
雷神、主を諫む|第10章 高良山の陣
断章
わしは、甘い大将ではない。
酒をこぼした者を許した。侍女に手を出した者を許した。それを聞いて、道雪は情け深いと言う者がおる。
違う。
許してよいことと、許してはならぬことを、分けておるだけじゃ。
色恋は、許す。粗相は、許す。じゃが、戦場の持ち場を捨てて逃げることだけは、許さぬ。一人が逃げれば、隣の者が死ぬ。
その掟のために、わしは、人を斬らせたことがある。
高良山の冬のことじゃ。
それを、忘れたことはない。
一
天正十二年の暮れ。
筑後、高良山の陣。年の瀬が近かった。
山の上の陣は、夜になると、骨まで冷えた。筑後川から上がってくる川霧が、陣幕の裾を濡らし、焚き火の煙と混じり合って、低く地を這っていた。見下ろす平野のあちこちに、敵の篝火が、赤い星のように散らばっている。
道雪と紹運の軍は、高良山を中心に、筑後川に沿って陣を張ったまま、冬を迎えていた。
敵は、周りじゅうにいた。龍造寺の残り。秋月。筑紫。草野。星野。どこから攻めてくるか分からない。陣を解いて筑前へ戻れば、取り戻した筑後の城は、すぐにまた奪われる。
動けなかった。
師走の八日、善導寺の近くで、降参を装った敵に騙され、何人もの重臣が討たれた。
陣の中に、重い空気が垂れ込めた。
*
その翌日、筑前から、兵糧の荷が届いた。
荷を運んできた人足の一人が、六助を探して、陣を回っていた。
「定衆の六助さんは、おられますか。長屋のおそのさんから、文を預かってきました」
六助は、その文を受け取った。
女房は、字が書けない。誰かに頼んで、書いてもらったのだろう。紙の上に、墨の跡がびっしりと並んでいた。
六助にも、それが読めなかった。
しばらく紙を見つめてから、六助は、人足に頭を下げた。
「すまん。読んでもらえんか」
人足は、文を開いて、小さな声で読んだ。
はるが、熱を出した。もう五日、下がらない。水も、あまり飲まない。薬師に見せたが、首を振るばかりだという。
読み終えると、人足は、何も言わずに文を返した。
※〜もらえんか=〜もらえないか
その夜、六助は、焚き火のそばに座っていた。
文は、懐に入れてあった。読めない字が、胸の上で、ひどく重かった。
筑前までは、山を越えて二日かかる。夜のうちに陣を抜ければ、明後日の夕方には、長屋の戸を開けられる。
はるの額に、手を当ててやれる。
六助は、立ち上がった。
陣の外れまで、歩いた。見張りの篝火が、遠くに見える。その向こうに、北へ向かう山道が、闇の中へ消えていた。
篝火の陰に、人影があった。
見張りに立っている、若い足軽だった。筑前の村から、この秋に駆り出されてきた男だと聞いていた。
「……六助さんか」
男は、六助の顔を見て、声を落とした。
「あんたも、帰るんか」
六助は、答えなかった。
「わしは、帰る」
男は、北の闇を見たまま、言った。
「おっかあが、一人で畑をやりよる。この冬を越せんかもしれん。わしがおらんと」
※〜やりよる=〜やっている。〜おらんと=〜いないと
男の声は、震えていた。
六助は、何か言おうとした。殿に知れたら、とか。追っ手が、とか。
何も、言えなかった。
自分も、同じ闇を見ていたからだ。
男は、それきり黙った。
六助は、北の闇を見ていた。
長いあいだ、見ていた。
それから、懐の文を、上から押さえた。
陣へ戻った。
夜明け前、道雪の陣屋の前を通りかかると、中から声がした。
「六助」
「へえ」
「寝ておらぬ声じゃな」
六助は、答えなかった。
「家から、文が来たそうじゃな」
「……へえ」
しばらく、間があった。
「帰りたいか」
六助は、陣屋の戸に向かって、膝をついた。
「担ぎ手が抜けたら、殿が転げ落ちますけ」
戸の向こうは、黙っていた。
その日の昼、筑前へ戻る人足たちが、小さな包みを運んでいった。中身が殿の薬だということを、六助はあとになって知った。
見張りの男は、その後も、篝火の陰に立っていた。
その数日後のことだった。
夜明け前、薦野増時の名代として来ていた者が、青い顔で道雪の陣屋に駆け込んできた。
「殿。持ち場を離れた者がおります」
「何人じゃ」
「三人。夜のうちに、陣を抜けて、筑前の家へ帰ったようで」
道雪は、目を閉じた。
長い沈黙があった。
「追っ手を出せ」
道雪は言った。
「家に帰ったなら、家まで追え。その者たちを、討て」
