
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #109
かつて、〈クーニアック〉の名で畏れられ、〈孤児〉の出ながら天臨勅任検事総長まで上り詰めた女傑がいた。
〈王冠〉セフィラの政治中枢地たる万聖殿の内殿にも日常的に出入りを許されていた彼女が、いったいいかなる理由で地位と栄誉を捨て、行方をくらましたのか――〈法務院〉の上層部でも、知るものは少ない。
だが――数十年後に再び〈クーニアック〉が現れ、ある衝撃的な提案をしてきたとき、〈法務院〉に属するホモ・サピエンスたちは懊悩した。いままでうまくいってきた経済モデルを、根本から変えるものであったから。当然、保守的な意見は出たが、それだけで切り捨てるには魅力的すぎる提案であった。
――この宇宙は、コペンハーゲン解釈が正しいらしいことは、時空間に干渉するタイプの罪業場の性質を様々な角度から観測することにより早くから立証されてきた。
世界はつねに一つであり、「無数に分岐するもしもの世界」などという荒唐無稽なものはありえないのだ。
今我々がいる地獄のごとき世界こそが唯一の現実。その事実を前に自殺者は続出し、〈帰天派〉なる胡乱な勢力を生みもしたが、大勢には特に影響はなかった。「もしもの世界」など存在したところで、行けないのなら無いも同然なのだから。
だが――〈クーニアック〉が示した理論は、この前提をどうやら覆しうる。彼女は語った。時間を逆行させ、過去の世界に行けるかもしれない、と。
――そもそも、あらゆる物理学の観点からいって、時間が逆行すると矛盾をきたすような方程式は存在しない。どの物理定数においても、時間の値をマイナスにしたところで何も不合理は起こらない。
老婆は語る。
「ならなぜ時間は過去から未来にしか流れないのか? 答えはこうだ。時間など本当は存在しない」
意識の連続性とは何か。一秒前の自分と、今の自分が、同じ存在であるとする根拠は何か。「なんとなく連続しているような気がする」という以上のことを誰一人言えないのである。世界五分前仮説を誰も理論的に否定できないのと同じだ。
「結論を言うなら、一本の線のように連続した時間の流れは存在しない。記憶という名の幻覚によって、そのような線が存在しているかのように錯覚しているだけだ。実際には、この世界は連続していない「点」の集合だ。アタシたちの脳みそには、その点のひとつひとつを比較して、無意識のうちに点同士を繋げ、なんだか筋の通った流れにみえなくもないものをでっちあげ、それだけを意識に見せることで、あたかも時間に流れが存在しているかのように錯覚させているんだよ」
何を根拠にそんなことを、と、最初は誰もが小馬鹿にした。
だが――老婆が差し出したアンプルに入っていた、目の覚めるような輝きを湛えた碧白色の液体が、その場にいた全員の認識を改めることになる。
「アタシはこれを〈トリスケリオン〉と名付けた。こいつを静脈注射すれば、一瞬で名前の意味はわかるだろうよ。中毒にはならない程度の濃度に抑えてある。適当な貧民にキメさせてみな。面白いことをしゃべるだろうよ」
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