
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第24話】視聴率を貪るジャーナリスト
牧港凛の地元周辺では、フリージャーナリストや炎上系YouTuberたちが大挙し始めていた。
まだ22歳という若い女性が、男性に対して明らかな殺意を持って刃物を向けたのだ。
Xのトレンドや投稿欄では、被害者である神威空に対する同情が広がる一方、加害者となった牧港凛に対しては、その短絡的な行動を批判する声が相次いでいた。
それゆえ、人々の興味は次第に凛の過去や生い立ちへと向けられていった。
ニュースで牧港凛の事件が連日のように報じられている以上、モザイクがかけられた映像でさえ、わずかな情報をつなぎ合わせれば、地元では容易に特定できてしまう。
そして、噂が噂を呼んだ。

「名家の娘だから、甘やかされて育ったんじゃないか?」
「何故、親が謝罪しないんだ?」
「男との色恋沙汰で人を刺すなんて……」
そんなある日の午後。
牧港家の実家の前に、一人のフリージャーナリストが立っていた。
カメラを向けられた祖父の茂三郎は、とうとう我慢の限界を迎えた。

「もう、やめてくれんか!」
「お祖父さま、我々は犯罪の事実を取材しているんですよ」
「取材じゃと?」
茂三郎の声が震えた。
「知る権利、知る権利と言うて……結局は世間の好奇心を煽っておるだけじゃろ!」
ジャーナリストがカメラを少し下ろす。
「事件の背景を知りたいという視聴者の声もあるんですよ」
「そのためなら、他人のプライバシーを土足で踏みにじっても構わんのか!」
茂三郎は一歩、前へ出た。
「テレビでは顔を隠し、住所も隠しておるつもりかもしれん。じゃがな、ここは田舎じゃ。地元の者には、そんなもの全部分かるんじゃ!」
声が大きくなる。
「凛が人を刺したのは事実じゃ。詳しいことは今、警察が調べておる。それなのに、お前さんたちは昔の同級生まで探し出して、近所の者にまで話を聞いて……」
茂三郎の拳が震えていた。
「凛だけじゃない。わしら家族まで、何もしていないのに世間の目にさらされておる!」
「ですが、報道には公共性がありますので」
「公共性?」
茂三郎が吐き捨てるように笑った。
「知る権利という言葉を都合よく使って、他人の生活を覗き込み、世間の好奇心を煽り、視聴率という金を稼ぐ。それが、お前さんたちの目的じゃないのか!」
ジャーナリストは黙った。
「人にはな……プライバシーというものがあるんじゃ」
茂三郎は、ゆっくりと言葉を続けた。
「私生活上の事実を、勝手に世間へさらされない権利じゃ。この家を離れ、一人暮らしをしている凛が何をしたかとは、別の話じゃろう」
家の中では、家族が息を潜めていた。
外には、まだカメラがある。
事件のニュースが流れるたび、家族の名前が噂される。
それまで普通だった日常が、音を立てて崩れていく。
そして、茂三郎はとうとう堪忍袋の緒を切らした。
「お前さんたちは法律を犯している犯罪者じゃ!」
「……犯罪者、ですか」
「ああ!」
茂三郎は記者を睨みつけた。
「法を犯し、人の人生を壊しておいて、それでも自分たちは正義の側にいるつもりか!」
一瞬、周囲が静まり返った。
カメラだけが、無言で茂三郎を映していた。
しかし、その映像はやがてSNSへ流れていく。
そして、切り取られた。
茂三郎の言葉は、決して間違ってはいなかった。
プライバシー権。私生活上の事実を、みだりに公開されない利益を守る権利。
その根底には、憲法第13条の幸福追求権がある。
だが、世論はそれを認めなかった。
「知る権利」という言葉を掲げ、マスメディアの正義に同調する。
他人の人生を覗き見ることが、いつしか「正義」の名の下に許されていく。
人間とは、なんと卑しい生き物なのか。
他人の不幸に対しては、根底にある真実を知ることよりも、好奇心が勝ってしまう。
そして、その好奇心を満たすためなら、誰かの尊厳さえも置き去りにされていくのだ。
一方、神威空のホストクラブ『Eclipse』にも、フリージャーナリストの取材が入っていた。
20代男性。
それだけだった被害者の素性は、夜の街ではあっという間に広がっていた。
ましてや、空は『Eclipse』のナンバーワンホストだった。
テレビでは「20代男性」と報じられていても、フリージャーナリストたちにとって、そんなことは関係なかった。
空が何者なのか。
どんな女性と付き合っていたのか。
なぜ刺されたのか。
少しでも視聴者が食いつきそうな情報があれば、彼らは容赦なく探し始めた。
しかし、取材は思うように進まなかった。
空を悪く言う客が、一人もいなかったからだ。
いや正確には、ホストクラブに通う女性たちが、自分たちの担当について簡単に口を開くはずもなかった。
「空さんは、そんな人じゃありません」
「すごく優しい人ですよ」
「事件のことは、もうそっとしておいてあげてほしいです」
それ以上を語る者はいなかった。
空に関する秘密は、『Eclipse』という閉ざされた夜の世界の中に留まり続けていた。
何より、空は本当に人気者だった。

そして約一か月後。
神威空は退院した。
再び夜の街へ戻った空を待っていたのは、数え切れないほどの女性客だった。
「空くん、おかえり!」
「本当に無事でよかった!」
「もう、心配したんだから!」
店内には退院祝いのシャンパンが次々と運び込まれ、やがて、ドン・ペリニヨン・ロゼのシャンパンタワーがいくつも立ち並んだ。
あの夜、刃物で刺された男は、
今や、女性たちから心配され、愛される「被害者」だった。
空は店内を見渡し、満面の笑みを浮かべた。
そして、グラスを手に取る。
「この度は、大変お騒がせいたしました」
店内から拍手が起こる。
「神威空、こうして帰って参りました」
さらに大きな歓声が上がった。
空は頭を下げる。
「そして、こんなに素敵なシャンパンタワーまで……本当にありがとうございます」
無数のスマートフォンが、一斉に空へ向けられていた。
誰も知らない。
その笑顔の裏側に、何人もの女性を脅し、支配してきた男の顔があることを。
そして空自身もまた、その事実を、誰にも知られることはないと確信していた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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