
肩の荷をおろし、ただ今を感じ楽しむ力を取り戻したい
学生の頃の写真を見ていると、胸が苦しくなることがある。
最初は、ただ懐かしいだけなのかと思った。
でも、少し違う気がした。
写真の中の自分は、ものすごく楽しそうだった。
海に行っている。
川に行っている。
山に行っている。
キャンプをしている。
泳いでいる。
ジェットに乗っている。
友達とはしゃいでいる。
飲んでいる。
デートしている。
馬鹿みたいに笑っている。
それが、ほぼ毎日続いていたように見える。
その写真を見ると、少し泣きそうになる。
別に、その頃が完璧だったわけではない。
悩みもあったと思う。
未熟だったし、分かっていないことも多かった。
今の自分から見れば、危なっかしい部分もたくさんある。
でも、あの頃の自分は、かなり自由で、かなり楽しい人間だった。
それが苦しい。
今の自分は、ずっと自由について考えている。
お金、時間、健康。
仕事、事業、責任。
AnnoBoost、note、発信、市場接続。
自分がどうすれば自由になれるのかを、かなり真剣に考えている。
でも、昔の写真の中の自分は、自由になりたいなんて考える前から、瞬間的にはかなり自由そうに見える。
今日は海に行く。
今日は友達と遊ぶ。
今日は泳ぐ。
今日は飲む。
今日は好きな人に会う。
今日は山に行く。
その日を、その日として楽しんでいた。
今の自分はどうだろう。
何かをする時に、すぐ意味を考える。
これは資産になるか。
これは事業につながるか。
これは自由に近づくか。
これは市場に接続するか。
これは記事になるか。
これは将来の自分を助けるか。
そういう思考が、常に裏で走っている。
もちろん、それは悪いことではない。
今の自分は、自分の人生をちゃんと作ろうとしている。
誰かの下でずっと働き続けるのではなく、自分の仕事を作ろうとしている。
自分が耐えられる働き方、自分が納得できる収入、自分の自由を作ろうとしている。
それは必要なことだと思う。
でも、その過程で、何かを失いかけている気がする。
たぶん僕が失ったのは、自由そのものではない。
失ったのは、無目的に楽しい自分だと思う。
成果物にならなくてもいい。
記事にならなくてもいい。
お金にならなくてもいい。
学びにならなくてもいい。
ただ楽しいからやる。
ただ会いたいから会う。
ただ海に入りたいから入る。
ただ笑いたいから笑う。
そういう時間が、昔の写真にはあった。
今の自分は、あまりにも未来を背負いすぎているのかもしれない。
でも、なぜそうなったのかを考えると、やっぱり大きいのは金だと思う。
金に縛られていなければ、もっと好きなことができる。
生活費の心配がなければ、遊ぶことに罪悪感を持たずに済む。
嫌な仕事をしなくても生きていけるなら、自分の時間をもっと自由に使える。
好きなことをしても人生が詰まないなら、もっと今を楽しめる。
僕が欲しいのは、ただの大金ではない。
金に行動を支配されない状態が欲しい。
遊んでも詰まない。
休んでも壊れない。
人に会っても焦らない。
海に行っても罪悪感がない。
何の成果にもならない一日を過ごしても、自分を責めなくていい。
そういう状態が欲しい。
たぶん、僕が昔の写真を見て苦しくなるのは、そこに「金に縛られない楽しさ」が写っているからだ。
正確には、当時だって金が無限にあったわけではない。
むしろ今よりずっと持っていなかったはずだ。
でも、少なくともその瞬間には、金や将来への不安が、楽しさの前面に出ていなかった。
今の僕は、少し違う。
何をしていても、どこかで生存戦略が走っている。
どうすれば稼げるか。
どうすれば自由になれるか。
どうすれば将来詰まないか。
どうすれば自分の人生を自分の手に戻せるか。
それは大事だ。
でも、それだけだと人生が作業になる。
金を作る目的は、金持ちになることではない。
また楽しい人間に戻ることだと思う。
昔みたいに、海に行って、川に行って、山に行って、友達と馬鹿をして、好きな人と会って、身体を使って、何の成果にもならない時間を過ごして、それでも人生が崩れない状態。