名代の者が、息を呑んだ。
「……それから」
道雪の声は、低かった。
「その親もじゃ」
陣屋の中が、凍りついた。
控えていた家老の一人が、膝を進めた。
「殿。親までは、あまりに。親は、何も知らずに」
「知らずとも、戦場から逃げ帰った息子を、家に入れたのであろう」
道雪は、目を開けた。
「追い返さなかった親も、同じ罪じゃ。ここで許せば、明日は十人が逃げる。十人が逃げれば、残った者が死ぬ。わしは、残った者を守らねばならぬ」
家老は、それ以上、何も言えなかった。
追っ手が、出ていった。
三人の名が、陣の中に伝わってきた。
その中に、あの見張りの男の名があった。
六助は、粥を炊く手を止めた。
止めなかったのは、自分も帰りたかったからだ。
六助は、誰にも、そのことを言わなかった。
その日、道雪は、一日じゅう、陣屋から出てこなかった。
日が暮れてから、六助が、粥の椀を持って、陣屋に入った。
道雪は、灯りもつけずに、座っていた。朝と同じ場所に、同じ姿のままだった。
「殿。何か、お召し上がりください」
道雪は、答えなかった。
六助は、椀を、そっと膝の前に置いた。下がろうとしたとき、低い声がした。
「六助」
「へえ」
「武士に、弱い者などおらぬ」
六助は、足を止めた。
「もし、弱い者がおるとすれば、それは、その者が悪いのではない。大将が、励まさなんだ罪じゃ」
道雪は、暗がりの中で、自分の手を見ていた。
「あの三人が逃げたのは、わしが、励ましきれなんだからじゃ。この冬の陣で、皆が凍え、腹を空かせ、家を思うておるのを、わしは知っておった。知っておって、何も言うてやらなんだ」
「殿……」
「掟は、曲げられぬ。曲げれば、残った者が死ぬ。じゃから、斬らせた。親までも」
道雪の声は、かすかに震えていた。
「じゃが、罪の半分は、わしにある。それを、忘れてはならぬ」
道雪は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「あの者らが腹を空かせておったのは、府内の米が来ぬからじゃ」
六助は、息を呑んだ。
「臼杵に米を頼んだあの日、わしは、正しいことをしたと思うておった。その米が、回り回って、あの三人の首を刎ねた」
暗がりの中で、道雪の肩が、小さく見えた。
六助は、何も言えなかった。
しばらくして、道雪は、椀を手に取った。冷めかけた粥を、黙って少しずつ口に運んだ。
「……明日から、陣を回る」
椀を置いて、道雪は言った。
「一人ずつ、声をかける。寒くはないか、家の者は達者か、と。輿を出せ」
「へえ」
六助は、深く頭を下げた。
翌朝から道雪の輿は、毎日、高良山の陣の隅々を回った。輿の上から、兵の一人ひとりに、短い言葉をかけていった。
二
処断のあった夜。
焚き火の向こうで、新入りの若者が、肩をさすっていた。棒の痕が、赤く腫れている。弥平の代わりに、定衆に入った若者だった。
「六助さん」
若者は、声をひそめた。
「ちょっと聞いちょくれ。殿は、なんで、あんなに厳しいんじゃ。逃げた者の親まで、っち」
※聞いちょくれ=聞いてくれ。〜っち=〜と
六助は、輿のほうを見た。垂れた布の向こうで、道雪は眠っている。眠ったふりかもしれなかった。
六助は、火に枝をくべた。
「殿は、厳しい。じゃけど、それだけの人じゃねえ」
「お屋形様にも、平気で物を言うっち聞いた。叱りつけなさるっち」
「ほんとかどうかは、知らん」
六助は言った。
「わしは、そう聞いた。聞いた話で、よければ」
若者は、頷いた。
「昔な。お屋形様が、猿を飼うておられたっち聞いた」
※〜っち聞いた=〜と聞いた
気の荒い猿だった。登城する家来の袖を裂き、手に噛みついた。お屋形様は、それを見て、笑っていた。悪気はない。ほんに、悪気のない御方じゃ。
「それで」
「殿は、鉄の扇をあつらえさせたっち」
「……猿に」
「猿は、飛びかかった。殿は、一度だけ打った。それで仕舞いじゃ」
若者が、息を呑んだ。
「広間は、静まり返った。殿は、顔色も変えず、言うた。人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う、と」
「お屋形様は」
「赤うなって、うつむかれたそうな」
六助は、少し笑った。
「もう一つある」
六助は、灰を枝でならした。
