
第三候「時雨ときどき施す」
<これまでのあらすじ>
62歳の夫が職場で心筋梗塞で亡くなり、とつぜん未亡人となった香穂子。
児童養護施設を営む親友(鳩谷紀久子)に頼まれ、交通事故で両親を亡くし話せなくなった少年を預かることになった。
<登場人物>
香穂子:夫を亡くしたばかりの寡婦。58歳。
心一:両親を交通事故で亡くし、しゃべれない。10歳。
真一:香穂子の亡夫。寡黙で夫婦の会話はほとんどなかった。
鳩谷紀久子:香穂子の親友。児童養護施設『はとぽっぽ』の園長。
第三候「霎時施」
朝から小雨もようだった。
経年劣化でゆるくなった蛇口のごとく天から気まぐれに滴が垂れて落ち、戸外は白くもやっていた。
香穂子はソファにもたれ雨の音を聞いていた。
リビングの隣の和室の襖を細く開けている。心一はまだ起きてこない。
声にならない涙が布団のなかでうずくまっているけはいがするの。
(そうか)
ことばを失くしてしまった少年との手探りの暮らしがはじまって、一週間が経とうとしていた。
お試しで一泊ねと預かった翌日、紀久子が迎えに来た。
「このあたりに来るのは何年ぶりかしら。駅前が様変わりして戸惑ったけど、交差点角のケーキ屋『ザッハトルテの森』を見つけて懐かしくって」
園のみんなには内緒よ、と人差し指を口の前に立て、白いケーキ箱を開ける。季節のモンブランと栗のタルト、店名にもなっているザッハトルテが並んでいた。
「まあ」と香穂子は声をあげ「心一くん、どれがいい?」尋ねると、細い指がおずおずとザッハトルテをさした。
ケーキを皿にとりわけ、ミルクティーをこしらえる。おとな二人のカップにはシナモンを添えた。心一は口のまわりをチョコで甘くしながらザッハトルテをほおばる。香穂子は栗のタルトをいただいた。
庭に面したリビングにはL字型のソファを置いている。息子たちが幼いころ跳ねて遊んでくたびれ、食べこぼしが地図になっている。
心一が最後のひとかけらを口にいれミルクティーを飲みほすのを待って、紀久子が問いかける。
「園に帰る? それとも、もう少し、ここでお泊りする?」
ミルクティーとチョコで口のまわりは白と黒のまだらになっていた。
お手拭きを渡す。それを口にあて、心一は首をわずかにかしげて香穂子を見上げる。虚ろな目に表情はない、けれど。
(そうか)
「しばらく、うちで暮らしてみる? 心一くんがいてくれたら、おばさんも淋しくないんだけど」
左巻のつむじが五センチばかり上下した。
「既往歴や基本情報は、これに載っているから」
紀久子は手提げからファイルを取り出す。ページをぱらぱらとめくると、事故の記録が記されていた。
香穂子は無言で目を通す。
雨の高速道路での多重事故だった。
追い越し車線を走っていた大型トラックがスリップし、走行車線の車列に斜めに突っ込んだ。ブレーキ痕はなかった。心一の車はトラックに右斜め後方から弾かれ高速道路の側壁に激突、大破した。母親が心一の頭を抱えるようにして折り重なり守っていて、心一は奇跡的にほぼ無傷だったらしい。車内には錆びた鉄のような血のにおいと金属の焦げるにおいが充満していただろう。救出されるまで意識があったのだとしたら。その恐怖に胸が潰れそうになる。
鳴り止まないサイレン、降り止まない雨。
回転する警告灯の赤が雨に散らされる。
即死の母から引きはがされ救急車に乗せられた少年が、せめて母の無惨な遺体を目にしていないことを、香穂子は祈った。
雨は嫌でも事故の記憶を呼び覚ます。
そぼそぼと降る雨を香穂子はうらめしげに眺め、和室の襖を開けた。
布団はこんもりと盛り上がっている。
あらあら、『星の王子さま』の象を飲み込んだうわばみみたいね。
止まない雨はない。とは、わかっていても。
そんなことは慰めにも助けにもならない。
香穂子は布団の上をぽんぽんと叩く。
ぽんぽん、とんとん、ぽんぽん、とん。
雨の日は、そうね、と立ち上がる。
ぱたぱたと階段をあがり、昔、長男が使っていた部屋の本棚から一冊を手にとり和室に戻った。
『ナルニア国物語』一巻「ライオンと魔女」を開いて、布団に語って聞かせた。雨の日にルーシーがナルニアへの扉を見つけるところからはじまる冒険の物語を。
時雨は、降っては止み、降っては止みを繰り返していた。
あなたは雨よりも牛肉の時雨煮が好きだったわね。
(そうか)