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雷神、主を諫む|第8章 言わぬ夜

    断章

    言わねばならぬことを、言わなんだ夜がある。

    たった一言じゃ。いつもの一言。言い慣れた、何の重みもない一言。

    それを、あの夜、わしは飲み込んだ。

    意地であったか。怒りであったか。それとも、ただ疲れていたのか。今となっては、分からぬ。

    ただ、廊下を去るわしの背中に、お屋形やかた様の目が、ずっと張りついていたのを、覚えておる。

    振り返れば、よかった。

    振り返って、一言、言えばよかった。

    一

    天正てんしょう十二年、弥生やよい。

    立花山の麓では、菜の花が咲きはじめていた。山の上から見下ろすと、黄色い帯が、田のあいだを、川に沿ってうねっている。戦の続く国にも、春は、律儀に来るのだった。

    肥前ひぜんから、思いもかけない知らせが届いた。

    龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶ、討死。

    島原しまばらの沖田畷おきたなわてで、島津と有馬ありまの軍に討たれたという。九州の三つの家の一角が、一夜にして崩れた。

    立花山たちばなやまの城は、騒然となった。

    「好機にござる」

    家臣たちは、口々に言った。龍造寺が崩れた今なら、奪われた筑後を取り戻せる。筑前の西の九郡も、取り返せるかもしれない。

    道雪どうせつは、黙って聞いていた。

    「殿は、どうお考えで」

    薦野増時こものますときが尋ねた。

    「好機じゃ」

    道雪は言った。

    「じゃが、誰にとっての好機か、よう考えねばならぬ」

    増時が、眉を寄せた。

    「龍造寺を討ったのは、島津じゃ。島津は、これで肥前を手に入れる。耳川で日向を取り、今また肥前を取る。次に向かうのは、どこじゃ」

    広間が、しんとした。

    「筑後を取り戻すなら、今しかない。じゃが、中途半端に兵を出せば、龍造寺の残りと島津の両方を敵に回す。やるなら、豊後が総力を挙げてやらねばならぬ」

    道雪は、立ち上がろうとして、柱に手をついた。

    「臼杵へ行く」

    二

    豊後の軍は、すでに動いていた。

    若殿の命で、豊後勢が筑後の猫尾ねこお城を攻めていた。だが、城は落ちず、龍造寺の援軍が入って、戦は膠着していた。

    総大将も、兵の数も、はっきりしない。府内と臼杵の言うことが、また食い違っているらしい。

    道雪は、その話を道中で聞きながら、輿こしの中で、腕を組んでいた。

    臼杵うすきの丹生島にゅうじまの城は、春の光の中にあった。

    城下の様子が、変わっていた。南蛮寺の屋根が、前より大きくなっている。十字の旗を掲げた家が、増えていた。異国の言葉で歌う声が、どこからか聞こえてきた。

    城に着くと、お屋形様は南蛮寺におられる、と告げられた。

    道雪は、待つことにした。

    だが、半刻待っても、一刻待っても、宗麟は戻らなかった。

    「六助。南蛮寺は、どこじゃ」

    「城下の、海のそばに」

    「連れて行け」

    六助は、驚いた顔をしたが、黙って輿を担がせた。

    南蛮寺の前には、人だかりができていた。武士もいれば、町の者もいる。筵むしろをまとった物乞いまでいた。開け放たれた戸の奥から、異国の言葉の歌が、低く流れてきた。

    道雪は、輿の上から、戸の奥をのぞいた。

    薄暗い堂の中に、たくさんの人が膝をついていた。

    その中ほどに、宗麟がいた。

    絹の着物の上に、粗末な上着をはおっている。隣には、ぼろをまとった老人が膝をついていた。宗麟は、その老人と肩を並べて、頭を垂れ、両手を組んでいた。

    身分も、家柄も、そこにはなかった。

    道雪は、しばらく、何も言えなかった。

    この人は、本気なのだ、と思った。

    寺を焼いた。家臣を死なせた。家を傾けた。それでも、この人が信じているものは、偽りではない。誰もが飢えず、誰もが祈れる国。耳川の前の夏に聞いた言葉が、今も、この人の中で生きている。

