
絶罪殺機アンタゴニアス 第一部 #172
「だけど……それは……そんなの……」
「俺は、ただのデータだ。アンタゴニアスに量子情報の形で保存されてきたものが、きっとディムズ・マーロウならばこう振舞うであろうとシミュレートされたものでしかない。俺の言葉に、本当は絶罪規定に基づく強制力などない。ディムズ・マーロウのクオリアは、もうこの世にもあの世にもない」
目を背けたかった現実を、しかし彼は自ら暴露した。
「だからこそ、俺は知っている。お前がどれほど苦しんだかも。どれほど悲しんだかも。どれほど怒り狂ったかも。お前は神ではなく人間だから。絶罪規定にのみ身命を捧げ続けることなどできはしないから」
頭に、大きな掌を置かれた。
「アーカロト。俺の繰り手。俺が死んだとき、お前は俺の言葉など翻訳せず、ただの無意味なノイズとして片づけ、再び休眠に入ることもできたはずだ。少なくともアンタゴニアスはそう促した。だが、強いてそれはせず、俺の言葉を絶罪規定に組み込んだ。それは、なぜだ?」
「う……」
言葉を探す。口を開く。つっかえながら、言う。
「あなたが、可哀そうだった、から。あなたの、涙に、何かをしてやりたいと、思ったから」
ゆっくりと抱き寄せられた。
「ならばきっと、それがお前の真実なんだ。その素朴な気持ちが、たぶん一番大事なんだ。この世の誰がそれを笑おうと、俺は、決して、笑わない」
身が、震えた。
「だから、なぁ、頼むよ、アーカロト。俺の最期の言葉を、どうか呪いになんてしないでくれ。俺を、お前の、枷になんかしないでくれ……」
声が、震えている。
「任務なんて呼んで、俺をお前の外に置かないでくれよ。俺も、俺のすべてを酌んでくれた、お前の助けになりたいんだ。誰も泣かずに済む世界で生きる、お前を見たいんだよ」
そうして、自覚する。
自分が今まで、どれほど「誰も泣かぬ世界の実現」という言葉に、義務感を覚えていたか。ごく当然のように、その任務のために命を捧げるつもりであったかを。
そのような世界が自分にとってどうであるのか、ということを、まるで考えはしなかった。どこまで行っても、他人の動機だった。「ディムズのために何かしてやりたい」だけでしかなく、任務に対して直接何かを感じたりはしなかった。
「ディムズ・マーロウ。僕の導き手」
だけど、今。
だから、今。
心から。
「僕も――そんな世界が見たいよ。僕の、この願いのために、力を貸してほしいんだ。お願いだ」
「あぁ――あぁ、わかった」
二人は身を離し、同時に立ち上がった。
そして、上空の同じ一点に、同じ鋭い目を向けた。
そこには、複雑で有機的な陰影を全身に刻んだ、しなやかでおぞましい紅き神が立っていた。闇黒の罪業場がたてがみや水草のように揺らめいている。アーカロトの記憶からなる世界を、その超越的罪業質量で吹き飛ばし、荒廃し切った暗き地球の光景を広げてゆく。
「勝とう。過ぎ去った惨劇の帳尻を合わせるためではなく、これからのために」
「あぁ」
こちらもオススメ!
私設賞開催中!