
【clum! '95 #56】冬の図書室の一歩

1996年、1月下旬。放課後の図書室。
試験を控えた受験生たちが放つ独特の緊張感と、古い紙の匂い、そして窓から差し込む冬の日の光が、静けさをより深いものにしていた。
俺、折館迅は、一番奥の窓際の席で、分厚い英語の参考書と格闘していた。
そのふた席隣で、岡本玲は自分の宿題を広げていたが、ペンは一向に進んでいない様子だった。

「……迅くん」
小さな、消え入りそうな声。玲がすぐ隣の席に座り直す。

俺はペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
玲が不安げに俺を見つめている。
「……どうした? 英語、わかんないところあったか?」
俺はなるべく優しく声をかけた。
玲は首を振り、俺が開いている参考書の端を、壊れ物に触れるようにそっと指でなぞった。
「……あのね。……私、すごくわがままなこと、今から言うね」
「わがまま?」
俺は不思議に思った。玲が自分からそんな前置きをするのは珍しいことだ。
「……本当は、一生懸命頑張ってる迅くんを、ちゃんと応援しなきゃいけないって思ってるの。
……でも、……立夏ちゃんに、正直に言ってもいいって言われたから……」
玲は大きく深呼吸をし、溢れそうになる涙を堪えるように、俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。そして、少し俯いて話し始めた。
「……寂しいの。春になったら、ここに迅くんがいなくなっちゃうのが。……毎日会えなくなっちゃうのが、……すごく、寂しい」

図書室に、秒針の刻む音だけが響く。
俺は、自分が思っていた以上に、自分の「卒業」が玲に影を落としていたことを知った。
そして、彼女がそれを隠して自分を支えようとしてくれていたことも。
俺は、開いていた参考書をパタンと閉じた。

「…………玲」
俺は周囲に人がいないことを確認し、俺は玲の震える小さな手の上に、自分の手を重ねた。

「……俺も、同じだよ」
「え……?」
「参考書開いてても、ふとした瞬間に考えるんだ。……来年の春、俺が別の制服着て、ここじゃない場所にいる時、玲は誰と笑ってるんだろうって。
俺だって、寂しいよ。玲を置いていくのは、……本当は、何よりも怖い」
俺は、玲の手を少しだけ強く握った。
「でもさ、玲。俺が外の学校に行くのは、……もっと強くなって、いつか玲をちゃんと守れる大人になるためなんだ。
ここにいて甘えてるんじゃなくて、厳しいところに行って、自分を鍛えたいんだよ」
俺は、玲の頬を一筋伝った涙を、親指でそっと拭った。
「学校が離れたって、佐賀からいきなりいなくなるわけじゃない。俺、毎日は無理でも、絶対手紙書く。週末は必ず、会いに戻ってくる。……だから、玲」
「…………」
「『寂しい』って言ってくれて、ありがとう。……その言葉が、今の俺にとって、どんな参考書よりやる気が出る」
玲は、俺の胸元にそっと額を預けた。
俺は何度か迷って、そっと触れるように、抱えるように、玲を抱きしめた。

「……わたしも。……わたしも頑張る。寂しくなったら、迅くんからもらった栞を見て、お菓子、たくさん焼いて待ってるね」
「ああ。……合格したら、春休みにどこか遠くへ行こう。……今度は、樹にバレないようにさ」
俺たちは、夕暮れに染まる図書室で、小さな、けれど確かな約束を交わした。

「……よし。やるか」
玲を見送った後、俺は再び席に戻り、参考書を開いた。
今度は、迷いはなかった。
玲が自分を求めてくれている。
その「寂しさ」の重みが、俺を強くさせる、背中を押してくれる力になっていた。


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