    だからこそ、厄介なのだ。

    偽りの夢なら、叱れば消える。本気の夢は、叱っても、消えない。

    「……戻るぞ」

    道雪は、低い声で言った。

    「お声を、おかけにならんのですか」

    六助が尋ねた。

    「祈っておる者の邪魔は、せぬ」

    輿が、ゆっくりと向きを変えた。

    背後で、歌が、まだ続いていた。

    宗麟そうりんは、広間ではなく、奥の庭に面した部屋で、道雪を迎えた。

    庭には、椿が咲いていた。厚い緑の葉のあいだに、濃い紅の花が、いくつも重たげに垂れている。盛りを過ぎた花が、ときおり、首ごと、ぽとりと苔の上に落ちた。散るのではなく、落ちる花だった。宗麟は、その庭を背にして座っていたので、道雪の目には、主の肩の向こうで、紅いものが、音もなく、ひとつ、またひとつと落ちていくのが見えた。

    五十五。肌の色が悪かった。それでも、目は輝いていた。

    「道雪。聞いたか。龍造寺が死んだ」

    「聞きました」

    「天が、大友に味方しておる。筑後を取り戻す。いや、肥前までも取れるやもしれぬ」

    宗麟は、身を乗り出した。

    耳川の前の夏と、同じ目をしていた。

    道雪の胸に、冷たいものが落ちた。

    「お屋形様」

    道雪は、低い声で言った。

    「筑後へ兵を出すなら、出し方がございます」

    道雪は、話した。

    総大将を一人に定めること。府内と臼杵の命を、一つにすること。兵糧の道を、先に固めること。島津の動きから、目を離さぬこと。中途半端に兵を出すなら、出さぬほうがましであること。

    宗麟は、最初は頷いて聞いていた。

    だが、話が「府内と臼杵の命を一つに」というところに来ると、顔が曇った。

    「それは、義統に言え」

    「若殿にも、申し上げます。されど、家中の者は、今もお屋形様の顔を見ておりまする。お屋形様が、はっきりと、若殿に任せると仰せにならねば」

    「任せておる」

    「任せておられませぬ」

    道雪は、言い切った。

    「任せておられるなら、臼杵から筑前へ、米を直にお送りにはなりませぬ」

    宗麟の顔が、こわばった。

    去年、道雪の頼みで、宗麟が若殿を通さずに送った米のことだった。

    「あれは、お主が」

    「わしが頼みました。ゆえに、わしにも罪がございます。されど、それで若殿のお顔が潰れたのも、まことにございます」

    三

    宗麟は、立ち上がった。

    庭のほうへ、二、三歩、歩いた。背中が、震えていた。

    「……お主は」

    声が、低かった。

    「お主は、いつも、わしを責める」

    道雪は、黙っていた。

    「耳川のあとも、責めた。米のことでも、責めた。今また、責める。わしが何をしても、お主は責める」

    宗麟が、振り返った。

    目が、赤かった。

    「わしが何をしたら、お主は、責めずにおってくれるのじゃ」

    道雪は、答えなかった。

    答えられなかった。

    「家中には、言う者がおる」

    宗麟の声が、大きくなった。道雪が、この人の怒鳴り声を聞くのは、初めてだった。

    「わしが、口うるさいお主を嫌うて、筑前へやったのだと。遠ざけたのだと」

    「……存じております」

    「そうかもしれぬ」

    宗麟は、言った。

    「そうかもしれぬな。わしは、お主の顔を見るたびに、責められている気がする。耳川で死んだ者たちに、責められている気がする。お主は、あの者たちの代わりに、わしを責めに来るのじゃ」

