
悪に優しきこの国で −裁かれぬ悪と、救われる悪−【第29話】法の隙間
小谷修吾・44歳。数年前まで、強盗傷害罪で服役していた男だ。
だが、逮捕前に隠し持っていた『金』の価値が、服役中に爆上がりした。
出所した時には、億単位の財産を手にする資産家となっていた。
彼は夜の街で連日豪遊し、ある高級クラブのホステス・葉山鮎に入れ込んだ。

「なあ、抱かせてくれよ。俺はお前が好きなんだ」
酒に酔った修吾の手が、ナイトドレスの胸元へ滑り込む。
「小谷さん、ちょっと……そういう店じゃないんで……」
彼女が黒服に視線で合図を送ると、すぐに体格の良い男性スタッフたちが修吾を店外へつまみ出した。
「お客さん、ちょっとやりすぎですよ。鮎さんが嫌がってるでしょう」
「あぁ!? 俺がどんだけこの店に金積んだと思ってんだよ!」
「いやいや、金払えば何してもいいわけないでしょ。そう言う行為がしたいなら、他の店を当たってください」
「くそっ……馬鹿にしやがって! 二度と来るもんか」
だが、小谷修吾は諦めなかった。
翌日から店の前で待ち伏せし、鮎の帰宅を狙って後をつけた。
彼女の自宅マンションを特定するまで、何日も、何回も陰から尾行を重ねた。
彼女は毎夜、店の送迎車で自宅まで送られていたため、周囲を警戒することなくエントランスへと入っていく。

オートロック付きの高級マンション。
部外者が簡単に入れる場所ではない。
だが、クラブが休みの平日昼間、彼女が出かけた。
修吾はスマートフォンで撮影しながら、しつこく鮎の生活パターンを観察した。
立ち寄るカフェ。
通うフィットネスジム。
休日の過ごし方。
彼女の日常を、一つずつ把握していく。
まだ、直接手は出さない。
……そしてある日、修吾は重大な隙を見つけた。部屋のドアの鍵をあける仕草がないのだ。
鮎の部屋に侵入できる機会だった。
修吾はその隙を利用し、彼女の部屋へ侵入した。
そして、隠しカメラや盗聴器を仕掛けた。
モニター越しに暴かれる、鮎の無防備な私生活。
修吾は、それを眺めながら満足げに笑った。
「へえ……普段着も可愛いね」
その歪んだ欲望は、日に日に強くなっていった。
修吾は毎晩のように鮎のマンション周辺に車を止め、張り付くようになった。
だが、不審な車に気づいたマンションの住民が警察に通報した。
「毎晩、見慣れない車がずっと止まっています」
その噂は鮎の耳にも届き、車の中にいるのが、あの不快な客・小谷修吾だと判明した。
鮎は恐怖に震えながら、警察にストーカー被害を相談した。
警察も、何もしなかったわけではない。
修吾本人を呼び出し、事情を確認した。
鮎への接近をやめるよう警告し、今後も同様の行為が続けば、さらに厳しい対応を取る可能性があることも伝えた。
しかし、それでも修吾を逮捕することはできなかった。
現時点で確認できているのは、マンション周辺での待ち伏せと、不審な車を長時間停車させていたという事実だけ。
鮎が恐怖を感じていることは間違いない。
だが、それだけで身柄を拘束できるわけではない。警察には警察の手続きがあり、法には法の要件がある。
危険を感じている。
怖い。
何かされるかもしれない。
鮎にとっては、それだけで十分な恐怖だった。
しかし、法の側から見れば、「何かされるかもしれない」は、まだ「何かされた」ではない。
この、わずかな隙間。
被害者が感じている危険と、警察が強制的に介入できる条件との間にある隙間に、鮎は取り残された。
警告を出したところで、警察官が彼女を24時間体制で警護してくれるわけではない。
警察もまた、起きていない犯罪を理由に、自由に人を拘束することはできない。
だからこそ、修吾は警告を受けても恐れなかった。
修吾は警察から受けた警告を鼻で笑った。
(警告? 何もできねえだろ)
そして、ある平日の昼間。
小谷修吾は再び鮎の部屋の前に立っていた。
だが、ドアノブを回しても開かない。
鍵が、しっかり施錠されていた。
警察への相談を経て、彼女も防犯意識を高めたのだろう。
(チッ……鍵をかけやがったか)
幸い、仕掛けた隠しカメラと盗聴器は、まだ発見されていない。
修吾は一旦マンションを出た。
そして、遠くから鮎の行動を監視し続けた。
もう、部屋には入れない。
その事実が、修吾の中に新たな苛立ちを生んでいた。
さらに尾行の最中、鮎が店の上客と親密そうに談笑する姿を目撃した。
修吾の胸の中に、黒々とした嫉妬心が渦巻いていく。
(なんで、あの男には笑ってんだよ……)
自分には拒絶した女が、他の男には笑顔を見せる。
それが、修吾には許せなかった。
金はある。
お前が欲しいものは、全て与えた。
なのに……。なぜ、あの女は自分のものにならない。心を開かないんだ?
その歪んだ考えが、修吾の中で膨らんでいった。

今夜も出勤日。あと少しで、彼女がマンションから出てくる。
エントランスの前には、いつもの送迎車が待機していた。
また、あいつが俺の手の届かない場所へ行ってしまう。
そう思った瞬間。
修吾の中で、何かが切れた。
その手には、刃物が握られていた。
葉山鮎、享年25歳。
街灯の光の下。
呆然とした小谷修吾の手には、血に染まった刃物が握られていた。
本作品はフィクションです。登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
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