
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #111
〈トリスケリオン〉を投与された人間は、自らの人生に対して全知となる。
生まれてから死ぬまでのすべての瞬間を、現在とまったく同じ精度/彩度で認識している。記憶の風化などはない。記憶ではないのだから。
実際に見ているのだから。
〈クーニアック〉は、時間などというものは存在しないと言った。世界とは「点」の集合であり、時系列という名の「線」は存在しないのだと。
無意識のうちに点と点を適当に接続して、ひとつながりの動画として意識に見せる機能。そういうものが人類の脳には先天的に備わっているのだ。〈トリスケリオン〉はそれを一時的に麻痺させる。結果として因果律の鎖はバラバラになり、鎖を形成していたリングすべてを同時に認識できるようになる。
過去と、現在と、未来。その区分をなくし、一つに統合する。
ゆえに〈トリスケリオン〉。
実験材料となった貧民たちは、皆一様に安らいだ顔をしていた。人間が生涯に味わう苦しみのうち、「過去への後悔」と「未来への不安」がいかに大きなウェイトを占めているかを如実に物語る結果だった。慢性的なこの二つに比べたら、「〈原罪兵〉に惨たらしく殺される末路」ですら取るに足らない。時系列のない世界観に生きる人間にとって、そんなものは一過性の苦痛でしかないのだ。
「〈トリスケリオン〉の素晴らしい点は、接種者が社会的な自活能力を完全に失うってことだ。未来への不安がない奴が、未来のために何か行動を起こすわけないだろ?」
「それはおかしい。自堕落な暮らしを送れば、未来も相応に悪いものになるはずだ。彼らがそれを認識できないはずがない」
「わかってないねェ、そういう一本の線みたいな時空認識は捨てな。奴らの主観では因果律はもう働いてないんだ。自分の家族をぶっ殺しても、一晩寝たらすべてなかったことになる。奴らはそういう世界に生きてんだよ。だから、行動に後先を考えなくなる」
そのことについて語るとき、〈クーニアック〉はなぜか嫌悪に満ちた顔を浮かべた。
「もっとも、不安を持たないから攻撃性もなくなる。人間としちゃ落第点だね。そして善意と親切心から〈歌〉を垂れ流し、目の前の人間を救おうとする。そら、いまだ」
見ると、実験貧民が慈愛に満ちた顔のまま口を開き、空間震を伴った叫喚を放った。そばにいた作業員らが次々と倒れ伏し、目と耳と鼻と口から血を垂らす。
「〈歌〉の射程はそんなに長くない。コペンハーゲン宇宙観を守る神の見えざる手によって、空間震はすぐに修復されるからだ。ただし、至近距離で浴びた者は、「己の人生で最良の瞬間」の精神状態に固定されたまま、認知機能に重大な障害を負う。体は若いまま、ボケる」
老婆はライフルを膝射体勢で構え、無造作に射撃。〈歌〉を撒き散らし続ける貧民の脳天を撃ち抜いた。
そして口の端を吊り上げ、嗤った。
「ひとつ取引といこうじゃないか。薬が抜けて正気に戻った人間は、過去と未来を奪われ、いきなり檻の中に閉じ込められたような閉塞感を覚える。何が何でも〈トリスケリオン〉をもう一度キメようとする。客観的に見れば、依存性と周囲への被害においてこれほど凶悪なヤクはない。あとは――わかるね?」
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