
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第30話】法は何を守るのか
報道特別番組『法は何を守ったのか 〜葉山鮎さんストーカー殺害事件の闇〜』
「皆さん、今夜は、先日発生したストーカー殺人事件について、法律の仕組みや警察の対応を検証します」

キャスターの稲村朱音は、正面のカメラを見据えた。
「私はこれまで、『変わりゆく刑務所』『置き去りにされた被害者』という二つの視点から、人権について考えてきました。しかし今回の事件で、さらに深く考えなければならない問題が浮かび上がりました」
画面に、葉山鮎の写真が映し出された。
「25歳という若さで命を奪われた鮎さん。彼女はホステスとして働いていましたが、客だった小谷修吾の執拗な接触を拒み、店への出入りを禁止しました。それを境に、小谷容疑者はストーカーと化していったと思われます」
画面が切り替わり、鮎が警察に相談した経緯が表示された。
「彼女は、身の危険を感じて警察に相談していました。警察は小谷容疑者の身元を確認し、警告を行いました。しかし、そのわずか数日後、鮎さんは自宅マンションの前で刃物に襲われ、帰らぬ人となりました」
稲村は、静かに言葉を続けた。
「なぜ、悲劇を防げなかったのか。警察は何を把握し、どこまで対応できていたのか。そして、被害者の安全を守るために、制度には何が必要だったのでしょうか」
【検証1:警告の先にあったもの】
画面には、小谷容疑者がマンション周辺に車を止めていた防犯カメラ映像が映し出された。
「ストーカー規制法には、警告や禁止命令等の仕組みがあります。状況によっては、事件が発生する前に、法的な措置を講じることも可能です。では、今回のケースでは、どのように危険性が評価され、どのような措置が検討されたのでしょうか」
稲村は、手元の資料に目を落とした。
「もちろん、相手が危険な人物に見えるという理由だけで、逮捕することはできません。身柄を拘束するには、法律上の要件が必要だからです。疑いだけで人を拘束しない。それは、私たちの社会が守らなければならない原則です」
一拍置いて、彼女は顔を上げた。
「しかし、被害者にとって、危険はすでに目の前にありました。毎日、いつ襲われるかという恐怖を抱えて暮らす。その恐怖は、実際に暴力を受けるまで、存在しないことになるのでしょうか」
スタジオに沈黙が流れた。
「法的な手続きが必要なのは当然です。しかし、その手続きを進める間にも、時間は流れていきます。警告を出しただけで、被害者の安全が確保されるのでしょうか」
【検証2:密室に残された危険】
画面が、鮎の暮らしていたマンションへと切り替わった。
「事件後、小谷容疑者は、鮎さんの部屋に侵入し、隠しカメラや盗聴器を仕掛けていたことが明らかになりました」
モニターには、室内の様子を監視する隠しカメラのイメージ図が映し出された。
「もし、侵入や盗聴の事実が早い段階で把握されていたら、対応は違っていたのでしょうか」
画面には、事件前に鮎が相談していたことを示す資料が映し出された。
「彼女は助けを求めていました。警察に相談し、戸締まりを強化し、それでも危険から逃れることはできませんでした」
稲村の声が、わずかに強くなった。
「被害者が自分の身を守る努力をすることは大切です。しかし、被害者自身の対策だけでは限界があります。被害者に防犯を求めるだけで、本当に十分だったのでしょうか」
【検証3:人権の天秤 〜加害者の権利と被害者の安全〜】
スタジオの照明が落ち、稲村の表情に影が差した。
「小谷容疑者は、過去に強盗罪で服役した人物でした」
「しかし、過去に罪を犯した人であっても、刑期を終えた後まで無条件に自由を奪われるわけにはいきません。新たな犯罪の疑いがあれば、法律に基づいて対応する必要があります」

稲村はカメラを見据えた。
「では、加害者の権利を守ることと、被害者の安全を守ることは、本来、対立するものなのでしょうか」
「加害者の自由を尊重することは、被害者の危険を見過ごすことではありません。人権を守るという理念が、被害者の訴えを受け止めない理由になってはならないのです」
彼女は一度言葉を切った。
「鮎さんにも、安心して暮らす権利がありました。自分が拒絶した相手にしつこくつきまとわれ、警察に相談しても、なお恐怖の中で暮らさなければならない。もし、制度の運用に抜け穴や│脆弱性《ぜいじゃくせい》があるのなら、私たちはそこから目を背けるべきではありません」
【エンディング:稲村朱音の提起】
カメラが、稲村の表情を大きく映し出した。
「法は、人の自由と権利を守り、犯罪から人々の安全を守るためにあります。しかし、制度が存在することと、その制度によって人が守られることは、同じではありません」
「警察は相談を受け、警告を行いました。それでも、一人の女性が命を落としました。だからといって、警察の対応がすべて間違っていたと、今ここで断定することはできません。検証すべきなのは、当時、何が把握され、どのような選択肢があり、なぜ彼女の命が失われたのかということです」
稲村は、ゆっくりと続けた。
「葉山鮎さんは、もう帰ってきません。けれど、彼女の死を、ただ一つの悲惨な事件として終わらせてよいのでしょうか」
「次の被害を防ぐために、法は何ができるのか。警察は何をすべきなのか。そして、私たちの社会は、被害者の声をどこまで受け止められるのか」
彼女は、最後まで視線をそらさなかった。
「加害者の権利を守ることも、社会にとって必要です。しかし、その一方で、被害者が命を失ってから制度の不備を語るのでは、遅すぎるのではないでしょうか」
「真実の人権とは、一体誰のためにあるのか。葉山鮎さんの死が突きつけた問いを、私たちは決して忘れてはならないのです」
画面がゆっくりと暗転した。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
著作権は著者に帰属します。無断転載・複製を禁じます。
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