
雷神、主を諫む|第7章 落日
断章
家が傾くときは、音がせぬ。
城が焼けるときのように、炎が上がるわけではない。鬨の声が上がるわけでもない。
ただ、文の返事が遅くなる。約束の米が、半分しか届かなくなる。評定の席で、誰も目を合わせなくなる。
そういう小さなことが、少しずつ積もっていく。
気づいたときには、柱が腐っておる。
わしは、その音のせぬ音を、筑前の山の上で、ずっと聞いていた。
一
天正十年、水無月。
梅雨の雨が、もう何日も降り続いていた。立花山は、白い雨の幕の向こうに沈み、博多の浜も、海も見えなかった。軒から落ちる雨だれの音だけが、城じゅうに、絶え間なく響いていた。
立花山の城に、遠い国からの知らせが届いた。
京で、織田信長が死んだ。家臣の明智光秀に、寺で討たれたという。
道雪は、その知らせを、薦野増時から聞いた。
「……そうか」
しばらく、何も言わなかった。
お屋形様は、この数年、信長と誼を通じてきた。島津との争いを、信長に取り持ってもらおうとしていた。耳川で負けた大友が頼れるのは、もう、天下を握りつつある男しかいなかったのだ。
その男が、死んだ。
「お屋形様は、さぞ、お力を落とされておりましょう」
増時が言った。
「いや」
道雪は、首を横に振った。
「力を落とすのは、これからじゃ。豊後の者どもが、この知らせをどう聞くか。そちらのほうが、恐ろしい」
道雪の言葉どおりになった。
その年の秋から、豊後の国衆が、一人、また一人と、島津に通じはじめた。肥後の城が落ちた。筑後の国衆が、龍造寺に頭を下げた。
大友の旗は、少しずつ、九州の地図から消えていった。
*
その夏、六助は、また臼杵へ使いに出された。
筑前の様子を知らせる、道雪の文を届けるためだった。
丹生島の城は、静まり返っていた。信長が死んだという知らせが、城の中の空気を、重く沈ませていた。
六助が通されたのは、広間ではなく、奥の小さな部屋だった。
宗麟は、窓辺に、ひとりで座っていた。膝の上に南蛮の書物を開いていたが、目は、その文字を追っていなかった。
六助が平伏すると、宗麟は、ゆっくりと振り返った。
「おお。道雪の使いの、六助か」
「へえ」
宗麟は、文を受け取って、読んだ。読み終えると、しばらく窓の外を見ていた。
「六助」
「へえ」
「道雪は、わしを、恨んでおるか」
六助は、顔を上げた。
お屋形様の顔が、思っていたより、ずっと疲れて見えた。
「耳川で、あれほど止められたのに、わしは聞かなんだ。それからも、筑前に米も兵も、ろくに送ってやれぬ。信長殿を頼みにしておったが、その信長殿も、死んだ」
宗麟は、自分の手を見た。
「道雪は、わしのことを、愚かな主じゃと思うておろう」
六助は、何と答えてよいか分からなかった。
お屋形様に、本当のことを言ってよいのか。殿の言葉を、勝手に伝えてよいのか。
迷った末に、六助は、口を開いた。
「……殿は、お屋形様の悪口を、言いなさったことがありません」
宗麟が、六助を見た。
「わしらの前で、一度も。ほかの家来が、お屋形様のことを悪く言うたら、殿は、えらい剣幕で叱りなさいます」
六助は、少し笑った。
「殿は、お屋形様を叱るのは、自分だけでいいっち、思うちょられるみたいです」
※〜っち=〜と。〜ちょられる=〜ておられる
宗麟は、目を見開いた。
それから、くしゃりと顔を崩して、笑った。
「……あやつらしい」
笑いながら、宗麟は、目元を指で押さえた。
「六助。道雪に、伝えてくれぬか」
「へえ」
宗麟は、何か言いかけて、やめた。
しばらく考えてから、首を振った。
「いや。よい。何も伝えずともよい」
「よろしいので」
「伝えれば、あやつは、また臼杵まで、叱りに来る。あの足で」
宗麟は、窓の外の海を見た。
「来てほしくないわけではない。じゃが、あやつの足が、心配なのじゃ」
六助は、深く頭を下げた。
立花山に戻ったあと、六助は、道雪に文の返事だけを渡した。
お屋形様の、あのときの顔のことは、言わなかった。
言えば、殿は、本当に臼杵まで行ってしまうと思ったからだ。
二人が同じことを案じているのが、六助には、なんだかおかしかった。そして、少しだけ悲しかった。
その夜、六助は長屋でなかなか寝つけなかった。
担ぎ手は、言われたものを、言われたとおりに運ぶ。それが仕事だった。殿の輿も、殿の文も、そうして運んできた。
今日、初めて、運ばないものを自分で選んだ。
それが正しかったのかどうか、分からなかった。
殿が、いつか運んでもらうと言うたものは、まだ、渡されていなかった。
二
