
書けるからこそ、書かないことが大変になる。「書く」の先にあるもう一つの能力|書籍化ログ(#文章術 #文章力 #創作論 #Web小説 #note #小説の書き方)
文章を書いていると、
「ここを説明しないと誤解されるかもしれない」
「この前提も書いておいた方が親切かも」
「例外についても触れないと不正確かな」
と気になることがあります。
そうして必要そうなものを足していくうちに、最初は500文字くらいで終わるつもりだった文章が、いつの間にか1500文字になっている。
私はこれ、文章が書けないから起きることではないと思うんです。
むしろ、かなり書けるからこそ起きることがある。
背景も説明できるし、例外も思いつく。
自分の書いた一文を読んで、別の受け取り方をする人がいることにも気づける。
書ける人の多くはそういう事にも気付ける人なので、気づいたものを全部入れようとすると、文章はいくらでも長くなります。
私自身、以前はそれを「丁寧に書く」ということだと思っていました。
こんにちは。こんばんは。
普段はラノベを書いている「うら表紙」と申します。
●丁寧に書いたのに、なぜか伝わらなかった
noteを始めたばかりの頃の私は、今よりずっと長い文章を書いていました。
ものすごく考えて、調べて、何度も文章を直して、「これは絶対、誰かの役に立つ」と本気で思えるところまで書く。
それでもほとんど読んでもらえませんでした。
当時は、その理由が本当にわからなかったんです。
自分では読者さんのために書いているつもりでした。
間違ったことを伝えたくないから調べるし、誤解されたくないから説明する。
例外があるなら、それも書いておいた方が親切だと思っていました。
でも、今冷静に振り返ると、その丁寧さには別のものも混ざっていたと自覚できます。
「ちゃんと考えている人だと思われたい」
「突っ込まれたくない」
「ここまで書いたのだから、きちんと理解してほしい」
読者さんに親切にしているようでいて、私は自分がどう見られるのかも必死に守っていたんですよね。
だから、説明を減らすのが怖かったし、書くことにも必死でした。
文章を通して、その文章を読む人から見た自分の姿を一生懸命取り繕おうとしていたんです。
言ってしまえば「自分を守るための丁寧さ」を「読者さんへの丁寧さ」と勘違いしていたわけです。
仕事でも、丁寧で責任感の強い人ほど、報告するときに事情を最初からきちんと説明してくれることがあります。
「まず昨日こういうことがありまして、その前に先方からこんな連絡が来ていて……」
話している本人の頭の中では全部つながっているし、どの情報も間違っていません。
ところが、聞いている側は途中から、
「それで、何が起きたの?」
となることがある。
私自身、一度にたくさんの前提を渡されても、頭の中の検討皿に並べられるのはせいぜい二、三個くらいです。
説明する側は、抜けがないように丁寧に話している。
でも、そこで一度考えた方がいいのだと思います。
その丁寧さは、本当に受け手のためになっているだろうか。
自分が説明し切って安心するための丁寧さになっていないだろうか。
「ここまで説明したのだから、私は責任を果たした」と思える形を作ることと、相手が必要なことを理解できる形にすることは、同じではありません。
文章でも、「丁寧に書こう」と思ったときほど、その丁寧さがどちらを向いているのかを見る必要があるのだと思います。
●書ける人ほど「全部書ける」という罠にハマる
書ける人は見えたものを全部書けてしまいます。
絵にするとわかりやすいのですが、うまい人は“見えているもの”をそのまま描けてしまいます。
すごくうらやましいですね。
ところが、私のように下手な人は、見えていても全然描けません。
目では鳥が横に飛んでいるのに、絵にすると縦に飛んでいる。
なぜでしょう?
