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【短編小説】 疼

    一 京都


     その仕事を引き受けたのは、六月の初めだった。

     付き合いの長い財団から、山科で遺跡が出たので調査に加わってほしい、と連絡があった。一度は断った。二通目に、七世紀ごろの木簡らしきものが出ていると書かれていた。その日のうちに返事を書いた。

     空港を出たとたん、シャツの襟が首に貼りついた。十年前もそうだった。この湿気を、私はいまだに情緒と呼ぶ気になれない。

     遺跡は山の奥にあった。木簡は泥を落とされ、浅く水を張った箱に沈めてあった。一目見て本物だと思い、それから一週間かけて、本物であることを確かめた。墨の滲み。削り直した跡。払いの角度。同じ手は、何年経っても、どこかに同じ癖を残す。

     雨はほとんど毎日降った。ホテルの枕は硬く、部屋は明るすぎた。朝食は、どれも食べ物の形をしているだけだった。それでも帰らなかったのは、木簡のほうがまだ私を帰さなかったからだ。

    「さすがはベルナール先生」

     財団の役員は、一日に何度もそう言った。
     その種の言葉なら、聞き飽きている。聞くたびに、言った人の顔が少しずつ嫌いになる。役員は最後の日まで、それに気づかなかった。気づかれないように、私も笑っていた。

    二 新幹線


     帰りは成田から発つことにした。関西空港のほうが近いことは、分かっていた。
     理由ならいくつかあった。新幹線には久しく乗っていない。東京の博物館に、見ておきたい資料がある。成田発の便のほうが、パリに着く時刻がいい。

     どれも嘘ではなかった。

     嘘ではない、というところが厄介だった。

     平日のグリーン車には、私のほかに客がいなかった。関ケ原を抜けるあたりで、窓を打つ雨が急に強くなった。トンネルに入るたびに、黒いガラスに自分の顔が浮かんだ。

     浜松を過ぎると、雨は細くなった。

     東京が近づくにつれて、私は落ち着かなくなった。関西空港にすればよかった、と思ったときには、静岡はもう後ろにあった。窓の水滴が斜めに流れては消え、消えたところを、また別の水滴が流れていった。

     新横浜に停まった。

     元気にしているだろうか、と思った。

     このあたりに住んでいるのかもしれない。東京より少し広い部屋に、誰かと二人で。十年経てば、結婚しているのが普通だろう。子供がいてもおかしくない。優しい夫がいて、彼女は昼間に他人の原稿を読み、夕方には台所に立つ。こんな雨の日にも、その窓には明かりがついている。

     気がつくと、顎を撫でていた。

     黒いガラスの中で、もう一人の私も顎を撫でている。左の、骨の少し下。傷は、とうに消えている。

     あの部屋の風呂は狭かった。二人で入ると、膝の置き場がなかった。剃ってあげる、と彼女が言った。いい、と私は言った。やりたい、と彼女は言った。湯気の中で、剃刀を持つ手が真剣だった。

    「難しい」

     そう言って、少し力を入れた。

     湯の上に、赤い糸のようなものが一筋落ちた。彼女は、こちらが困るほど謝った。大丈夫だ、でももういい、と私は笑って、顎を押さえた。彼女を抱き寄せ、口付けた。

     それから何日も、彼女は絆創膏に指を近づけては、触れずに引っ込めた。

    「まだ痛む?」
    「いや」

     本当に、もう痛くはなかった。

     手を下ろした。しばらくして、また顎に触れていた。

     幸せならそれでいい。そう思える男でいたいと、十年思ってきた。

     十年前、パリの研究所に呼ばれたとき、私は彼女に、一緒に来ればいい、と言った。君の仕事は、向こうでもできる。

     日本語の校正は、日本でしかできない。
     彼女はそう言った。私は、それ以上何も言わなかった。言わなかったことが正しかったのか間違っていたのか、私はまだ決めていない。

     ドアが閉まり、列車が動き出した。私はそこで考えるのをやめた。やめた、ということにした。

     この国は、置いてきたものに、いちいち色を塗り直す。
     パリに帰ろう、と思った。

    三 東中野


     東京駅で、成田へ向かう乗り場を探した。

     乗り換えの案内板に、東中野、とあった。
     三文字だった。私はその前に立っていた。何人かが私の肩に当たり、謝らずに通り過ぎていった。気がつくと電車に乗っていて、御茶ノ水で黄色い電車に乗り換えていた。

     東中野で降りた。

     私は、字の形を忘れない。看板の字も、標識の字も、一度見れば残る。それは仕事の役に立ち、たいていは仕事以外の邪魔をする。

     地図は見なかった。小雨の中を、傘をささずに歩いた。角のタバコ屋はなくなっていた。坂の勾配だけが、記憶と寸分違わなかった。

     アパートは、まだあった。

     濡れた鉄の階段を上ると、靴の底で段が一枚ずつ鳴った。二つ目の部屋。ドアの横に、縁の黄ばんだ名札があった。

     森川。

     彼女の字だった。川の三本目の縦線が、少しだけ長い。

     十年だ。駅のホームで別れてから、十年。

     まだ、ここに一人でいるのか。

     手を上げた。指の関節が、ドアの手前で止まった。
     髪から雫が落ちて、襟の中に入った。

     私はノックをした。

    四 宮殿


    「ルイ、何笑ってるの」

     律子が本から顔を上げた。
     ソファの端で、ずっと読んでいるものと思っていた。

    「いや。昔のことを」
    「昔?」

    「記憶の宮殿というのがある」
    「何それ」

     私はソファの背にもたれた。

    「人は誰でも、頭の中に宮殿を持っている。広間があって、廊下があって、部屋がいくつもある。宮殿というのは、何にでも使われる場所だ。客を迎える。政治をする。外国の使節と会う。王が家族と暮らす。覚えておきたいものは、その部屋のひとつひとつにしまっておく。必要になったら、廊下を歩いて取りにいく」

    「ふーん」

     律子は本に目を戻した。

    「それで?」

     私は笑った。おかげで、続きは話さずに済んだ。

     律子の膝の上で、本が少し傾いている。腹が大きいので、まっすぐには置けない。満月のように張った腹に、本を持っていないほうの手が置かれていて、ときどき、思い出したように動く。耳には赤鉛筆が挟まっている。仕事でもないのに、誤植を見つけると印をつけずにはいられない人だった。

     十年のあいだ、彼女がなぜ一人でいたのかは、聞いていない。聞けば答えるだろう。たぶん、私の思っているような答えではない。だから、聞いていない。

     新横浜で思い描いた家のことを、ときどき思い出す。優しい夫。明かりのついた窓。雨の日。

     その夫が自分だとは、あのときは思わなかった。優しいかどうかは、今もよく分からない。

     顎に手をやっていたらしい。

    「今も気になる?」
     律子が、本から目を上げずに言った。

    「いや」
     と私は答えた。

     窓の外では、雨が降っている。
     二年前のあの日、ノックをすると、部屋の奥から、

    「はーい」

     と明るい声がした。宅配便だと思ったのだと、あとで聞いた。
     ドアが開いた。耳に赤鉛筆を挟んだまま、君は私を見上げた。

     その瞬間の君の顔は、私の記憶の宮殿で、今も王座を占めている。


     ーー了



     
     
    人間関係のズレを生活品に託して書いています。 ジャンル問わず。詩作とエッセイとイラストも少し。 創作ジャンルはバラバラですが、ずっと追いかけているのは「私の主観は信じられるのか?」です。

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