「お屋形様が、まだお若いころ。奥に籠もって、誰にも会わなんだ頃じゃ。殿は、京から踊り子を呼んだ。自分の屋敷で、昼も夜も踊らせた。あの堅物がじゃ」
「お屋形様は、見に来なさった」
「来て、笑うた。三たび、踊らせた。殿は、そこでも切り出さなんだ」
「なぜ」
「先に、褒めなさった。お屋形様がなさった良いことを、一つずつ、数えて」
火が、はぜた。
「そうして、泣きなさった。命は惜しゅうない。惜しいのは、お屋形様のお名が汚れることじゃ、と」
若者は、黙った。
「翌る日から、お屋形様は、表にお出ましになったっち」
「……叱らんで、褒めて、泣くんか」
「殿は、叱るのが上手いのではない」
六助は言った。
「人が、好きなんじゃ。好きやけ、許せんことがある。今日のことも、同じじゃ」
若者は、うつむいた。
「おれは、怖い。戦場で、この輿を担ぐのが」
「怖うて、当たり前じゃ」
六助は、輿に目を向けた。
「五年前、宗像との戦でな。殿は、言いなさった。敵の真ん中へ、わしを担いでいけ、と。わしらは、怖うて、足が震えた」
「それで」
「殿が、手棒で輿を叩いて、えい、とう、っち声を出しなさった。そしたら、足が勝手に前へ出た。逃げた者は、おらなんだ」
風が、陣幕を鳴らした。
「わしも、その一人じゃ。弥平もな」
六助は、少し黙った。
「弥平は、筑後の川で、殿をかばって死んだ。殿は、弥平の頭を、猫を撫でるみたいに撫でちょられた。わしは、あんな殿の顔、見たことなかった」
輿の布の向こうで、咳が、一つ鳴った。
若者が、身を縮めた。
「……六助」
低い声がした。
「喋りすぎじゃ」
「へえ」
六助は、首をすくめた。
若者は、思わず笑いそうになって、慌てて肩を押さえた。
*
その年の暮れ、筑前から、二通目の文が届いた。
人足が、読んでくれた。
はるの熱は、下がった。薬がよう効いた。粥も食べるようになった。
それから、と人足は言った。
「娘さんが、父ちゃんに、いつか自分で文を書きたいと、言うちょるそうです」
※〜言うちょる=〜言っている
六助は、文を受け取った。読めない字を、指でなぞった。
指先が、少し震えた。
三
年が明けた。
天正十三年、如月の末。
道雪は、陣屋で、筆を取っていた。
立花山の増時に宛てた文である。戦の話ではなかった。
尚々、例の種のこと、くれぐれもお頼み申す。先ほど使いを出したとき、うっかり言い忘れたゆえ、わざわざ飛脚を立てる。
道雪は、少し考えてから、続けた。
今ごろは、花壇の時分と、人々が申しておる。去年のところへ植えて、眺めたい。そなたの秘蔵の種を、五か所ほどに植えるほど、もらいたい。去年のは、多すぎた。心得られよ。
筆を置いて、道雪は、少し笑った。
戦の真っただ中の陣で、花の種の心配をしている。我ながら、おかしかった。
だが、花壇に種を蒔くのは、来年もあの城が大友のものであると、信じる者のすることだ。
六年前の春、花壇の前でそう思ったのを、思い出した。

四
如月の初めから卯月の末まで、筑後の野で、大きな戦が続いた。
龍造寺、筑紫、秋月、草野、星野。肥前と筑前と筑後の敵が、すべて手を組んで、三万の兵で押し寄せてきた。
道雪と紹運の兵は、合わせて一万に満たなかった。
小森野で、十三部で、祇園原で何度もぶつかった。
小森野の戦いは、筑後川の河原で始まった。
川向こうに、龍造寺と筑紫の旗が、びっしりと並んでいた。数は、こちらの三倍を超えていた。
夜明け前、道雪の陣屋に、紹運が来た。
「道雪殿。正面からでは、押し切られます」
「分かっておる」
道雪は、地面に、枝で川の形を描いた。
「敵は、こちらが川を渡ってくると思うておる。だから、渡らぬ。わしの兵は、こちらの岸で、渡るふりだけをする。旗を振り、鬨を上げ、浅瀬に足を入れては引く」
紹運が、目を細めた。
「その間に」
「そなたは、上流の浅瀬を、夜のうちに渡っておけ。敵が、こちらの岸ばかり見ておるうちに、横から突け」
「わたしが、奇でございますか」
「そなたが奇じゃ。わしが正じゃ。年寄りが正面に座っておれば、敵は、そこから目が離せぬ」
紹運は、少し笑った。
「道雪殿が囮とは、贅沢な囮でございますな」
「やかましい。早う行け」
日が昇ると、道雪の兵は、川岸で騒ぎ立てた。
輿が、川べりまで担ぎ出された。道雪は、その上に、どっかと座っていた。手棒で輿の縁を叩き、えい、とう、と声を張り上げた。
