
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第23 話】映像と言う刃(やいば)
事件当時、まだ賑わいを見せていた新宿・歌舞伎町には、スマートフォンを構える人だかりができていた。
血に染まり倒れる男性。 血だらけの刃物を手にした若い女性。 そして、その女性を取り押さえる警察官。
周辺には救急車のサイレンが響いていた。
その場で撮影された映像は、瞬く間にSNSへ流れていく。

翌朝のワイドショーは、女性による殺傷事件として速報を伝えた。
「昨夜、東京・新宿区歌舞伎町で、男性が刃物で刺される事件がありました。警視庁は、現場にいた22歳の女を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕しています」
スタジオの大型モニターには、事件直後に撮影されたとみられる映像が映し出されていた。
警察から記者クラブへの正式な広報発表はまだなく、詳細は不明だったが、番組では、視聴者から提供された映像を繰り返し流しながら、事件の概要を伝えていく。
「被害に遭ったのは20代の男性で、病院へ搬送されました。命に別条はないということです」
さらに番組は、早朝の歌舞伎町へカメラを向け、事件現場周辺を取材した。
「こちら、午前9時の新宿・歌舞伎町です。事件が発生した現場から少し離れた場所からお伝えしています。……と言いますのも、現在、警察による鑑識作業が行われており、事件現場周辺は規制されているからなんですね」
午前9時。
いつもの喧騒が嘘のように、歌舞伎町の路地には人影がまばらだった。
しかし、事件現場だけは違った。
規制線の向こう側には何人もの警察官が集まり、鑑識作業が続けられている。
事件から数時間が経過しても、現場はまだ緊張した空気に包まれていた。
そして午前11時。
「ここで、警察から正式な発表がありました」
男性アナウンサーが手元の資料に目を落とす。
「事件が起きたのは、午前2時15分ごろ。新宿・歌舞伎町二丁目の路上で、22歳の女が20代の男性を刃物で刺し、殺害しようとしたとして、殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されたということです」
画面が切り替わり、規制線の張られた現場が映し出される。

「逮捕されたのは、牧港凛容疑者、22歳。警察の調べに対し、『殺すつもりで刺した』と容疑を認めているということです」
「かなり明確に殺意を認めているんですね」
コメンテーターの一人が口を挟む。
「そうですね。しかも、現場では血の付いた刃物が押収されていて、通報を受けて駆けつけた警察官が、その場で牧港容疑者を逮捕したということです」
「では、被害者の男性については?」
「左脇腹に刺し傷を負って病院に搬送されましたが、命に別条はないということです」
「二人の間には、何らかの面識があった可能性もあるのでしょうか?」
「警察は現在、動機や二人の関係について詳しく調べています。ただ、現時点では、二人がどのような関係だったのかは明らかになっていません」
こうして、事件の概要だけが視聴者へと伝えられていった。
しかし、この時点ではまだ誰も知らなかった。
なぜ、牧港凛が男を刺したのか。
そして刺された男、神威空が、彼女にとってどのような存在だったのかを。
男性は20代であること以外、公表されなかった。
病院で本人確認が行われた後、男性本人から、ホストという職業柄、本名の公表は控えてほしいとの申し出があり、警察はその意向を受け、発表上は引き続き「20代男性」として扱った。
一方、事件を伝えるニュースは瞬く間に広がっていった。
翌日以降、マスメディアの取材は激しさを増し、各社のカメラや記者は、牧港凛の地元や、事件現場となった夜の歌舞伎町にまで押しかけた。
そして、記者たちは彼女の同級生や知人、近隣住民にまで取材の手を伸ばした。
「昔はどんな子でしたか」
「事件を起こすような人には見えませんでしたか」
彼女がどんな学生だったのか。
どんな友人と付き合い、どんな日常を送っていたのか。
本人の知らないところで、その過去が次々と掘り起こされ、テレビや雑誌、ネットニュースを駆け巡った。
やがて、その影響は凛の親族にも及んだ。
何の関係もない家族の日常までもが、事件という一つの出来事によって脅かされていった。
自宅周辺にカメラが向けられ、電話や訪問による取材を受ける者もいた。
事件について何も語っていないにもかかわらず、家族であるというだけで、世間の視線にさらされていく。
凛がなぜ男を刺したのか。
しかし、事件の表面だけを追う報道では、その答えにたどり着くことはできなかった。
そこには、先般、稲村朱音が視聴者に問いかけた「真の人権」や「置き去りにされた被害者」という問題提起とは、あまりにもかけ離れたマスメディアの姿があった。
そして、警察による牧港凛への聴取の中で、事件の背景を示す一つの証言が出ていた。
「私は……あの男に乱暴されました」
凛は、そう訴えていた。
警察は、その供述から、神威空による不同意性交等罪の疑いを把握することになる。
しかし、凛本人は頑なに告訴を拒んだ。
そして、その理由についても決して口にしなかった。
告訴がなくても捜査そのものは可能だった。だが、現時点で裏付けとなる証拠は乏しい。
さらに神威空は、牧港凛とは面識がないと証言している。
捜査を進めるだけの材料は、あまりにも少なく、限られた捜査人員の中で、別件として本格的な捜査を進めることは困難だった。
やがて、神威空に対する捜査は見送られることになった。
一方で、警察による聴取を終えた神威空は、一人、病院のベッドの上で呟いた。
「あの女……『暴行された』って吐いたのか」
空の口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「まあ、証拠はない……それに」
そして、天井を見上げる。
「映像は海外の秘匿性の高いクラウドにある。俺に何かあれば、時限設定で自動的に拡散する」
しばらく黙ったあと、空は小さく笑った。
「困るのは、あいつだけじゃない。……何人もの女たちさ」

本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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