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雷神、主を諫む|第11章 書き足した一行

    断章

    文というものは、不思議じゃ。

    顔を合わせれば言えぬことが、筆を持てば書ける。

    書いたものは、残る。わしが死んでも、残る。わしの声が消えても、わしの字は、紙の上で、黙って待っておる。

    読まれる日を。

    読む者が、いちばん、それを必要とする日を。

    だから、わしは書いた。

    言えなかった一言も、最後に、書き足した。

    一

    天正てんしょう十三年、水無月みなづき。

    梅雨が明けきらず、高良山の森は、いつも濡れていた。木々の葉から落ちるしずくが、陣幕を叩き、地面には、どこへ行っても水が溜まっている。湿った空気は重く、老いた体に、じっとりとまとわりついた。

    柳川やながわの城を、もう一度攻めようとしていたさなかのことだった。

    高良山こうらさんの陣で、道雪どうせつが倒れた。

    朝、輿こしに乗ろうとして、そのまま、膝から崩れ落ちたのだ。六助ろくすけが抱きとめたとき、道雪の体は、燃えるように熱かった。

    陣屋に運ばれた道雪は、三日、目を覚まさなかった。

    高良山の社やしろで、病が治るよう、祈りが捧げられた。紹運じょううんは、自分の陣を家臣に任せ、道雪の枕元を離れなかった。自ら薬を煎じ、額の汗を拭い、夜通し、そばに座っていた。

    四日目の朝、道雪は、目を開けた。

    最初に見えたのは、紹運の顔だった。目の下に、深い隈ができていた。

    「……そなた、寝ておらぬな」

    道雪の声は、かすれていた。

    紹運は、ほっとしたように、笑った。

    「道雪殿こそ、三日も寝ておられました。わたしの分まで」

    「たわけ」

    道雪は、目を閉じた。

    「少しは、横になれ。そなたが倒れたら、筑前は、誰が守る」

    言ってから、道雪は、少しおかしくなった。

    人に早く寝ろと言うのは、いつも、自分の役目だった。

    二

    文月ふみづきに入ると、道雪は、床の上で身を起こせるようになった。

    だが、熱は、下がりきらなかった。咳も、止まらなかった。食べたものを、すぐに戻した。

    道雪は、自分の体のことは、自分がいちばんよく分かっていた。

    夏の夜の陣屋は、蒸していた。開け放った戸口から、草いきれと、遠い筑後川の水の匂いが流れ込んでくる。蚊遣りの煙が、細く、灯りのまわりをたゆたっていた。暗がりのどこかで、虫が鳴いている。その声だけが、病人の浅い息づかいと、交互に、部屋の静けさを刻んでいた。

