コンテンツにスキップ

近衛家実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衛 家実
近衛家実像(三の丸尚蔵館蔵『天子摂関御影』、紙本着色より)
時代 鎌倉時代前期
生誕 治承3年1月29日(1179年3月9日)[1]
死没 仁治3年12月27日(1243年1月19日)
改名 家実→円心(法名)
別名 猪隈関白
官位 従一位、摂政、関白、准摂政、太政大臣、准三后
主君 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛基通、母:坊城顕子(坊城顕信の娘)
兄弟 家実、円忠、道経、鷹司兼基、円浄、静忠、藤原基教、円基、仁澄、実信、尊任
妻 藤原季信の娘、藤原忠行の娘
藤原忠行の娘、宇佐公通の娘
子 家通、家輔、兼経、長子、鷹司兼平、実静、慈禅、増忠、聖兼、聖実、澄誉
テンプレートを表示

近衛 家実(このえ いえざね、旧字体: 近󠄁衞 家實)は、鎌倉時代前期の公卿。関白・近衛基通の長男。官位は従一位・関白、太政大臣、准三后。近衛家3代当主。晩年六条猪隈小路に猪隈殿を構えたことに因み、猪隈関白(いのくま かんぱく)と呼ばれた。

経歴

[編集]

建久元年(1190年)12月六条殿にて元服・叙爵。同2年(1191年)12月従三位に叙されて公卿に列した。その後も官位は累進して、元久元年(1204年)12月左大臣に転じ、建永元年(1206年)九条良経の薨去に伴い、藤氏長者・摂政に補任。同年関白に補任。承久3年(1221年)承久の乱では後鳥羽上皇らの挙兵に反対し、4月関白を解任されるも、乱の鎮圧後は仲恭天皇廃位に伴って九条道家が失脚したため、7月再び摂政に補任される。同年12月20日には太政大臣に就任し、後堀河天皇の元服・加冠の役を務めた。貞応2年(1223年)後高倉院崩御後は名実共に朝廷の主導者となる。鎌倉幕府に協調して後鳥羽院政を否定すべく復古的・消極的な政治を敷き、訴訟では公卿の議定を復活させ、財政難には成功で対処しようとするも、綱紀は弛緩するばかりであった。安貞2年(1228年)12月西園寺公経と組んだ道家の工作により、関白を辞任させられる。この交替には天皇の母である北白河院も関与して幕府に働きかけていた一方で、家実の娘である長子を后としていた後堀河天皇は交替に抵抗するなど、複雑な政治対立があったもと言われ、研究者の中には「安貞二年の政変」と呼ぶ者もいる[2]。以後、近衛家と九条家とが交替で摂関を務めるのが慣例化した。嘉禎4年(1238年)3月に准三后。仁治2年(1241年)11月28日出家し、円心と号する。翌年12月27日咳病により猪隈殿で薨去。享年64。

温厚な性格で幕府の信任が厚く、承久の乱前後の困難な朝幕関係の修復に努めた。日記『猪隈関白記』(『続御暦』)は後鳥羽院政や草創期の幕府を知るための重要な史料であり、陽明文庫には自筆本が所蔵されている。

官歴

[編集]
近衛家実の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢 [注 1] 事項
建久元年(1190年) 12月22日 12歳 正五位下に叙す、禁色を聴される
12月25日 右近衛少将に任ず
建久2年(1191年) 2月1日 13歳 兼備前介
2月5日 右近衛中将に転任、備前介如元
6月4日 従四位下に昇叙、右近衛中将・備前介如元
12月5日 正四位下に昇叙、右近衛中将・備前介如元
12月28日 従三位に昇叙、右近衛中将如元
建久3年(1192年) 1月27日 14歳 兼美作権守
建久6年(1195年) 4月7日 17歳 正三位に昇叙、右近衛中将・美作権守如元
建久8年(1197年) 1月30日 19歳 権中納言に任ず、右近衛中将如元
10月20日 従二位に昇叙、権中納言・右近衛中将如元
建久9年(1198年) 1月19日 20歳 兼左近衛大将(中納言にて左近衛大将兼任の例)、右近衛中将を辞す
1月30日 権大納言に転任、左近衛大将如元
正治元年(1199年) 6月22日 21歳 右大臣に任ず
6月23日 左近衛大将如元
11月27日 正二位に昇叙、右大臣・左近衛大将如元
元久元年(1204年) 12月14日 26歳 左大臣に転任、左近衛大将如元
元久3年/建永元年(1206年) 3月10日 28歳 摂政宣下、左大臣・左近衛大将如元
3月28日 左近衛大将を辞す
12月28日 摂政を辞し、関白宣下、左大臣如元
建永2年/承元元年(1207年) 1月5日 29歳 従一位に昇叙、関白・左大臣如元
1月30日 左大臣を辞す
承久3年(1221年) 4月20日 43歳 関白を辞す
7月8日 摂政宣下(再任)
12月20日 太政大臣宣下、摂政如元
承久4年/貞応元年(1222年) 4月10日 44歳 太政大臣を辞す
貞応2年(1223年) 12月14日 45歳 摂政を辞し、准摂政および関白宣下
安貞2年(1228年) 12月24日 50歳 准摂政および関白を辞す
嘉禎4年/暦仁元年(1238年) 3月25日 60歳 准三宮宣下
仁治2年(1241年) 11月28日 63歳 出家(法名:圓心)
仁治3年(1242年) 12月27日 64歳 [注 2] 薨去(号:猪熊関白)

系譜[3]

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 本表の年齢は数え年表記である。1179年(治承3年)を誕生年(1歳)として和暦ベースで各年の年齢を算出している。薨去した仁治3年(1242年)は和暦換算では64歳となるが、月日が年末の12月27日であり、西暦換算では年を跨いで1243年1月となるため、実質的な享年は65歳となる。
  2. ↑ 西暦換算(1243年)基準による享年は65歳。

出典

[編集]
  1. ↑ 九条道家の日記『玉蘂』建暦元年3月14日条
  2. ↑ 曽我部愛「後高倉王家の政治的地位」(初出:『ヒストリア』217号(2009年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.24-28.
  3. ↑ 注記のないものは『尊卑分脈』による。
  4. ↑ 『大乗院日記目録』
  5. ↑ 『諸門跡譜』。『系図纂要』では1230年生。
  6. ↑ 『諸門跡譜』では1243年生。
  7. ↑ 『水谷川家譜』