
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第27話】牧港凛の過去
起訴、そして判決。
牧港凛が明確な殺意を認めていたことから、警察から検察への送致、そして起訴までの手続きは極めて迅速だった。
殺人未遂の客観的事実は明白である。
神威空に対し、背後からナイフを握りしめて体当たりし、そのまま突き刺した行為。
動機や背景については頑なに黙秘を続けていたが、犯行時の殺意だけは、はっきりと認めていた。
一部の刑事は、動機として、神威空による不同意性交等罪の被害を疑っていた。
しかし、あれ以降、本人は口を閉ざし、黙秘を続けている。
捜査機関としても、それ以上の事実を確認することはできなかった。
弁護を担当した新城倫史は、│心神耗弱《しんしんこうじゃく》による減刑を主張したが、牧港凛本人が完全黙秘を貫き、一切の弁明を拒んで自らの罪を受け入れている以上、酌量の余地は極めて乏しかった。

若い女性がここまで頑なになるには、それ相応の理由があると分かってはいたが、触れられたくない、……いや深掘りしてはいけないと言う感覚があった。
そして、両親にも何度となく尋ねられた。
「凛。どうして何も話してくれないの?」
母親は、面会室の向こうから娘を見つめた。
「あいつと何かあったはずだ」
父親の声も震えていた。
「あいつに脅されているのか?」
凛は、│俯《うつむ》いたままだった。
「……何もないよ」
「なぜ黙ってる!」
父親が思わず声を荒らげた。
「何もない人間が、しかも他人に優しいお前が、なんの理由もなく人を殺そうなんて思うはずがないだろ!」
「……」
「父さんたちに言えないことなのか?」
凛は、しばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。
「……ごめんなさい」
それだけだった。
「ごめんなさいじゃ分からないだろ!」
父親の目に、涙が浮かんでいた。
「お前が何をされたのか、何であいつを刺したのか。それを話してくれ。父さんたちは、お前を責めたりしない」
母親も│頷《うなず》いた。
「そうよ。どんなことがあっても、凛は私たちの娘だから」
凛は、唇を噛みしめた。
言えなかった。
本当のことを話せば、自分の裸体が、犯されている姿が│晒《さら》される。
嫌がりながら身体が答えていた姿が……。
か弱き抵抗。
それは薬による意識障害とは映らない。
濡れた音。
受け入れたとしか映らない。
例えそれが、心と体の│不一致《ディスコーダンス》であっても。

あの男が何を持っているのか。
何を隠しているのか。
それを知っているからこそ、凛は口を閉ざしていた。
「……私が世間知らずだっただけ」
「凛……」
それ以上、何も語らなかった。
両親には、それが理解できなかった。
なぜ、そこまでして娘は何も話そうとしないのか。
なぜ、自分一人ですべてを背負おうとするのか。
その答えを、二人が知ることはなかった。
もし事実を知れば、すべてを公にすれば、娘が辱められた姿まで知られることになる。
その姿を、世界中の人間が目にすることになる。
辛うじて残された尊厳まで失われる。
そして凛は、それを恐れていた。
だからこそ、自分が受けた被害さえも、黙って受け入れていた。

「主文。被告人・牧港凛を、懲役八年に処する」
法廷に、裁判長の声が低く響き渡る。
「……被告人が犯行に至った経緯や動機について一切を語らない以上、酌量減軽の材料を見出すことは困難である。被告人親族による被害者側への賠償の意向や、過熱する報道による社会的制裁の側面を考慮したとしても、本件の犯行の悪質性と強い殺意を鑑みれば、厳しい刑罰を免れることはできない。犯行に至った経緯についての説明もなく、被害者に対する謝罪の意思も明確ではない以上、これ以上の情状酌量を認めることは、到底、法の下の公平に反するものである」
判決言い渡し後、凛は新城弁護士と面会室で向き合い、控訴しない旨を告げた。
「本当に、控訴しなくていいんですか?」
新城が尋ねる。
「はい」
凛は静かに答えた。
「これ以上、家族を巻き込みたくありません」
その言葉を聞き、新城は何も言えなかった。
家族にも、その意志が伝えられた。
両親は当然、控訴してほしいと願った。
しかし、凛の意志は変わらなかった。
やがて、懲役八年の判決は確定した。
凛の胸中には、巻き込んでしまった両親や祖父に対する深い申し訳なさと、謝罪の念があった。
だが、それ以上に、神威空に対する憎悪の念は、更に燃えあがっていた。

服役囚として、暗い鉄格子の中へと消えていく凛。
その心の奥底で、静かに育まれていた感情は、反省や更生などではなかった。
どす黒く研ぎ澄まされた、純粋な悪意だった。
(私はあなたを絶対許さない……。8年。……次は、確実に殺すから)
闇に堕ちた彼女の目が、暗闇の中で冷たく光っていた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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