
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #141
ナーガリア・クロロディスは、自らの中に分かち難く根付いているひとつの感情につける名前が、ずいぶん長いことわからなかった。
彼は、繰り手としての調整と改造を受ける前、ただの人であったころから、ユーモアを好み、他者を慈しみ、人生を前向きに謳歌する男であった。
老若男女問わず、人間というものが好きであった。
人間の強さが好きだった。人間の美しさが好きだった。人間の弱さが好きだった。人間の醜さが好きだった。
功徳と罪業、そのすべてを愛した。
当事者として関わり合うのも好きであったし、傍観者として見守るのも好きだった。どのように接しようとも、人間存在は彼を飽きさせることはなかった。
――あぁ、私は未来永劫、愛し合い憎み合う彼らの営みすべてを守り抜こう。人生はかくも素晴らしい。
だが、そのような彼の蜜月に陰りが生じるようになったのは、第一大罪の内部でおぞましい異変が起こったときからであった。
――堕ちたる伊邪那美。闇の太母。第二大罪の担い手。
クロロディスは、生前の彼女を愛していた。彼女以外のすべての女も愛してはいたが、「異性として」愛したのは彼女一人だけであった。
彼女が月世界で成したことを理解したとき、クロロディスは人生最初にして最後の悲嘆を覚えた。
彼女は、他者を喰った。
自らと同じく第一大罪に召された多数の死者たちを、捕食し、消化し、同化したのだ。
彼女以外の霊魂は、事実上自我を喪い、彼女の手足に等しい存在と化した。
彼女が捕食者であったことに、特段の意味はない。ゼロサムゲームをやれば必ず一人の生存者が出てこざるをえない。そのひとりとして彼女が選ばれたなりゆきに、「偶然」以上の事情はなかった。
経緯はどうあれ、月世界を単独で支配するようになった彼女は、端的に言って怪物としか呼びようのない存在となり果てていた。
彼女は飢えていた。渇いていた。無数の死者を飲み下し、その飢餓と情欲を取り込んだ彼女は――たったひとりでそのすべてを受容することになった彼女は――まだ生きている者たちをことごとく貪り食わんと動き始めた。
――あぁ、愛しい女よ。ならば私は、貴女と決別しなくてはならない。
そうして、ようやく自覚した。クロロディスが愛していたのは、「人間」ではなく「人間の関係性」なのだ。
異なる感性を持つ他者同士が触れ合い、関わり合うことで発生しうるすべてを愛していたのだ。
だが、「彼女」は、すべての人間を喰らい、同化し、ただひとつの巨大な汎人類知性体へと変わろうとしていた。
そこでは、確かに争いはなくなるのかもしれない。他人との間に生じる誤解や軋轢のすべてが根絶されるのかもしれない。
――だめだ。そんなのは、寂し過ぎる。
それはつまり、この無限に広がる暗黒の虚空の中で、ただひとりしかいないということではないか。
絶対なる、孤独ではないか。
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