に戻った。
次に時計を見たときには、
いつも家を出る時間を過ぎていた。
洗濯機は、とっくに止まっている。
このまま夜まで入れておくのは嫌だった。
急いでベランダへ出る。
マンションの4階。
タオルを物干し竿にかけ、
仕事用のブラウスをハンガーに通す。
外から見えない高さのハンガーに、
靴下と下着を洗濯ばさみで留めた。
部屋へ戻って時計を見る。
「やばい、やばい」
洗面所へ走って顔を洗い、
浴室に干していたタオルで顔を拭く。
髪をまとめ、鏡の前でファンデを塗り、
眉を描いてマスカラをつけた。
マスクをする。
バッグの中を確認する。
社員証、スマホ、家の鍵、ICカード。
全部ある。
パンプスを履いて、玄関を出る。
最寄り駅から電車に乗り、
いつもの私鉄へ乗り換える。
改札前でバッグからICカードを出したとき、
金属が指に当たった。
家の鍵だった。
そこで急に、朝の玄関が浮かんだ。
あれ……
鍵、閉めたっけ?
玄関を出て、
ドアを閉めたところまでは覚えている。
でも、そのあとがない。
鍵を差した感触も、
回した感触も思い出せなかった。
ここから戻れば、完全に遅刻する。
毎日やってるんだから、
たぶん閉めた。
そう決めて、改札を通った。
会社に着くと、
昨日取った新規案件で先方へ電話し、
見積書を直す。
後輩から聞かれた数字を確認しているうちに、
鍵のことは頭から消えていた。
11時過ぎ。
バッグからハンカチを出したとき、
鍵が中で鳴った。
手が止まる。
やっぱり、気になる。
昼休み。
課長がわたしの席へ来た。
「昨日の新規、よく取れたな。
今月の数字、これで届きそうだな」
わたしが軽く頭を下げると、
課長が身をかがめ、声を落とした。
「君の商品企画部への推薦状、
もうすぐ書き終わりそう」
思わず顔が上がった。
「本当ですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
1枚書くのに、何カ月かかってんだよ。
実力で行ける。
でも、実力だけで行く必要はない。
課長がさらに声を落とした。
「ねぇ、今日も、仕事終わったらどう?」
頷きかけたとき、
朝の玄関が、また浮かんだ。
「すみません。今日はやめときます」
「え、そうなの?」
「また今度で」
課長に奥さんがいることは知っている。
商品企画部へ行くまでは、こいつと寝る。
異動できたら、あとは適当に切ればいい。
午後は外回りの予定もなく、
急ぎの仕事もない。
今なら帰れる。
早退することを課長に伝え、
仕事を整理して会社を出た。
まだ外は明るい。
電車でマンションへ戻り、
4階の自分の部屋の前まで来た。
鍵を出す前に、
取っ手をつかんで引く。
抵抗もなく、ドアが開いた。
「……え」
本当に、鍵がかかっていなかった。
隙間から中を見る。
音はしない。
知らない靴もない。
誰かが動く気配もない。
それでも、すぐには入れなかった。
玄関に入り、靴を脱ぐ。
すぐに外へ出られるように、
鍵はかけなかった。
リビングには誰もいない。
寝室をのぞく。
誰もいない。
洗面所のドアを開ける。
浴室の扉の隙間から、
白い光が漏れていた。
足が止まった。
朝、浴室の電気をどうしたか覚えていない。
でも。
もし、誰かいたら。
スマホで110を表示した。
キッチンへ行き、包丁を1本取った。
こんなものが役に立つのかは分からない。
それでも、素手よりはましだった。
包丁を握ったまま、浴室へ近づく。
音はしない。
扉の前に立つ。
耳を澄ます。
水の音もしない。
スマホを洗面台に置き、
左手をドアノブにかけた。
扉をそっと開ける。
誰もいなかった。
「……よかった」
息を吐いた。
包丁を持ったまま、
トイレ、クローゼット、ベランダを確認する。
誰もいない。
キッチンに包丁を戻し、
玄関の鍵を閉めた。
今度は、
物がなくなっていないか確認した。
引き出しの奥。
銀行の通帳、実印、
封筒に入れていた現金。
母からもらった指輪も、
いつもの箱に入っていた。
全部ある。
引き出しを閉めた。
浴室の明かりをもう一度見る。
朝、消し忘れたんだろうか。
「この歳で、物忘れ多すぎだろ、わたし」
せっかく早く帰れたし、ヨガに行こう。
出る前に、洗濯物を取り込まないと。
ベランダへ出る。
タオルを外し、
ブラウスをハンガーから取る。
靴下を干したハンガーに手を伸ばした。
「あれ?」
洗濯ばさみが、2つ空いている。
「……今日、下着干さなかったっけ?」
朝のことを思い返す。
二度寝して、鍵も閉め忘れていた。
浴室の電気も……たぶん。
「……干したと思ってただけか」
靴下を外し、
洗濯物を抱えて部屋へ戻った。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
※本作はフィクションです。
ご紹介くださった記事
これまでに僕の作品を読んで、
記事にしてくださった方がいます。
本当にありがとうございます🙇
書いてくださった記事は、
大切に読ませていただきました🥹
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