
僕がダサいと思う人
沖縄に来てから、自分にとって「どんな人がダサいのか」をよく考えるようになった。
そもそも、僕が沖縄に来た理由の大きな部分には、人間観察があったと思う。
もちろん、仕事をするためでもある。
生活費を稼ぐためでもある。
新しい環境に身を置くためでもある。
でも、それだけではない。
自分とはかなり違う人間と近い距離で関わることで、自分の価値観や倫理観がどこにあるのかを見たかった。
人は、自分と似た人だけに囲まれていると、自分の輪郭が分かりにくくなる。
逆に、自分とまったく違う人と関わると、自分が何を大事にしていて、何に強い違和感を持つのかが見えてくる。
沖縄での生活は、そういう意味でかなり大きかった。
僕は、自分の倫理観に反している人でも、ある程度は普通に関われる。
嫌いだから即切る、価値観が違うから一切関わらない、というタイプではない。
だからこそ、観察できたことがある。
そしてその中で、自分にとって限りなく「ダサい」と感じるものが見えてきた。
先に言っておくと、僕がダサいと思うのは、能力が低い人ではない。
失敗する人でもない。
弱い人でもない。
失敗は誰でもする。
弱さも誰にでもある。
能力差も当然ある。
そこは別にダサくない。
僕がダサいと思うのは、責任を自分の中に置かない人だ。
自分がやったことをやりっぱなしにする。
自分が出したものを片付けない。
他人の時間や空間を軽く扱う。
指摘されると、自分の行動を見直す前に逆ギレする。
人の話を聞き流す。
それを「自分はそういうタイプだから」と言って済ませる。
周囲が困っていても、自分の態度を変えない。
でも、変なところでプライドだけは高い。
こういう態度を見ると、僕はかなりダサいと思う。
大きな悪事をしているかどうか以前に、日常の小さな責任を自分のものとして扱っていない感じがするからだ。
仕事でも同じだ。
任されたことを聞き流す。
注意されても内在化しない。
失敗しても、自分の判断や準備に戻さない。
周囲がフォローしても、それに気づかない。
むしろ、自分のプライドを守るために周りが余計な気を遣うようになる。
こうなると、もう仕事の能力以前の問題になる。
「この人に任せると面倒くさい」
「この人に言うと拗ねるかもしれない」
「この人には期待しない方がいい」
周囲がそういう前提で動き始めた時点で、かなり終わっていると思う。
本人は自由に生きているつもりかもしれない。
でも、僕から見るとそれは自由ではなく、ただ責任を外に投げているだけに見える。
自由と逃避は違う。
自由に生きるというのは、自分の選択の結果を引き受けることだと思う。
逆に、自分の選択の結果を引き受けず、失敗すれば他人や環境のせいにし、うまくいけば自分の実力だと言い張るような態度は、かなりダサい。
そこには一貫性がない。
成功した時は「俺がすごい」。
失敗した時は「あいつが悪い」「環境が悪い」「タイミングが悪い」。
注意されたら「俺の勝手」。
でも認められないと不満を持つ。
この態度には、人生の主体がない。
自分の人生なのに、自分の行動を自分のものとして扱っていない。
自分の失敗なのに、自分の中に戻さない。
自分の感情なのに、他人に処理させる。
自分の時間も、他人の時間も、一時の感情のために消費する。
そういう生き方をしていると、何も積み上がらない。
同じ期間、同じ場所で、同じ仕事をしていても、積み上がる人と積み上がらない人がいる。
その差は、才能だけではないと思う。
日々の出来事を自分の中に戻しているか。
失敗を自分の改善に変えているか。
他人からの指摘を、自分への攻撃ではなく情報として扱えるか。
自分の感情を、自分で処理しようとしているか。
周囲の時間や感情を、自分の都合だけで消費していないか。
こういう小さな差が、時間が経つと大きな差になる。
僕が「ダサい」と感じるのは、まさにここだ。
失敗そのものではない。
弱さそのものでもない。
未熟さそのものでもない。
失敗を自分のものにしないこと。