    ある夜、道雪は、紹運と二人きりになったとき、言った。

    「紹運。わしは、そう長くない」

    紹運は、何も言わなかった。言い返さなかったことが、答えだった。

    「頼みがある」

    「何なりと」

    「統虎むねとらと、誾千代ぎんちよのことじゃ」

    道雪は、天井を見ていた。

    「あの二人は、喧嘩ばかりしておる。じゃが、喧嘩のできぬ夫婦は、城を守れぬ。わしが死んでも、喧嘩はさせておけ。そのかわり、城を捨てさせるな」

    「承知しました」

    「それから」

    道雪は、紹運の顔を見た。

    「そなたも、死ぬな」

    紹運は、目を見開いた。

    「島津は、必ず来る。肥前を取り、筑後を窺い、いずれ筑前へ来る。そのとき、岩屋と宝満と立花山が、筑前の最後の砦になる。わしがおらぬあとは、そなたが、要じゃ」

    紹運は、しばらく黙っていた。

    それから、静かに言った。

    「道雪殿。わたしは、死ぬなと言われて、はいと言える男ではございませぬ」

    「知っておる」

    「されど、統虎には、生きよと言います。道雪殿の城を、守り通せと」

    道雪は、目を閉じた。

    「それで、よい」

          *

    同じ夏。

    臼杵うすきの丹生島にゅうじまの城に、筑後から知らせが届いた。道雪殿、陣中にて病に伏す。

    宗麟そうりんは、その文を何度も読み返した。

    見舞いの使いを出そう、と思った。薬師を送ろう。米も送ろう。

    筆を取りかけて、手が止まった。

    去年の春、この口で、道雪を追い返した。お主は、いつも、わしを責める。そう言って。

    今さら見舞いを送れば、あの言葉を取り消すことになる。取り消せば、自分が間違っていたと認めることになる。

    それに、筑後の兵糧は義統が受け持っている。また臼杵から米を送れば、義統の顔を、もう一度潰すことになる。

    道雪の言ったとおりだった。

    宗麟は筆を置いた。

    「……あやつは、丈夫な男じゃ」

    誰にともなく言った。

    「雷を斬った男が、病などに負けるものか」

    その夜、宗麟はなかなか床に就かなかった。送らなかった見舞いの文の書き出しを、灯りの下で、何度も頭の中で繰り返していた。

    道雪殿。夜は、早う――。

    そこまで考えて、宗麟は首を振った。それは、あやつの言葉だった。

    三

    葉月はづきの終わり、道雪は、六助を呼んだ。

    「文箱を持て。それから、灯りを、もう一つ」

    六助は、言われたとおりにした。

    道雪は、床の上に身を起こした。脇息きょうそくにもたれ、文机を膝の前に引き寄せさせた。

    夜は、静かだった。陣のどこからも、声は聞こえない。二つの灯りが、文机のまわりだけを、丸く、黄色く照らしていた。その光の輪の外では、陣屋の柱も、壁も、闇に溶けて見えなかった。六助が墨をすると、湿った夜気の中に、かすかに甘い、墨の匂いが広がった。

    筆を取った。

    手が、震えていた。

    墨を含ませた筆先が、紙の上で、しばらく止まっていた。

    殿へ。

    そう書いた。

    それから、ゆっくりと、一行ずつ、書いていった。

    二階の崩れた夜、殿の側に立てたこと、生涯の誉ほまれにござった。

    三十五年前の、あの夜を思い出した。廊下に血の匂いがしていた。翌日、別府から戻った二十一の若殿が、青い顔で、こちらを見ていた。わしは、この方の側に立つ。そう決めた冬だった。

          *

    天文てんぶん十九年、如月きさらぎ。

    府内ふないの大友の館は、雪まじりの冷たい雨に濡れていた。

    その数日前から、館の中には、張りつめたものが漂っていた。先代のお屋形様、義鑑よしあき様が、嫡男の義鎮よししげ様を退け、側室の子である幼い塩市丸しおいちまる様に、家督を継がせようとしている。そういう噂が、家臣たちのあいだで、ひそひそと交わされていた。

    義鎮様は、そのころ、別府べっぷの湯に出されていた。府内から遠ざけられた、と言う者もいた。

    そして、あの夜が来た。

    館の二階で、騒ぎが起きた。義鎮様を慕う家臣たちが、義鑑様の寝所に押し入ったのだ。

    刀の音。女の悲鳴。障子の破れる音。

    戸次鑑連あきつら――のちの道雪が駆けつけたとき、階段には、血が流れ落ちていた。灯りの消えた廊下に、生臭い鉄の匂いが立ちこめていた。塩市丸様も、その母御も、すでに息がなかった。義鑑様は、深い傷を負って、床に伏していた。

    家督を継ぐのは誰か。家臣たちは、二つに割れかけていた。

    翌日、義鎮様が、別府から、馬を飛ばして戻ってきた。

    館の門をくぐった若者の顔は、紙のように白かった。二十一。まだ、頬に幼さが残っていた。父が死にかけ、弟が殺され、家臣たちが、自分を見ている。その視線の重さに、若者の膝は、かすかに震えていた。

