
障害までも愛せというのだろうか。|受け入れられない私のままで
自分の一部なら、
それを愛さなければ
いけないのだろうか。
前回の記事を書いたあと、
その問いが
ずっと残っていた。
聞こえないことは、
間違いなく私の一部だ。
これからも、
私はこの身体で生きていく。
でも、
私の一部であることと、
私がそれを好きであることは、
同じではない。
そのことを考えると、
私はどうしても、
これまであまり
言葉にしてこなかった時間を思い出す。
きれいなことだけを書くのも、少し違う
こういうことを書くと、
暗くなってしまうかもしれない。
だから今まで、
あまり言葉にしてこなかった。
でも、きれいなことだけを書くのも、
少し違う気がした。
私には、
これまでの人生で二度ほど、
自分で自分の人生を終わらせることを考えた時期がある。
そのときの私は、
前向きになろうとも、
障害を乗り越えようとも、
いつかきっといいことがある、
とも思えなかった。
ただ、
苦しかった。
「これを一生続けるのか」
どうあがいても、
私の耳には音が届かない。
それでも、
音声言語が中心にある世界で
生きていかなければならない。
周りを見る。
文字を見る。
分からなければ聞く。
必要なら説明する。
自分だけずれないように、
周囲を見続ける。
明日も。
来年も。
その先も。
「これを一生続けるのか」
そう考えたとき、
人生が途方もなく長く感じた。
「今日は、やめておこう」
そんなとき、
最後に浮かんだのは
家族の顔だった。
悲しむだろうな。
そう思った。
人生の意味を
見つけたわけではない。
希望が突然
湧いてきたわけでもない。
ただ、
今日は、やめておこう。
そう思った。
そして次の日が来た。
また次の日が来た。
その「今日」が積み重なって、
私は今もここにいる。
生きていたら、ここまで来ていた
その後も、
人生は普通に続いた。
仕事をした。
ごはんを食べた。
旅行をした。
誰かと笑った。
人を好きになった。
腹が立った。
泣いた。
どうでもいいことで悩んだ。
家具の配置ひとつで、
延々と脳内会議をする日もあった。
そして今、
私はこうして文章を書いている。
「あの経験が私を強くした」
とは思わない。
そんなにきれいには
まとめられない。
ただ、
生きていたら、
ここまで来ていた。
今の私には、
それくらいが
ちょうどいい。
愛せないものは、愛せないままでいい
だから私は、
障害を愛さなくてもいいのだと思う。
「障害があってよかった」と
言えるようにならなくてもいい。
嫌だったことを、
無理に美しい物語へ
変えなくてもいい。
それでも、
一緒に生きていくことはできる。
愛することと、
共に生きることは、
同じではない。
そう考えたとき、
少しだけ楽になった。
これは、障害だけの話ではないのかもしれない
そして、
ここまで書いて
ふと思った。
これは、
障害だけの話ではないのかもしれない。
見た目。
性格。
身体。
過去。
人との関わり方。
自分の中にある、
どうしても好きになれない部分。
「ありのままの自分を愛そう」
という言葉は、
とても優しく聞こえる。
でも、
好きになれない自分まで、
好きにならなければいけないのだろうか。
もちろん、
障害とコンプレックスを
同じものとして語りたいわけではない。
それでも、
自分では選べなかったもの。
変えたくても
変えられないもの。
そんなものと、
どうやって一緒に生きていくのか。
その問いなら、
皆さんの中にも
あるのかもしれない。
そう思ったから、
私は今日、
この文章を書いている。
受け入れられない私のままで
好きになれないものを、
無理に好きになる必要はない。
受け入れられないものがある自分まで、
嫌いになる必要もない。
私は、
聞こえないことを
愛してはいない。
でも、
聞こえない私を
否定し続ける必要もない。
受け入れられない私のままで、
生きていてもいい。
第2話で、
私がたどり着いたのは
そこだった。
ところが、
そんなとき。
私はニーチェの
「運命愛(amor fati)」
という考え方に出会った。
運命を愛する。
せっかく、
「愛せなくてもいい」
というところまで
たどり着いたのに。
今度は、
「運命を愛する」
という。
では、
障害を愛することと、
自分の人生を愛することは、
同じなのだろうか。
次は、
そのことを考えてみたい。