
構想だけして気持ちよくなってちゃわけねぇぜ
僕は、構想することがかなり好きだ。
何か違和感がある。
それを掘る。
構造が見える。
別の領域とつながる。
「あ、これはこういうことか」と腑に落ちる。
この瞬間がかなり気持ちいい。
仕事のことでも、人間関係のことでも、事業のことでも、AIの使い方でも、何かひとつ見え始めると、頭の中で勝手に広がっていく。
これは記事になる。
これは商品になる。
これは診断にできる。
これはテンプレ化できる。
これは人に任せられる。
これは将来の事業OSになる。
そうやって、構想が次々に増えていく。
でも最近、かなりはっきり思う。
構想しているだけでは、現実はほとんど変わらない。
頭の中でどれだけ綺麗な構造ができても、それが外に出ていなければ、外の世界には存在していないのと同じだ。
誰にも読まれていない。
誰にも使われていない。
誰にも買われていない。
誰にも試されていない。
誰にも伝わっていない。
つまり、自分の中ではかなり進んでいるように感じても、現実側ではまだ何も起きていない。
ここに危うさがある。
構想は、成果に似た快感をくれる。
実際には何も完成していないのに、かなり前に進んだような気がする。
まだ市場に出していないのに、売れそうな気がする。
まだ検証していないのに、構造としては正しそうに感じる。
まだ誰にも届けていないのに、何かを作ったような満足感がある。
これを僕は、構想ドーパミンと呼んでいる。
構想ドーパミンは強い。
新しい構想。
新しい仮説。
新しい事業案。
新しい改善案。
新しい言語化。
こういうものには刺激がある。
でも、成果物にする作業は地味だ。
文章を整える。
仕様に落とす。
小さく作る。
公開する。
人に見せる。
数字を見る。
反応がないことを受け入れる。
修正する。
また出す。
ここには、構想ほどの派手さはない。
でも、現実を変えるのはこっちだ。
以前働いていた会社では、改善活動がかなり盛んだった。
毎月、部署ごとに改善内容を出して、発表して、対戦するような仕組みがあった。
ただ、僕にとって改善はかなり当たり前のことだった。
面倒くさい仕事を簡単にする。
手間のかかる作業を減らす。
ミスが起きそうな場所を先に潰す。
繰り返し作業を仕組みにする。
それは特別な活動というより、普通に仕事をしていれば自然にやることだと思っていた。
だから、「改善のネタを出してくれ」と言われることに、少し違和感があった。
改善なんて、普段から目の前にあるのではないか。
面倒くさいと思った瞬間に、改善の種はあるのではないか。
なぜわざわざネタとして探すのか。
そんな感覚があった。
でも、いざ自分の改善内容を発表しようとすると、別の問題にぶつかった。
僕の改善内容が、全然伝わらない。
頭の中では筋が通っている。
実際に作業も楽になっている。
自分の中では「これは明らかに意味がある」と思っている。
でも、それを人に説明するとなると難しい。
論文風に書いていいなら、読める人には伝わるかもしれない。
背景、問題、仮説、手法、結果、考察。
そういう形で順番に説明できれば、価値は伝えられる気がする。
でも、読めない人は最初から読まない。
しかも、その改善発表には制約があった。
1分以内。
PowerPoint 1枚。
その中で、自分の改善の価値を伝えないといけない。
これは僕にとってかなり難しかった。
頭の中の構想にどれだけ意味があっても、実際の改善にどれだけ価値があっても、それを相手が理解できる形に変換できなければ意味がない。
ここで初めて、かなり当たり前のことにぶつかった。
価値があることと、価値が伝わることは別だ。
この「伝わらない」問題については、以前この記事でも書いた。
さらに言えば、価値が伝わることと、評価されることも別だ。
自分の中でどれだけ意味があっても、それが相手の時間内に、相手の理解できる言葉で、相手が判断できる形になっていなければ、現実には届かない。
僕は、自分が感じている以上の価値を説明することに抵抗がある。
誇張表現は使いたくない。
過剰に煽りたくない。
すごそうに見せるための言葉を盛りたくない。
できれば、定量的に説明したい。
どれくらい時間が減ったのか。
どれくらいミスが減ったのか。
どこが楽になったのか。
どの作業が不要になったのか。
その数字や構造を見て、価値があると思う人だけ勝手にそう思ってくれればいい。