    広間には、家臣たちが並んでいた。誰も、口を開かなかった。義鎮様につくのか、それとも、ほかの誰かを担ぐのか。皆が、互いの顔色をうかがっていた。

    鑑連は、その沈黙の中で、立ち上がった。

    三十八だった。鑑連は、居並ぶ家臣たちのあいだを抜けて、義鎮様の前へ進み出ると、静かに膝をついた。

    「戸次鑑連。若殿に、お仕えいたしまする」

    広間が、どよめいた。

    鑑連は、顔を上げた。若者と、目が合った。

    震えていた若者の目に、ほんのわずかに、光が戻るのが見えた。

    それを合図にしたように、一人、また一人と、家臣たちが膝をついていった。

    その夜、鑑連は、館の廊下で、若殿とすれ違った。

    若殿は、足を止めた。何か言いたげに、鑑連の顔を見ていた。

    「……なぜ、わしについた」

    若殿が、ようやく言った。

    鑑連は、少し考えた。

    「若殿が、いちばん、危なっかしゅう見えましたゆえ」

    若殿は、目を丸くした。それから、こらえきれずに、小さく笑った。

    あの夜以来、初めて見る、若者の笑顔だった。

    「お休みなされ。今宵は、もう、何も起こりませぬ」

    鑑連は、そう言って、頭を下げた。

    それが、最初だったのかもしれない、と道雪は思う。

    夜は、早う休まれよ。三十五年言い続けた言葉の、いちばん初めは。

          *

    立花の山は、殿から預かった城。わしが死んでも、統虎が守り申す。

    道雪は、書いた行を、小さく声に出した。

    観世音寺口で見た、あの若者の槍なら、守れる。道雪は、そう信じていた。

    聞かれぬ諫いさめを重ねたが、悔くいはござらぬ。言い続けられたこと、わしの幸いでござった。

    そこまで書いて、筆が止まった。

    道雪は、しばらく、紙を見ていた。

    本当に、悔いはないか。

    耳川の前の夏。止めきれなかった。

    臼杵の春。言い過ぎた。

    そして、あの夜。

    廊下で、自分の背中を見ていた、あの人の目。

    言えなかった一言。

    道雪は、目を閉じた。

    悔いは、ある。たった一つだけ。

    道雪は、文箱の底から、小さな紙包みを取り出した。春、増時が陣まで届けてきた、立花山の花壇の種だった。

    道雪は、また筆を取った。

    花の種を少し、添え申す。わしの庭のものにて、春に植えれば、よう咲き申す。去年は植え過ぎたゆえ、ほどほどになされよ。

    書き終えて、道雪は、少し笑った。

    最後まで、小言じゃな。

    道雪は、紙包みの表に、短く書きつけた。

    それから、長いあいだ、動かなかった。

    灯りが、揺れた。

    六助は、息を殺して、主の背中を見ていた。

    道雪は、筆を、もう一度、墨に浸した。

    ゆっくりと、最後の行を書いた。

    夜は、早う休まれよ。

    筆を置いた。

    道雪は、その一行を、しばらく、見つめていた。

    「……ようやく、言えた」

    誰に向けるともなく、そう言った。

    声が、少し、震えていた。

    四

    道雪は、書状に、名を記した。

    道雪。

    墨が乾くのを待って、書状を丁寧に折り、花の種の包みとともに、油紙あぶらがみで包んだ。

    「六助」

    「へえ」

    六助は、膝を進めた。

    「六年前、そなたを近習に取り立てた夜のことを、覚えておるか」

    「……覚えちょります」

    ※〜ちょります=〜ています

    「いつか、わしが自分では行けぬところへ、何かを運んでもらうことがあるかもしれぬ。そう言うたな」

    六助の手が、膝の上で、震えはじめた。

    道雪は、油紙の包みを、六助の前に置いた。

    「これを、お屋形やかた様に届けよ」

    「……へえ」

    「ただし、すぐに渡してはならぬ」

    六助が、顔を上げた。

    「わしが死んだと聞けば、お屋形様は、泣かれるであろう。泣いて、悔やんで、それで終わる。それでは、この文は、ただの形見になる」

    道雪は、ゆっくりと言葉を継いだ。

    「島津は、必ず豊後へ攻め入る。お屋形様は、追い詰められる。家臣は離れ、城は囲まれ、もう何も残っておらぬと思われる日が来る」

    道雪の目が、六助を見た。

    「その日に、渡せ。お屋形様が、いちばん苦しいときに。立花の山が守られたと、分かったあとにな」

    「なぜ、そのときなんですか」

    「この文に、書いたからじゃ。わしが死んでも、統虎が守ると。それが、まことになったと分かったときに、読んでほしい」

    道雪は、少しだけ、笑った。

    「わしの言うたことが、一つくらいは当たっておったと、思うてもらいたいのじゃ。それくらいの見栄は、張らせよ」

    六助は、油紙の包みを、両手で受け取った。

    軽かった。

    こんなに軽いものを、こんなに重く感じたことは、なかった。

    「……必ず、届けます」

    六助は、言った。

    「どんなに遠くても。どんなに囲まれちょっても。担いででも、届けます」