それが欲しい。
だから、僕に必要なのは「昔に戻ること」ではない。
学生時代そのものには戻れない。
当時の友達との距離感も、毎日の密度も、責任が今ほどなかった時間も、もうそのままは戻らない。
でも、あの頃の自分が持っていたものは、今の生活にもう一度入れられると思う。
身体で遊ぶこと。
人と会うこと。
自然に入ること。
恋愛で理屈を超えること。
何にも変換しない休日を持つこと。
ただ楽しいで終わる時間を持つこと。
それは戻せる。
ただし、今の自分には、それを偶然に任せているだけでは戻らない。
これからは、自由を作るだけではなく、遊びも生活に組み込まないといけない。
お金を作る。
身体を作る。
人と会う。
何にもならない時間を作る。
この4つが揃わないと、たぶん昔の自分のような楽しさは戻らない。
金だけあっても、身体が死んでいたら遊べない。
身体だけあっても、人がいなければ乾く。
人がいても、金の不安が強すぎれば楽しめない。
遊びがあっても、それを全部成果物に変換しようとすると疲れる。
だから僕は、金を作りたい。
ただしそれは、数字を増やしたいからではない。
また、ちゃんと楽しい人間に戻りたいからだ。
昔の写真の中の自分は、たぶん今の僕にそれを思い出させている。
お前、昔はもっと楽しそうだったぞ。
もっと馬鹿だったぞ。
もっと身体で生きていたぞ。
もっと人と笑っていたぞ。
もっとその日を生きていたぞ。
そう言われている気がする。
今の僕は、昔の自分より多くを考えられるようになった。
責任も分かるようになった。
金の重さも、仕事の構造も、自由の難しさも分かるようになった。
でも、その代わりに、少しだけ「ただ楽しい」を失いかけている。
それは取り戻した方がいい。
でも、ここで少し考える。
すべてのことを思考したり、構造化したりすることは、強く生きるという意味では間違いではないのかもしれない。
何が起きたのかを考える。
なぜ苦しいのかを考える。
どうすれば自由になれるのかを考える。
どうすれば金に縛られずに済むのかを考える。
それはたぶん、僕が生き延びるために必要だった。
でも、人間の美しさはそこだけにはない。
考えるべきことは考える。
感じたい時は感じる。
思いたい時には思う。
ただ楽しい時は、ただ楽しいでいい。
本当は、それだけでいい瞬間もあるのかもしれない。
今の僕は、将来の自由のために、今を削りすぎている気がする。
もちろん、それが必要な時間であることも分かっている。
何も考えずに遊んでいるだけでは、たぶん自由は作れない。
金も、仕事も、事業も、自分で作っていかなければいけない。
でも、未来の自由のために今を削り続けると、心が少しずつ擦り切れていく。
このまま「いつか自由になるために」と言いながら、今の楽しさを殺し続けたらどうなるのだろう。
たとえ理想の自由の条件が揃ったとしても、その時の自分がもう何も感じられない人間になっていたら意味がない。
金がある。
時間がある。
仕事を選べる。
好きな場所に行ける。
それなのに、心が渇いていて、さらに深く何かを追い求め続けるだけの人間になっていたら、それは僕が欲しかった自由ではない。
だから、ただ今を楽しく生きることも、もう一度覚えないといけないのだと思う。
全部を成果物にしなくていい。
全部を記事にしなくていい。
全部を学びにしなくていい。
全部を未来の自由に変換しなくていい。
海に入るなら、海に入る。
友達と笑うなら、笑う。
好きな人といるなら、その時間を感じる。
身体を動かすなら、身体で生きる。
何にもならない時間を、何にもならないまま受け取る。
そういう力を残したまま、自由になりたい。
僕が作りたいのは、ただ金に困らない状態ではない。
今を感じられる心を残したまま、金に縛られずに生きられる状態だ。
未来の自由のために今を全部犠牲にするのではなく、今を感じる力を失わないまま、未来の自由を作る。
たぶん、それが本当の課題なのだと思う。
僕の学生生活に色付けてくれた友人達そして高専5年間のうち4年間付き合ってくれた元カノ、すべての人に感謝と愛を。