川向こうの敵が、どよめいた。雷神が、川を渡ってくる。そう思ったのだろう。敵の兵が、川岸へ押し寄せ、矢を構えた。
矢が、川面を越えて飛んできた。輿のすぐ前の水に、何本も突き刺さった。
「殿、下がりましょう」
六助が叫んだ。
「下がらぬ。わしが下がれば、敵の目が、ほかを向く」
道雪は、輿の上で、まっすぐに背を伸ばしていた。
一本の矢が、輿の縁に突き立った。道雪の顔の、すぐ横だった。
道雪は、それを見もしなかった。
そのとき、上流から、鬨の声が上がった。
紹運の兵が、敵の横腹に、斬り込んでいた。
川岸に集まっていた敵が、慌てて振り返った。陣が乱れた。
「今じゃ。渡れ」
道雪の声で、こちらの兵が、一斉に川へ踏み込んだ。
前と横から挟まれた敵は、総崩れになった。あとで聞けば、上流の浅瀬は思いのほか深く、紹運の兵は半刻遅れていた。あと少し遅れていれば、輿は矢に射抜かれていた。策が当たったのではない。紹運が、間に合わせたのだった。
戦が終わったあと、紹運が、輿のそばへ馬を寄せてきた。
輿の縁に刺さった矢を見て、紹運の顔色が変わった。
「道雪殿。これは」
「囮が、よう効いた証じゃ」
道雪は、ぶっきらぼうに言った。
紹運は、何か言いかけて、やめた。
かわりに、矢を、そっと縁から抜いた。
道雪の手が、わずかに震えているのに、紹運は気づいた。寒さのせいか、年のせいか。それとも。
紹運は、何も言わずに、自分の陣羽織を脱いで、道雪の膝にかけた。
道雪は、輿の上から、指図を続けた。前へ出るときと、退くときを、分けた。奇と正を、入れ替えた。
局地の戦では、勝った。討ち取った首は、四百を超えた。
だが、敵は減らなかった。いくら勝っても、次から次へと、新しい兵が湧いてきた。
卯月の末、敵が退いたとき、道雪の陣は、疲れきっていた。
その夜、紹運が、道雪の陣屋を訪ねてきた。
「道雪殿。お顔の色が、すぐれませぬ」
「年じゃ」
道雪は、ぶっきらぼうに言った。
言い終わらないうちに、咳が出た。
止まらなかった。
背を丸めて、咳き込んだ。紹運が、慌てて背をさすった。
しばらくして、ようやく咳がおさまった。
「……年じゃ」
道雪は、もう一度、言った。
紹運は、何も言わなかった。
ただ、道雪の背に置いた手を、しばらく離さなかった。
史実メモ
一五八四年(天正十二年)冬、道雪と紹運は高良山を中心に筑後川沿いに陣を張ったまま、年を越しました。十二月八日には、草野氏の偽りの降参にだまされ、善導寺の戦いで重臣を失っています。
晩年の筑後遠征で越年した際、無断で陣を離れて家に帰った家臣に追っ手を出し、その親まで討つよう命じたという逸話が伝わっています。家老が諫めても「戦場から逃げ帰る息子を追い返さない親も同罪だ」と取り合わなかったとされます。
猿を鉄扇で打った話は、出典に疑問があり、創作の可能性が指摘されています。踊り子の話は『立花道雪覚書』に見える逸話で、宗麟の若いころのこととされます。どちらも、この章では六助の「聞いた話」として描きました。
筑後に陣を構えていた道雪が、薦野増時に花の種を頼んだ二月二十八日付の手紙が残っています(年は確定していません。この章の文面は、その内容を現代の言葉に置き換えたものです)。
一五八五年(天正十三年)二月上旬から四月二十三日まで、道雪と紹運の軍約九千八百は、約三万の連合軍と筑後各地で戦い、局地戦で勝利を重ねて約四百七十の首を挙げましたが、敵に決定的な打撃は与えられませんでした。
六助と若者の会話、紹運との会話、咳の場面は創作です。
道雪の言葉として、『常山紀談』に「武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく、大将が励まさない罪による」と伝わっています。軍律の処断のあと、道雪がこの考えを六助に語り、陣を回って兵に声をかける場面は創作です。
筑後の陣で兵糧が不足し、それが府内の義統との行き違いから生じたという筋立て、また小森野の戦いで紹運の兵が遅れたという描写は、作中の創作です。
陣中の六助に家から文が届き、娘の病を知らされる場面、陣を抜ける見張りの男と言葉を交わす場面、道雪が筑前へ薬を送る場面は創作です。
――――――
◀ 前の話:第9章 筑後へ
▶ 次の話:第11章 書き足した一行