お屋形様は、筑前の守りを固めよ、と言う。若殿は、筑後へ兵を出せ、と言う。お屋形様は、この城の国衆を許せ、と言う。若殿は、討て、と言う。
道雪は、二通を並べて、ため息をついた。
豊後からの文は、二通りあった。
臼杵のお屋形様からの文と、府内の若殿、義統様からの文である。
二通の中身が、食い違うことが増えた。
家督は、とうに若殿に譲られている。だが、家中の者の多くは、今もお屋形様の顔色をうかがっている。若殿は、それが面白くない。お屋形様は、若殿の危うさが気にかかる。
二人の主がいる家は、主のいない家と同じじゃ。
道雪は、そう思った。だが、口には出さなかった。出せば、どちらかを責めることになる。
三
その冬、城が騒いだ。
弥平が、城の侍女と、密かに通じていたことが分かった。
家老たちは、色をなした。主の侍女に手を出すなど、許されることではない。しかるべき罰を、と口々に言った。
弥平は、縄をかけられて、道雪の前に引き据えられた。
道雪は、しばらく弥平の顔を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「若いのじゃ。当たり前のことよ。色恋に迷うたからといって、首を刎ねるほどのことではあるまい」
道雪は、弥平に向き直った。
「縄を解いてやれ」
縄が解かれた。
「娘を、大事にせよ」
道雪は、それだけ言った。
弥平は、声を上げて泣いた。
道雪が座を立つと、廊下の柱の陰に、若い侍女が一人、平伏していた。
顔は、上げなかった。肩が、小さく震えていた。
道雪は、足を止めずに、その前を通り過ぎた。
その夜、六助が、弥平を土間で叱っていた。
「お前は、殿に二度も命を拾うてもろうたんじゃ。忘れたら、わしが承知せんけ」
「わしの命は、もう殿のもんです。殿のためなら、いつでも死にます」
「死ぬな、たわけ」
六助は、弥平の頭を叩いた。
「殿は、死ねっちいう人じゃねえ。生きて担げっちいう人じゃ」
※〜け=〜からな。〜っち=〜と
*
年が明けて間もなく、統虎が、肩に傷を負って戻ってきた。
秋月の兵との小競り合いだった。勝ちはした。だが、統虎は例によって、真っ先に敵の中へ斬り込み、肩口に浅くない槍傷を受けていた。
本丸の一室で、誾千代が、統虎の傷を洗っていた。
侍女に任せればよいものを、誾千代は、自分でやると言って聞かなかった。
「動かないでください」
「痛い」
「痛いのは、当たり前です。槍に刺されたのですから」
誾千代は、容赦なく、焼酎を含ませた布を傷口に押し当てた。統虎が、歯を食いしばった。
「なぜ、いつも、真っ先に飛び込むのですか」
「大将が先に出ねば、兵はついてこぬ」
「父上は、輿の上から、兵を動かされます」
「わしは、父上ではない」
「知っております」
誾千代の手が、少し乱暴になった。統虎が、うめいた。
「父上のように、後ろから見ることを、覚えてください。あなたが死んだら、この城は、誰が守るのですか」
統虎は、黙った。
しばらく、布を絞る水の音だけが、部屋に響いていた。
誾千代は、新しい布を、傷口に巻きはじめた。さっきより、ずっと、そっとした手つきだった。
統虎は、その手を、横目で見ていた。
指が、細かった。冬の水仕事で、ところどころ、赤くひび割れていた。この人は、毎朝、蔵の米を数え、台所を見回り、侍女たちに指図をしている。城主として、誰よりも早く起き、誰よりも遅く休んでいる。
「……そなたが」
統虎が、ぽつりと言った。
「そなたが、城の米を数えておるから、わしは、安心して、前に出られるのじゃ」
誾千代の手が、止まった。
顔を上げなかった。
ただ、布を巻く指先が、かすかに震えていた。耳の端が、赤くなっていた。
「……それなら、なおのこと」
誾千代は、うつむいたまま、言った。
「死なないでください。米を数える甲斐が、なくなります」
誾千代は、布をきつく結ぶと、立ち上がって、部屋を出ていった。
振り返らなかった。
*
廊下の先の縁側で、道雪は、ぶちの猫を膝に乗せて、日なたぼっこをしていた。
部屋の中の声は、ここまで、聞こえていた。
足早に通り過ぎていく娘の横顔を、道雪は、横目で見送った。耳まで赤かった。
隣に控えていた薦野増時が、小声で言った。
「殿。今日は、喧嘩の調子が、少し違うようでございますな」
「うむ」
道雪は、猫の背を撫でた。
「喧嘩が、少し、変わってきた」
「どう変わったのでございますか」
道雪は、しばらく考えてから、言った。
「前は、相手に勝とうとして、喧嘩をしておった。今は、相手を失いとうなくて、喧嘩をしておる」
増時は、少し驚いたように、主の顔を見た。