そう考えていた。
でも、現実はそれだけでは足りない。
嘘をつかないことと、伝える努力をしないことは違う。
誇張しないことと、翻訳しないことは違う。
煽らないことと、入口を作らないことは違う。
ここを混同すると、良いものを作っても伝わらない。
僕のようなタイプの人は、似たような悩みを持ったことがあると思う。
自分が価値があると思ったものは、いつか自然に評価されると思ってしまう。
意味があるものは、意味があるのだから伝わるはずだと思ってしまう。
良いものは、良いものなのだから見つけてもらえるはずだと思ってしまう。
でも、実際はそうじゃない。
以前、友人に、自分が作ったシステムをどうやって人に知ってもらえばいいか相談したことがある。
その時に言われたことが、かなり刺さった。
「アスペあるあるだよ。物が良ければみんなが見てくれると思いがち。今の状態は、家の前に適当な看板を出して、客が来ねーかなって言ってるだけ」
かなり雑な言い方だったけど、真理だと思った。
どれだけ良いものを作っても、知られなければ存在していないのと同じだ。
誰もそこに店があると知らない。
何を売っているのか分からない。
入っていいのか分からない。
試せるのか分からない。
誰向けなのか分からない。
どう使えばいいのか分からない。
その状態で「客が来ない」と言っている。
それはたしかにおかしい。
友人はさらに、試食を配るとか、友達を招くとかしないと人が集まるわけがない、と言っていた。
これも本当にその通りだと思う。
人は、知らないものは知らない。
知りようがないものは、知りようがない。
試す機会がないものは、評価しようがない。
見つける導線がないものは、存在していないのとほとんど同じだ。
これはプロダクトでも、記事でも、改善活動でも同じだと思う。
どれだけ良い改善をしても、1分で伝えられなければ評価されない。
どれだけ良いシステムを作っても、知る機会がなければ使われない。
どれだけ良い記事を書いても、タイトルで引っかからなければ読まれない。
どれだけ良い商品を作っても、試す機会がなければ買われない。
価値は、存在しているだけでは足りない。
価値は、伝わる形にしないといけない。
試せる形にしないといけない。
判断できる形にしないといけない。
入口を作らないといけない。
ここまで含めて、成果物なのだと思う。
構想を持つこと。
改善をすること。
システムを作ること。
それ自体は大事だ。
でも、それだけではまだ半分だ。
残り半分は、人がそれを理解し、試し、評価できる形にすることだ。
成果物とは、単に「作ったもの」ではない。
伝えるためのタイトル。
読ませるための導入。
使わせるためのデモ。
試すための導線。
判断するための数字。
比較するための条件。
買うための入口。
人に任せるための仕様。
こういうものも全部、成果物の一部だと思う。
ここを軽く見ると、どれだけ良いものを作っても届かない。
良いものは勝手に見つかるわけではない。
良いものは勝手に理解されるわけではない。
良いものは勝手に評価されるわけではない。
良いものを、見つけられる形にする。
理解できる形にする。
試せる形にする。
評価できる形にする。
そこまでやって初めて、現実に置いたことになる。
だから必要なのは、構想ドーパミンを消すことではない。
構想ドーパミンを、成果物ドーパミンに変えることだ。
思いついたら、まず変換先を決める。
これは記事になるのか。
商品になるのか。
実験になるのか。
導線になるのか。
仕様になるのか。
人に任せるタスクになるのか。
いったん捨てるべきものなのか。
この変換先が決まらない構想は、一旦保留でいい。
逆に、どれかに変換できるなら、完璧でなくても外に出した方がいい。
構想は、内側で完結すると快楽になる。
外側に出すと、成果物になる。
市場に投げると、検証になる。
反応を見て改善すると、資産になる。
この変換を、もっと当たり前にしたい。
構想して満足するのではなく、構想したら何かに変える。
メモでもいい。
記事でもいい。
商品でもいい。
小さな実験でもいい。
誰かに渡すタスクでもいい。
プロダクトの改善仕様でもいい。
とにかく、外に出す。
頭の中で気持ちよくなるだけではなく、現実に置く。
それを読まれるか、使われるか、買われるか、試してみる。
そこからしか、自分の本当の価値も、事業の可能性も、自由への道も見えてこないと思う。