    部屋の空気が、凍りついた。

    控えていた小姓が、顔を伏せた。

    道雪は、ゆっくりと、膝を立てた。

    立ち上がるのに、いつもより、時がかかった。

    宗麟は、手を貸そうとしなかった。道雪も、手を求めなかった。

    「……筑後のことは、若殿のお申しつけに従いまする」

    道雪は、それだけ言った。

    頭を下げて、背を向けた。

    戸に、手をかけた。

    宗麟が、その背中を見ていた。

    いつもの一言を、待っていた。

    道雪は、知っていた。この人が、待っていることを。あの一言を言えば、この人は、きっと、母かと言って、笑うだろう。そうすれば、今の言葉は、なかったことになる。

    道雪は、口を開きかけた。

    そして、閉じた。

    戸を開けて、廊下へ出た。

    振り返らなかった。

    背中に、宗麟の目が、ずっと張りついていた。

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    四

    城下の宿で、道雪は、一人で座っていた。

    灯りも、つけなかった。

    六助ろくすけが、そっと、茶を運んできた。主の顔を見て、何も言わずに、茶を置いた。

    「六助」

    「へえ」

    「わしは、間違うたか」

    六助は、しばらく黙っていた。

    「わしには、分かりません」

    「そうか」

    「やけど」

    六助は、言いかけて、迷った。

    「言え」

    「……今日は、いつものお言葉を、言いなさらんかったっち、小姓さんに聞きました」

    道雪は、黙った。

    「お屋形様、廊下で、しばらく立っちょられたそうです。殿の背中が見えんようになるまで」

    道雪は、目を閉じた。

    「……言えなんだ」

    小さな声だった。

    「あの人は、わしが責めに来ると言うた。死んだ者の代わりに、と。そうかもしれぬと、思うた。わしは、あの人を責めることで、自分の罪を軽くしておったのかもしれぬ」

    六助は、何も言えなかった。

    道雪は、障子を、少しだけ開けた。

    海の向こうに、丹生島の城が見えた。

    その一角に、灯りがともっていた。

    道雪は、しばらく、それを見ていた。

    それから、障子を閉めた。

    灯りが、いつ消えたのかは、知らない。

    ※〜っち=〜と。〜ちょられた=〜ておられた

          *

    夏、府内ふないの若殿から、文が届いた。

    筑後へ出陣せよ。猫尾の城を落とし、筑後を取り戻せ。

    文の終わりに、一行だけ、添え書きがあった。

    兵糧は、府内より追って送る。臼杵の父上を、わずらわせることなきよう。

    道雪は、その一行を、二度読んだ。

    去年、臼杵から直に送らせた米のことを、若殿は忘れておられぬ。父に頼ったと、わしに顔を潰されたと、そう思うておられる。

    あのとき、米を頼んだのは、わしだった。

    道雪は、その文を読み終えると、紹運じょううんに使いを出した。

    「出るぞ」

    増時が、驚いた顔をした。

    「殿。臼杵で、あのようなことがあったのに」

    「あのようなことがあったから、出るのじゃ」

    道雪は、立ち上がった。

    「わしは、あの人を責めに来ておるのではない。そのことを、言葉ではなく、戦で示すしかない」

    天正てんしょう十二年、葉月はづき十八日。

    道雪と紹運は、合わせて五千の兵を率いて、筑後へ向かった。

    道雪、七十二。

    史実メモ

    • 一五八四年(天正十二年)三月、龍造寺隆信が島原の沖田畷で島津・有馬の連合軍に討たれました。

    • 大友氏はこれを好機とみて、同年三月、豊後の軍が筑後の猫尾城を攻めましたが、城方の抵抗と龍造寺方の援軍で戦は膠着しました。

    • 同年八月十八日、道雪と紹運は義統の出兵要請を受け、合わせて約五千の兵で筑後へ出陣しました。

    • 宗麟が、諫言の多い道雪を遠ざけるために筑前へやったという説があります(確かな史料は確認できていません)。

    • この章の臼杵での直談判、宗麟が声を荒らげる場面、道雪が「いつもの一言」を言わずに去る場面は、すべて創作です。

    • 義統の出陣命令に兵糧についての添え書きがあったという記録はなく、作中の創作です。

    ――――――

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    大学でAI・画像処理を研究、現在はメーカー勤務のエンジニア。 話題のAIニュースを「働く人はどう立ち回るか」の目線で深掘り(火・木・土)。 水・日はネットの噂や都市伝説の調査記事。 平日朝の日常エッセイでは、理系目線で身の回りの小さな謎を考えています。小説も書きます。

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