
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #116
恐らく、奴の身体には作用反作用の法則が正常に働いていない。
これまでジアドが見せた不可解な無敵ぶりが、そのことを証明している。質量と加速度の積で記述される尋常な力では、どれほど強大無比なるニュートン単位を叩きだそうと彼を殺せないし拘束もできない。
のみならず、動かせない。
そもそもこの宇宙に「静止した物体」など本当は存在しない。セフィラの自転であるとか、第五大罪の公転であるとか、そのような要素を抜きにしても、宇宙空間において「動いている」「止まっている」の区別など相対的なものでしかない。光速の半分で進む物体Aがあったとして、同じ速度で同じ方向に進む物体Bから見れば、Aは完全に静止している。もちろん、AとBを客観的に観察すれば静止しているなどとはとても言えないのだが、それは観察者自身すらも同様である。宇宙に真の意味で静止している物質などひとつもない。「動いている」「止まっている」という言葉は常に「ある視点からは」という但し書きが省略されているのだ。
だが、ジアドは、そのような理の外にいる。
自在に出現と消失を繰り返す性質上、出現した瞬間に受けた物理干渉から「暫定的静止基準」が決定され、以降のジアドのふるまいを決定づけるのであろう。さもなくば、ジアドは出現した瞬間に自転と公転の合力に等しい速度でいずこかへと吹っ飛んでいってしまうはずだ。
ゆえに――現在、黒き竜人はこの青年を持ち上げてメタルセルの地面に叩きつけるという容易なはずの動作を実現できない。ジアド自身が動かない限り、彼はそこから動かされることはないのだ。
「アーカロト・ニココペクくんですね。探しました」
巨大な指の拘束からいともたやすく抜け出てきた青年は、地面に降り立って歩み寄ってきた。
「僕! お願いがあります。友好的に接します。喋ります」
そして、口の端を吊り上げて三日月状にした。
目尻を下げ、二つの半月を形作る。しかし、それらの奥にある瞳には依然として虚無の混沌しか存在しなかった。
理屈として理解している「友好的な表情」のつもりか。
アーカロトの胸にこらえきれぬ憤怒が煮え滾った。
「だァまァれよォッッ!!」
即座にアンタゴニアスへ〈空虚論考〉をコマンド。巨神の鉤爪が展開し、内部より罪業収束器官が露出。黒紫に艶めく罪業場が伸長し、ジアドを背後から刺し貫いた。それは暗黒の中に複雑な色彩が渦巻く超常の刃。摂理を斬り裂く対神用斬伐兵装。
「死ね……ッ!」
押しても動かされぬはずの存在が、〈空虚論考〉の伸長によって視界から消え去った。だが、アーカロトの動体視力は、ジアドが神殺しの刃に貫かれて絶命する場面など捉えなかった。代わりに、形を保ったまま切っ先に押されて遥か彼方まで吹き飛ばされてゆく姿だけを視認した。
宇宙を成り立たせる前提たる時空連続体すら切り裂く〈空虚論考〉ならば、ジアドを押すことだけはできるようだった。
ただ、押すことだけが。