自分でも「どうしてこうなるの…?」と笑ってしまうのですが、これはつまり、“見えている世界”と“表現できる世界”が一致していないということなんですよね。
だから、うまい人ほど「見えている世界の広さ」がそのまま“描ける情報量”になってしまう。
文章も同じで、
頭の中で把握できていること、理解していること、整理できていることが多いほど、
それらをすべて文章化できてしまう。
つまり、
「見える → 書ける → だから全部入る」
という流れが自然に起きます。
みんな自然にやっているように見えて、見えることを全部書けるって本来はかなりすごい技術です。
けれど、高すぎる技術力は時として人を迷子にします。
背景を詳しく書こうと思えば書けてしまうし、心理を掘ろうと思えばずっと掘れる。
反論を予想して先回りすることもできるし、例外まで含めて精密に書くこともできる。
昔の私は、気づけることや説明できることを、なるべく多く文章へ入れるのが文章力だと思っていました。
でも、今は、気づいているけれど今回は書かない、説明できるけれどここでは説明しない、と判断することの方がよほど難しいと感じています。
それは情報を雑に扱うことではありません。
見えているものの中から、今ここに必要なものだけを選ぶ作業です。
そして、この「選ぶ作業」にこそ、その人の「美学」が出るような気がしています。
●文章には、それぞれちょうどいい密度がある
Web小説を書いていると、そのことがとても分かりやすく見えます。
私は元々、Web小説を読む側から書き始めたので、「小説ならこう書くべき」という基準より、読者さんが実際にどう読むのかをかなり気にします。
紙の本なら、腰を落ち着けてページをめくりながら読む人も多い一方、Web小説は通勤や通学の途中、寝る前の少しの時間に、スマホを片手に読む人がたくさんいます。
同じ「小説」でも、読まれる状況が違えば、心地よい文章の密度も違って当然です。
書籍なら、情景や心理を少しずつ積み重ねていくことが深い読書体験につながる場面もありますが、娯楽を求めてWeb小説を開いた人に、毎話かなり高い集中力を要求する文章を出し続ければ、それは「深い」というより、単純に読むのが大変になることもあります。
逆に、保険の契約書で「細かい話は読むのが面倒だろうから全部削りました」は絶対に許されません。
だから、文章は短ければいいわけでも、説明が少なければいいわけでもありません。
誰が、どんな状態で、何を求めて読むのかによって、必要な密度が違う。
文章には、それぞれちょうどいい場所があるのだと思います。
そして、自分が使える文章の密度が一種類しかなければ、置ける場所も自然と狭まります。
●「書かない」を選べると、文章の居場所が増える
たくさん書けることは、もちろん強みです。
細かいところまで考えられることも、背景を説明できることも、誤解されそうなところに気づけることも、全部文章を書く力だと思います。
ただ、その力を毎回すべて使う必要はありません。
100まで説明できるからといって、毎回100を書く必要はない。
noteなら、このくらい。
Web小説なら、このくらい。
SNSなら……書籍なら……。
同じ人間が書く文章でも、密度が調整できると表現の幅はかなり広がります。
私は以前、削ることに少し抵抗がありました。
考えたことを全て書かなければ、自分の思考まで薄くなったような気がしたからです。
でも今は、書かないことは、考えていないことではないと思っています。
ここで重要なのは、そもそも「書かない」という選択は、知っている人にしかできないということです。
背景を知らなければ、背景を書くことも省くこともできません。
例外を知らなければ、「今回は例外には触れない」と判断することもできない。
登場人物の心理が一つしか見えていなければ、その心理をどこまで描くか選ぶ余地もありません。
知らないものは、最初から選択肢にすら入らないんですよね。
だから私は、知識や観察力や文章力が必要なくなるとはまったく思いません。
むしろ、できるだけたくさん知っていた方がいいし、たくさん見えていた方がいい。
知っていれば、必要なときには全部書けます。
そのうえで、「今回はここまで書かなくていい」と選べる。
私は、それが一番強いと思っています。
全然関係ないのですが、今日は10月10日。
スピリチュアルの世界では「1010」はエンジェルナンバーと呼ばれていて、「新しい始まり」とか「可能性」とか、前へ進むことにまつわる数字らしいです。
こういうの、信じるかどうかはさておき、何かを始める口実にはちょうどいいですよね。
公募に出そうか迷っている作品がある方は、今日えいやっと応募してみるのもいいかもしれませんよ?
多分、今回の内容でいけば、こういう全然関係ない話は「書かない」を選ぶのが正解なんでしょうけど……。
でも、1010なので書きました(笑)
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