
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第22話】Eclipse(エクリプス)
歌舞伎町でホストとして働く神威空は、性犯罪を繰り返しながらも、未だ自由の身を謳歌していた。

ただ、夜の世界は競争が激しい。
同じ店で働く仲間であっても、客を奪い合う敵同士だ。
中には、卑怯な手段でライバルを貶めたり、私生活や素顔を晒したりするホストもいる。
抱いた女が記念にと、寝顔を撮影することも珍しくない。
そして神威空は、そんな男の悪ふざけによって、ついに素顔をSNSへ晒されてしまった。
普通の男なら、写真を晒されたところで大した騒ぎにはならない。
だが、空は違った。
歌舞伎町で飛ぶ鳥を落とす勢いの人気ホスト。
普段、客の前では決して見せない素顔だったこともあり、常連のマダムや若い女性客の間で、写真は瞬く間に拡散されていった。
Instagram。
Facebook。
そして、その他のSNSへ。
空は、自分の素顔を人目に晒すことを極端に嫌っていた。
それが、女の自慢話と悪ふざけによって、あっけなく破られた。
「空って、メイク落としてもカッコイイね」
「ちょっと可愛いかも」
「へえ……これが彼の素顔なんだ」
そんな声とともに、写真は拡散されていく。
だが、その写真が思いもよらぬ人物の目に触れることになる。
神威空の毒牙にかかった、一人の女性だった。
写真を見た瞬間、彼女は手にしていたスマートフォンを投げ捨てた。
もう、あの男の顔を見たくなかった。
「……あの男」
震える声が漏れる。
だが、彼女は警察に訴えることができなかった。
膝を抱え、ただ小さく身体を震わせる。
神威空の手元には、あの夜の映像が残っている。
「訴えたら、この映像をデジタルタトゥーとして拡散する」
あのときの言葉が、耳の奥で蘇る。
同時に、あの日の光景まで鮮明に蘇った。
あの男の声。
あの男の感触。
忘れたくても、身体が覚えている。
彼女は、事件そのものを思い出したのではない。
SNSに晒された一枚の写真によって、封じ込めていた記憶を無理やり呼び戻されたのだ。
それからというもの、彼女の脳裏には神威空の顔が繰り返し浮かぶようになった。
眠れない。
いや……あの事件以来、まともに眠れた夜など一度もなかった。
睡眠薬と酒が、いつしか彼女の生活に欠かせないものになっていた。
そしてある日。
牧港凛、22歳。
彼女は歌舞伎町に立っていた。
目の前にあるのは、神威空が働くホストクラブ『Eclipse』。
深夜一時。
店のネオンが消えてから、さらに一時間が過ぎた頃だった。
店からホストたちが次々と姿を現し、夜の街へ散っていく。
その中に、神威空がいた。
凛は鞄の中に隠していたナイフを握りしめる。
そして空の背後から、一気に体当たりした。
ドスッ。
衣服と肉を貫く、鈍い感触。
「て、てめえ……何すんだよ……」
空の顔が苦痛に歪む。
「い、痛ってえ……」
その身体が、ゆっくりと地面へ崩れ落ちた。
「お、おい! 救急車!」
空の仲間が叫ぶ。
「119に連絡しろ! それと警察も呼ぶんだ。交番のほうが早い!」
凛はその場から逃げなかった。
駆けつけた男たちに取り押さえられ、警察が来るのを待った。
ほどなくして、神威空は病院へ搬送された。
幸い、一命は取り留めた。
ナイフを突き刺した際、反動で凛の手が滑ったため、刃が深く入り込まなかったのだ。
取調室。
警察官が凛に声をかける。

「……とりあえず、相手の命が助かって良かったですね」
だが、凛の表情は動かなかった。
安堵でもない。
悔しさでもない。
ただ、すべてを失ったような顔だった。
そして、静かに口を開く。
「私は……あの男に乱暴されました」
警察官の視線が止まる。
「殺したかった……」
凛は神威空から受けた被害について、淡々と語り始めた。
しかし現時点で、それを裏付ける証拠はない。
たとえ神威空側に、今回の犯行へ至った原因があったとしても、凛が殺意をもってナイフを突き刺したという事実は変わらない。
その判断は、裁判に委ねられることになる。
そして翌日。
病院で神威空への聞き取りが行われた。

「神威空さん。今回、あなたを襲った女性が、あなたに乱暴されたと訴えているのですが……心当たりはありますか?」
空は少し驚いたような顔をした。
「……乱暴?」
その言葉を聞き返すように呟き、首を横に振る。
「そんなことしませんよ。私、歌舞伎町の有名ホストですよ。女性は大切なお客様じゃないですか」
「本当に?」
「ええ。それに、あの女性とは面識がありません」
空は淡々と答えた。
「たぶん、誰かと勘違いしているんだと思います」
そして、少し困ったような表情を浮かべる。
「いきなり刺されて、命まで奪われかけたんです。それなのに、今度は私が加害者だなんて……」
そこで言葉を止める。
「……歌舞伎町は事件が多いですが、まさか自分が巻き込まれるなんて……怖いですよね」
だが、その言葉を口にしながら、空の脳裏には別の映像が浮かんでいた。
あの夜のことを、空は忘れてなどいなかった。
「私は……被害者ですよ」
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
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