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『羅生門』をもう一度読み直す②――老婆の論理が、下人を変えた

    前編では、羅生門の下で途方に暮れていた下人が、楼上で老婆を見つけ、彼女の行為を「悪」として裁くようになるまでを見てきました。

    下人自身も、それまで「盗人になるか、飢え死にするか」と悩んでいました。

    ところが、老婆を見つけた瞬間、自分のことはいったん棚に上げ、老婆を裁く側に立ちます。

    しかし、ここから物語は大きく動きます。

    老婆には、老婆なりの「理由」がありました。

    そして、その理由を聞いた下人は、最終的に老婆と同じ論理を使って、自分自身の行為を正当化することになります。

    今回は、その変化について考えてみたいと思います。


    老婆の「仕方がない」という論理

    下人に問い詰められた老婆は、自分が死人の髪を抜いていた理由を説明します。

    髪を抜いて、鬘にしようとしていたのです。

    当然、下人からすれば許せない行為です。

    死人から髪を抜く。

    しかも、何人もの死骸が転がっている場所で、それを平然と行っている。

    下人が老婆を悪人だと考えたのも無理はありません。

    しかし、老婆はそこで、ある女の話を始めます。

    自分が髪を抜いている女は、生前、蛇を切って干したものを干魚だと言って売っていた。

    つまり、その女も人をだまして商売をしていたのです。

    普通なら、

    「だから、その女も悪い人間だった」

    という話で終わりそうです。

    ところが、老婆の考え方は少し違います。

    その女が蛇を売っていたのは、悪事を楽しんでいたからではない。

    そうしなければ、飢え死にしてしまうからだった。

    そして老婆自身も同じです。

    自分も髪を抜いて売らなければ、生きていくことができない。

    だから、

    「仕方がない」

    のだと言います。

    ここに、『羅生門』の重要なテーマがあります。


    「悪いこと」と「仕方がない」は両立するのか

    老婆は、

    「自分のしていることは正しい」

    とは言っていません。

    むしろ、自分の行為が悪いものであることをある程度認めています。

    それでも、

    「生きるためには仕方がない」

    と考えている。

    この考え方は、非常に危ういものです。

    なぜなら、この論理を使えば、さまざまな行為を正当化できてしまうからです。

    食べるためなら盗んでもいい。

    生きるためなら人をだましてもいい。

    自分を守るためなら、他人を犠牲にしてもいい。

    では、どこまでなら「仕方がない」と言えるのでしょうか。

    生活のためならいいのでしょうか。

    自分の命がかかっていたらいいのでしょうか。

    それとも、どんな事情があったとしても、してはいけないことはしてはいけないのでしょうか。

    『羅生門』は、この問いに明確な答えを出してくれません。

    だからこそ、読んでいる私たち自身が考えることになります。

    そして、この「仕方がない」という論理が、次の瞬間、下人自身に向けられることになります。


    老婆の論理を、自分自身に使う下人

    老婆の話を聞いた下人は、考えます。

    老婆が言っていることは、自分にも当てはまるのではないか。

    自分も仕事を失っている。

    このままでは飢え死にするかもしれない。

    つまり、

    「生きるためなら仕方がない」

    という老婆の論理を、自分自身にも使うことができるのです。

    ここで、下人の価値観が大きく変わります。

    それまでの下人は、

    「盗人になるか、飢え死にするか」

    という選択を前にして、迷っていました。

    しかし、老婆の話を聞いた後には、もう迷いません。

    そして、老婆に向かってこう言います。

    「己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

    この言葉は、『羅生門』を読むうえで非常に重要だと思います。

    なぜなら、下人は老婆の論理を否定したわけではないからです。

    むしろ、老婆の論理をそのまま自分のために利用したのです。


    裁く側だった下人が、裁かれる側へ

    少し前まで、下人は老婆を見て、

    「こんなことをするなんて許せない」

    という立場にいました。

    つまり、

    下人=裁く側

    老婆=裁かれる側

    だったわけです。

    ところが、老婆の話を聞いた後、その関係が逆転します。

    今度は、

    下人=悪事をする側

    になります。

    そして、老婆の着物を奪ってしまう。

    ここが『羅生門』の非常に恐ろしいところだと思います。

    下人は、最初から「悪人」だったわけではありません。

    少なくとも物語の冒頭では、盗人になることをためらっています。

    ところが、老婆の話を聞いたことで、

    「生きるためなら仕方がない」