弱さを認めず、他人のせいにすること。
未熟さを改善せず、開き直ること。
他人の時間や感情を軽く扱うこと。
そのくせ、自分のプライドだけは守ろうとすること。
それがダサい。
逆に、僕がかっこいいと思う人は、責任を自分の中に戻せる人だ。
失敗した時に、まず自分の判断を見直せる人。
分からないことを分からないと言える人。
プライドより改善を優先できる人。
他人の時間や感情を軽く扱わない人。
自分の選択の結果を、自分で引き受ける人。
そういう人は、たとえ今うまくいっていなくても、積み上がっていく。
僕はそういう人間でありたい。
もちろん、自分も完璧ではない。
他責にしたくなることもある。
環境のせいにしたくなることもある。
自分の未熟さを見たくない時もある。
でも、そこで人生の主体を外に置きたくはない。
自分の人生を、自分の中に戻す。
自分の失敗を、自分の改善に変える。
自分の選択の結果を、自分で引き受ける。
それができる人間でいたい。
沖縄に来て、自分とかなり違う人間を観察したことで、自分の中の美学が少しはっきりした。
僕がダサいと思うのは、能力が低い人ではない。
失敗する人でもない。
弱い人でもない。
人生の主体を手放している人だ。
そして僕は、そういう人間にはなりたくない。
特に違和感があるのは、そういう人ほど「自由」を語ることがある、ということだ。
会社員としてまっとうに働いている人を見て、「自由じゃない」と言う。
毎日決まった時間に起き、会社に行き、責任を持って働いている人を見て、「縛られている」と言う。
社会の中で役割を持ち、家族や仕事や生活を背負っている人を見て、「自分はああはなりたくない」と言う。
でも、僕には少し違って見える。
必要な責任を自分の中に戻して、泥臭く生きている人の方が、よっぽど自由で、よっぽど素敵だと思う。
自由というのは、何も背負わないことではないと思う。
むしろ、自分で選んだものを背負えることだと思う。
会社員だから不自由なのではない。
誰かに雇われているから不自由なのでもない。
決まった時間に働いているから不自由なのでもない。
自分の選択を自分のものとして扱えているなら、その人はかなり自由だと思う。
逆に、何も背負わず、責任を引き受けず、失敗すれば他人や環境のせいにし、ただその場の感情や快楽に流されているだけなら、それは自由ではなく逃避に近い。
何も背負わないことを自由と呼ぶのは、少し違う気がする。
もちろん、「俺は俺だ」と主張すること自体は悪くない。
自分の価値観を持つこと。
人と違う道を選ぶこと。
社会の普通に合わせすぎないこと。
それ自体はむしろ大事だと思う。
でも、「俺は俺だ」という言葉を、改善しないための盾にしてしまうと、そこで止まってしまう。
自分はこういう人間だから。
自分は気にしないタイプだから。
自分は聞き流すタイプだから。
自分はこういう生き方だから。
そうやって自分を固定した瞬間、成長の余地が消えていく。
それはかなりもったいない。
僕は、できないことが多い人をダサいとは思わない。
苦手なことが多い人も、弱いところがある人も、別にダサくない。
むしろ、自分のできなさや苦手さに向き合って、どうにか改善しようとしている人はかなり好きだ。
そういう人は応援したくなるし、助けたいと思う。
不器用でもいい。
遅くてもいい。
失敗が多くてもいい。
それでも、自分の人生を自分の中に戻して、少しでも良くしようとしている人はかっこいい。
逆に、どれだけ実力があっても、どれだけ口がうまくても、どれだけ自由そうに見えても、泥臭く生きられない人は苦手だ。
自分の失敗を自分のものにできない。
自分の弱さを認められない。
他人の時間や感情を軽く扱う。
でも、自分のプライドだけは守ろうとする。
そういう姿勢を見ると、僕はどうしてもダサいと思ってしまう。
結局、僕が見ているのは能力ではなく、責任の置き場所なのだと思う。
責任を外に投げ続ける人か。
それとも、自分の中に戻して、少しずつ積み上げていく人か。
僕は後者でありたい。