    「担がずともよい。懐に入れて、走れ」

    道雪は、ぶっきらぼうに言った。

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    五

    長月ながつきに入ると、道雪は、ほとんど眠っているようになった。

    ときどき目を覚ますと、紹運を呼び、いくつかのことを言い残した。

    「わしが死んだら、甲冑かっちゅうを着せよ。そして、柳川のほうへ向けて、この地に埋めよ」

    紹運は、黙って聞いていた。

    「死んでも、筑後は見張っておる。そう、敵に思わせよ」

    「……承知しました」

    紹運は、そう答えた。

    だが、その目は、承知していなかった。道雪を、敵の地に埋めて帰るつもりなど、紹運にも、家臣の誰にも、なかった。

    道雪も、それは分かっていた。分かっていて、言ったのだ。

    その夜、道雪は、もう一度、紹運を呼んだ。

    「書き取ってくれ。わしの手では、もう、字にならぬ」

    紹運は、筆と紙を取った。

    道雪は、天井を見たまま、しばらく黙っていた。

    それから、かすれた声で、ゆっくりと、ひとつずつ言葉を置いていった。

    異方ことかたに

    心ひくなよ

    豊国とよくにの

    鉄くろがねの弓末ゆずえに

    世はなりぬとも

    紹運の筆が、途中で、止まりかけた。

    よその家に、心を引かれるな。豊の国の者たちよ。たとえ世の中が、刀と弓がすべてを決める乱世の果てになろうとも。

    「……道雪殿。これは、お屋形様への歌でございますか」

    「いや」

    道雪は、首を、わずかに横に振った。

    「お屋形様への言葉は、もう、書いた。これは、家中の者たちへじゃ。立花の者、高橋の者、豊後の者。大友の旗の下におる、すべての者たちへの」

    道雪は、目を閉じた。

    「大友は、傾いておる。これからも、離れていく者は出るであろう。それを責めはせぬ。乱世じゃ。じゃが、わしの育てた者たちには、最後まで、ここにおってほしい」

    紹運は、歌を書き終えると、しばらく、その紙を見つめていた。

    「……わたしが、皆に伝えます」

    「頼む」

    道雪は、少しだけ、口の端を上げた。

    「歌など、柄ではないがのう。死ぬ前くらいは、格好をつけさせよ」

    紹運は、笑おうとして、笑えなかった。

    誾千代に宛てて、短い文も書かせた。もう、自分では筆を持てなかった。紹運が、代わりに書いた。

    米と塩と水の数を、忘れるな。喧嘩は、してよい。城は、捨てるな。

    それだけだった。

    長月ながつき十一日。

    朝から、秋の雨が降っていた。

    陣屋の外で、六助と、若い定衆じょうしゅうたちが、輿のそばに座っていた。誰も、何も言わなかった。

    昼過ぎ、紹運が、陣屋から出てきた。

    顔を見ただけで、分かった。

    六助は、懐の油紙の包みを、上から、そっと押さえた。

    雨の音の中で、誰かが、小さく、言った。

    「……えい、とう」

    声は、すぐに、雨に消えた。

    戸次道雪。七十三歳。

    筑後、高良山の陣中にて、没した。

    史実メモ

    • 一五八五年(天正十三年)六月、柳川城攻めの最中に、道雪は高良山の陣中で病に倒れました。高良大社で病気平癒の祈願が行われ、行動をともにしていた高橋紹運も必死に看病しましたが、道雪は九月十一日に亡くなりました。七十三歳でした。

    • 道雪は「自分が死んだら甲冑を着せ、柳川のほうに向けてこの地に埋めよ」という意味の遺言を残したと伝わります。家臣たちはこれに従わず、遺骸を立花山へ運んだとされます(次章)。

    • 統虎はのちに「立花宗茂」の名で知られますが、宗茂と名乗るのはずっと後年のことで、このころは統虎と名乗っていました。

    • 道雪が宗麟に宛てた書状、六助への頼み、誾千代への文、紹運との会話は、すべて創作です。

    • 道雪の辞世として「異方に心ひくなよ豊国の鉄の弓末に世はなりぬとも」という歌が伝わっています(読みや解釈には諸説があります)。紹運が書き取る場面は創作です。

    • 一五五〇年(天文十九年)二月、大友義鑑が嫡男・義鎮(宗麟)を廃して側室の子・塩市丸に家督を継がせようとしたことから、義鎮派の家臣が館の二階で義鑑らを襲い、塩市丸とその母が殺され、義鑑も傷がもとで亡くなりました(二階崩れの変)。当時、義鎮は別府に湯治に出ていたとされます。道雪(戸次鑑連)は義鎮の家督相続を支えました。広間で真っ先に膝をつく場面や、廊下での会話は創作です。

    ――――――

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    大学でAI・画像処理を研究、現在はメーカー勤務のエンジニア。 話題のAIニュースを「働く人はどう立ち回るか」の目線で深掘り(火・木・土)。 水・日はネットの噂や都市伝説の調査記事。 平日朝の日常エッセイでは、理系目線で身の回りの小さな謎を考えています。小説も書きます。

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