    という、自分の行為を正当化するための論理を手に入れてしまう。

    つまり、下人が変わったのは、単純に「悪い心が目覚めたから」ではないのです。

    自分の行為を正当化できる理由を見つけてしまった。

    私は、そこにこの作品の怖さがあるように感じます。


    下人は、最初から「悪人」だったのか

    ここで、一つの疑問が生まれます。

    下人は、本当に最初から悪人だったのでしょうか。

    もちろん、最後に下人が老婆の着物を奪ったことは事実です。

    他人の物を奪う行為を、正しいこととして扱うことはできません。

    「生きるためだったから仕方がない」と言えば、すべての犯罪が許されるわけでもありません。

    しかし、それだけで下人を、

    「この人物は悪人だった」

    と片づけてしまうと、少し物足りない気がします。

    なぜなら、下人自身も最初は盗人になることをためらっていたからです。

    悪事をすることに抵抗があった。

    ところが、追い詰められた状況の中で、老婆の言葉を聞き、その論理を自分にも適用するようになった。

    つまり下人は、

    「悪人に変身した」

    というより、

    「自分の行為を正当化するための考え方を手に入れてしまった」

    と見ることもできるのではないでしょうか。


    「自分の悪」には理由をつけてしまう

    ここで、もう一つ気になることがあります。

    それは、

    人は自分の行為には理由をつけ、他人の行為には評価をつけやすい

    ということです。

    たとえば、自分が何か失敗をしたときには、

    「事情があった」

    「仕方がなかった」

    「他に方法がなかった」

    と考えることがあります。

    一方で、同じようなことを他人がしていると、

    「なぜそんなことをしたのだろう」

    「そんなことをするなんてひどい」

    と感じることがあります。

    もちろん、すべての人がそうだというわけではありません。

    しかし、『羅生門』の下人を見ていると、人間にはそうした一面があるのではないかと考えさせられます。

    下人も、老婆を見たときには、その行為を「悪」として捉えました。

    しかし、自分が老婆の着物を奪うときには、

    「自分も生きるために仕方がない」

    という理由を持ち出します。

    同じ「生きるため」という理由を持っていたとしても、立場が変われば、見え方も変わる。

    ここに、『羅生門』の面白さがあります。


    「仕方がない」は、どこまで許されるのか

    結局のところ、『羅生門』が私たちに突きつけているのは、

    「生きるためなら、どこまでのことが許されるのか」

    という問いなのかもしれません。

    老婆の行為を正しいとは言えない。

    しかし、老婆が置かれていた状況を無視することもできない。

    下人の行為も正しいとは言えない。

    しかし、下人が仕事を失い、追い詰められていたという事実もあります。

    ここで、

    「悪いことをしたのだから悪人だ」

    とだけ考えてしまうと、作品の複雑さが失われてしまいます。

    一方で、

    「かわいそうな状況だったのだから仕方がない」

    と考えてしまえば、今度は行為そのものを見失ってしまいます。

    だからこそ、簡単に答えを出せない。

    事情があることと、行為が正しいことは同じではない。

    しかし同時に、

    行為が間違っていることと、その人間を完全な「悪人」として片づけられることも同じではない。

    この微妙な境界を描いているところに、『羅生門』の魅力があるのではないでしょうか。


    次回、後編へ

    ここまで読んでくると、最初に抱いた「下人は悪人なのか」という疑問は、さらに複雑になってきます。

    下人は確かに老婆の着物を奪いました。

    しかし、その下人をそこまで追い詰めたものは何だったのでしょうか。

    そして、下人を「悪人」と呼ぶとき、私たちは何を基準に判断しているのでしょうか。

    100年以上前に書かれた『羅生門』を、今の時代に読み直す。

    すると、そこには物語の中だけではなく、私たち自身の「人を裁く」という行為についても考えさせられる部分があります。

    後編では、物語の最後に残される、

    「下人の行方は、誰も知らない。」

    という一文から、『羅生門』が現代の私たちに問いかけていることを考えてみたいと思います。

    後編へ続きます。


    前編



    最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


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    名古屋在住 電車の窓から見えた山、知らない町の古い建物、帰り道にふと気になった景色。学生時代の日常のなかで立ち止まった瞬間を、少しずつ言葉にしています。 旅行業務取扱管理者の有資格(唯一の旅行に関する国家資格)

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