
【clum! '95 #59】本命チョコの夜

1996年、2月13日。火曜日。
明日にバレンタインデーを控え、佐賀の街を包む空気は、冷たさの中に甘い予感を含んでいた。
岡本家のキッチンには、湯煎されたチョコレートの芳醇な香りが立ち込め、Mr.Childrenの『名もなき詩』がラジカセから小さく流れている。
双子の兄・樹が「集中できない」と自室に引きこもる中、岡本玲と佐野立夏は、エプロン姿でチョコレートに向かい合っていた。

「立夏ちゃん、混ぜるの代わろうか? チョコ、分離しちゃうと大変だから」
手慣れた手つきでトリュフを丸める玲に対し、立夏はバスケの試合中よりも真剣な、少し怖い顔でヘラを動かしていた。
「……料理は苦手だけど、一頼に『美味しい』って言わせたいし……あ、また少し固まってきた!」
「ふふ、立夏ちゃん、本当に早坂くんのことが大好きなんだね。先週の誕生日プレゼントも、すごく喜んでたんでしょ?」
玲の問いかけに、立夏はヘラを止めて、パッと顔を赤くした。
2月7日の一頼の誕生日。プレゼントを渡したあの放課後から、二人の関係には二人なりの劇的な変化が訪れていた。

「……うん。あのね、玲ちゃん。……私、あの日、お願いしたんだ。『立夏』って呼んでって。そしたらあいつ、顔を真っ赤にして『……りっか』って。……もう、かわいすぎてどうしようかと思った!」
「立夏」と、少し背伸びをして呼ぶ年下の彼氏。
一人っ子として育ち、どこか孤独な強がりを纏っていた立夏にとって、その響きは何よりも甘い特効薬だった。
「いいなぁ、早坂くんは素直で。……迅くんは、相変わらずなかなか自分のことは話したがらないんだよね」
玲は苦笑しながら、トリュフを丁寧に丸めていく。
迅が、玲の寂しさを受け入れ、その細い肩を抱き寄せたあの日から、二人の絆は静かに、けれど深く根を張っていた。

「でもね……この前、わたしが立夏ちゃんに言われたように『寂しい』って話したとき。迅くん、私の手を握って『俺も同じだよ』って『いつか玲を守れる大人になるためだ』って言ってくれたの。そのあと、すごくやさしく抱きしめてくれて……迅くんらしくて安心しちゃった」
「……迅らしいね。あいつ、あんまり喋らないし、口も悪いけど、玲ちゃんのことだけは、絶対に離さないって顔してるもん」
立夏は少し羨ましそうに笑い、再びボウルのチョコに向き合った。
二人が作っているのは、本命だけではない。キッチンの一角には、大量のラッピング袋が用意されていた。
「芳彦たち、どうせ『早坂のついでだろ!』って文句言うんだろうな」
「あはは、きっとそう言うね。でも、みんな楽しみにしてると思うよ。立夏ちゃんはバスケ部の子達みんなにも配るんだよね。お手伝いするからね」

夕暮れ時、出来上がったチョコレートを前に、二人は少しだけ味見をした。
「甘いね」
「うん、甘すぎるくらいだね」
二人は笑いながら、出来上がったチョコレートを一つひとつ丁寧に包んでいく。
明日、その小さな箱を開ける人たちは、まだ知らない。
この一粒一粒に、不器用なくらいまっすぐな想いが詰まっていることを。


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