
【clum! '95 #57】早すぎた決意の理由

1996年、1月の終わり。
実際の受験まではあと1年もあるが、難関校を目指す者にとっては、ここからが「勝負の1年」の始まりだ。
夕食の片付けを終えたばかりの、静かな岡本家のキッチン。
玲は、お茶を淹れながら、食卓で数学書を広げている僕の横顔を見ていた。
玲の紅茶は、昨日より二度低い。
皿を置く音も少しだけ弱い。
……寂しがっている。

「……玲。君の淹れたさっきのお茶の温度がいつもより2度低かった。思考が停滞している証拠だ」
僕は、眼鏡を指で押し上げながら、本から目を離さずに言った。
「……ごめんね。お兄ちゃんもお勉強、大変なのに」
玲は僕の前に新しいティーカップを置いた。
「ねえ、お兄ちゃん。……やっぱり、外の高校に行っちゃうんだよね。あと一年で、お兄ちゃんと一緒に学校に行く時間は終わっちゃうんだよね」
僕は本を閉じ、ゆっくりと玲を見上げた。
折館たちには「自分のためだ」と豪語していた僕だが、自分の「半身」である玲に対しては、隠していた本音を少しだけ、科学的な比喩に混ぜて語り始めることにした。

「玲。この学園は、僕たちにとってあまりに『優しすぎる』んだ」
「え……?」
「内部進学というレールに乗れば、僕は君の隣に座り続け、君の家事に甘え、君という『聖域』の中でぬくぬくと生きていける。……でも、それは僕にとっても、君にとっても、緩やかな死を意味するんだよ」
僕は、窓の外の暗闇を見つめた。

「僕はこの不器用な体を抱えて、一生君に依存して生きていくわけにはいかない。君を誰よりも近くで守りたいというエゴと、一人の自立した人間として君に相応しい兄でありたいという願望。……その二つが僕の中で激しく衝突しているんだ」
僕は、玲の細い指先をじっと見つめた。
かつて、眠っている彼女に触れてしまったあの日の過ち。自分の内に渦巻く、家族としての愛を超えた「執着」。

「僕は、君から少しだけ『物理的な距離』を置くことで、僕自身のこの歪んだ愛を、正しく再構成しなきゃいけないんだ。……君が将来、誰を選び、どんな道を進むにせよ。僕は、君に寄りかからなくても君を支えられる、本当の意味で『強い男』にならなければならない」
「…………お兄ちゃん」
玲の瞳に、温かな涙が浮かんで溢れる。

「実際の受験は来年だ。……この一年は、僕が君の兄として完成するための執行猶予のようなものさ。だから、玲。寂しいなんて顔をしないで、僕の演算を狂わせないでくれ」
僕は玲から顔を背け、再び分厚い本を開いた。
「……お兄ちゃん、かっこいいこと言いすぎだよ」
玲は、涙を拭ってクスリと笑った。
「わかった。私、お兄ちゃんがもっとかっこよくなれるように、応援するね。……でも、寂しいって思っちゃうのは、来年まで許してね」
「……フン。15パーセント程度の寂しさなら、僕の脳内許容量の範囲内だ。……あ、お茶。温かいの、もう一杯淹れてくれないか」
別れは寂しい。
けれど、それは僕たちが「仲の良い双子」から「自立した一人の人間」へと成長するための、必要な儀式なのだろう。


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