道雪は、ぶっきらぼうに、そっぽを向いた。
膝の上で猫が、気持ちよさそうに、喉を鳴らしていた。

四
天正十一年、春。
道雪は、ふたたび臼杵へ上った。
筑前の兵は、もう限界だった。米が足りない。矢が足りない。何より、人が足りない。毎年のように戦があり、毎年のように若者が死ぬ。豊後からの援けは、約束の半分も来なかった。
それを、直に申し上げるためだった。
丹生島の城の広間で、宗麟は、道雪を迎えた。
五年前の夏、南蛮の品が光を放っていた広間は、今は、ひどく広く感じられた。並んでいた瓶も円盤も、どこかへしまわれ、畳の上には、春の午後の光が、四角く、白々と落ちているだけだった。その光の外に座る宗麟の姿は、半ば影に沈んで、輪郭がおぼろに見えた。
五十四。髪が、だいぶ白くなっていた。それでも、道雪の顔を見ると、目を細めて笑った。
「道雪。また、叱りに来たか」
「叱りに来ました」
道雪は、まっすぐに言った。
「筑前の米が、尽きかけておりまする。約束の兵糧が、半分しか届きませぬ。若い者が、腹を空かせたまま、戦に出ておりまする」
宗麟の顔から、笑みが消えた。
「……半分しか、届いておらぬのか」
「はい」
「府内には、送れと申しつけておいたはずじゃ」
「府内は、府内で、手一杯なのでございましょう。お屋形様と若殿の申しつけが、食い違うておりますゆえ。下の者は、どちらに従えばよいか、分からぬのでございます」
宗麟は、黙った。
痛いところを突かれた、という顔だった。
道雪は、言葉を続けた。
「お屋形様。二人の主がいる家は、主のいない家と同じにござる」
言うまいと思っていた言葉だった。だが、言ってしまった。
宗麟は、窓の外を見た。
長い沈黙があった。
「……米は、わしの蔵から送らせよう」
宗麟は、ようやく言った。
「臼杵の蔵から、直に筑前へ。義統を通さずにな」
「ありがたく」
道雪は、頭を下げた。
「されど、若殿のことは」
「それは、わしと義統のことじゃ」
宗麟の声が、少し硬くなった。
「お主の口出しすることではない」
道雪は、口をつぐんだ。
半分は、届いた。半分は、届かなかった。
それが、この日の答えだった。
話が終わると、宗麟は、ふっと表情をゆるめた。
「誾千代は、達者か」
「達者にございます。婿殿と、毎日のように喧嘩をしております」
宗麟は、楽しそうに頷いた。それから、窓の外の海に目をやった。
「道雪。わしは、ときどき、あの夏を思い出す。耳川の前の夏じゃ。びいどろの瓶を並べて、お主に、この世は丸いのじゃと話した」
「覚えております」
「あのころのわしは、何でもできると思うておった」
宗麟は、自分の手を見た。皺の増えた、老いた手だった。
「今は、米ひとつ、思うように送れぬ」
道雪は、何も言わなかった。
慰めの言葉は、この人には、かえって酷だと思った。
夕刻、道雪は広間を辞した。
廊下の端に、宗麟が立っていた。灯りは持っていなかった。夕日が、その横顔を赤く染めていた。
道雪は、足を止めた。
「夜は、早う休まれよ」
宗麟は、少し驚いたように、道雪を見た。
それから、くすりと笑った。
「母か、お主は」
「母上なら」
「もっと早う、叱っておろう。分かっておる」
宗麟は、道雪の言葉を先取りして、笑った。
五年前の夏と、同じ笑い方だった。
道雪も、少しだけ口の端を上げた。
その夜、道雪は、城下の宿から、丹生島の城を見た。
灯りは、早くに消えていた。
道雪は、少しだけほっとした。
輿で筑前に戻ってひと月後、臼杵の蔵から、米が届いた。
約束の量より、少しだけ多かった。
府内からは、何も言ってこなかった。
史実メモ
一五八二年(天正十年)六月、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれました。宗麟は信長と通じて島津との争いを収めようとしていましたが、信長の死でその望みは絶たれました。
大友家では、隠居した宗麟と当主の義統による「二元政治」の確執があったとされます。
道雪の侍女と密通した家臣を、道雪が「若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからといって誅殺するには及ばぬ」と言って許したという逸話が伝わっています。その家臣は、のちに道雪を守って戦死したとされます。
一五八三年に道雪が臼杵を訪ねた場面、宗麟の蔵から米が送られたことは創作です。弥平は架空の人物です。
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