
【clum! '95 #54】調理室の密談
1996年、1月。
三学期の始まりは、冷たい北風と共にやってきた。
吹き抜ける風は冷酷だが、設立されたばかりの碧翔学園の調理室だけは、オーブンから漏れる甘い香りと熱気で、春を先取りしたような温かさに包まれている。
「……よし、焼けた。熱いから気をつけてね」

岡本玲がミトンをはめた手でオーブンから取り出したのは、リンゴとシナモンのマフィン。
一人きりの調理部活動だが、扉が開く音と共に、いつもの賑やかなメンバーがなだれ込んできた。
「いい匂いーっ! 玲ちゃん、愛してる! 結婚して!」
バスケ部の練習着のまま飛び込んできた佐野立夏が、一番に玲に抱きつく。

「立夏先輩、汗……。でも、本当においしそうですね」
その後ろから、タオルを首にかけた早坂一頼が少し遠慮がちに続く。
「……おい。バスケ部が調理室を部室代わりにするのは、管理規則的にグレーだと言ったはずだが」
文句を言いながらも、岡本樹は白衣のままちゃっかり椅子に座っている。

「樹さん、そう言いながら口がもうマフィンを待ってますよ」
稲城芳彦が笑いながらお茶を淹れ、折館迅は黙って玲の隣に立ち、焼き上がったばかりのマフィンを網の上に移すのを手伝った。

野瀬隆文が、湯気の向こうでマフィンを頬張る立夏の「残念な美人」な瞬間を、逃さずシャッターに収めていた。
碧翔学園は中高一貫校。本来なら、内部進学で高校入試の悩みはない。
しかし、マフィンを頬張る穏やかな空気の中で、迅がふと口にした。
「……三学期か。早いな。来年は俺たち、もう最高学年だ」
その言葉に、一瞬だけ沈黙が流れる。
内部進学を予定している立夏と玲とは違い、折館迅と岡本樹の二人は、外部の難関校を受験する予定であることを、仲間たちは知っていた。
「何の仕事に就くにしろ……もっと広い世界を見ておきたいんだ。……だから、俺は外に出る」

「僕の頭脳を最適化するには、この環境は少しばかりのどかすぎる。……まあ、折館くんという退屈しのぎがいなくなるのも計算外だしね」

「……受験勉強、もう始めてるんでしょ?」
玲が、少しだけ寂しそうに迅を見つめて尋ねた。
「ああ。今日から放課後は図書室にこもる。……だから、こうやってみんなで集まる時間も、少しずつ貴重になるな」
迅の言葉に、立夏がマフィンを飲み込んで言った。
「なによ、寂しいこと言わないでよ! 受験だろうがなんだろうが、玲ちゃんのお菓子がある時は全員集合に決まってるでしょ!」
1996年の春が来れば、彼らは中3と中2になる。
碧翔学園という温かな「箱庭」から、いずれ飛び出していく者もいる。
時は、誰を待つこともなく流れていく。
一頼は、隣に座る立夏の新しいスウォッチをちらりと見た。時を刻む音は、1995年の嵐を乗り越えた彼らを、否応なしに未来へと運んでいく。
「……ねえ、折館くん」
玲が、迅の袖をそっと引いた。
「……外の学校に行っても、……たまには、お菓子、食べに来てくれる?」
「……当たり前だろ。お前の味に『餌付け』されてるのは、立夏だけじゃないんだから」
迅は少しだけ耳を赤くして、玲にしか聞こえない声で答えた。



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