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ニワトリをひいたバスから考える、アナキズムのこと

※本文は最後まで無料で読めます。

アナキズム。少し身構える言葉です。国家をなくす思想、と聞くと、ふだんの暮らしとは遠い話に感じます。

でも『くらしのアナキズム』を読んでいると、これは案外、日常の中にもあるのではないかと思いました。

家族で相談する。友人同士で折り合いをつける。困ったとき、誰かに丸投げせず、自分たちで解決策を探す。そんな場面にも、アナキズムの入り口があるのかもしれません。

今回は、ネパールで出会った小さな出来事を手がかりに、トラブルを誰に委ねるのか、社会のことを誰が決めるのかを考えてみます。

バスがニワトリをひいた日

以前、ネパールで私が乗っていたバスが、飼い主のいるニワトリをひいてしまったことがあります。

そのあと、バスの側と飼い主が話し合い、補償をして、ひとまず解決しました。

この話のポイントは、補償の金額ではありません。印象に残ったのは、目の前の人たちが、その場で折り合いをつけようとしていたことです。

日本で私が交通事故に遭ったら、まず警察や保険会社に連絡すると思います。第三者や制度が間に入る。それが自然な流れとして頭に浮かびます。

もちろん、ニワトリの事故と車同士の事故は同じではありません。それでも、「トラブルが起きたら、まず誰のところへ持っていくのか」は、国や暮らしによって違うのだと感じました。

私は最初、警察や政府への信頼が背景にあるのかもしれないと思いました。ただ、この一件だけで理由を決めつけることはできません。ネパールの人たちはこうだ、と言いたいわけでもありません。私にとっては、当事者同士で解決するという選択肢が、思った以上に新鮮だったのです。

第三者に任せると、助かることもある

第三者が間に入るのは、もちろん大切です。

  • 感情的な対立を抑えやすい

  • 暴力を避けられることがある

  • 双方の話を聞き、手続きを整理してもらえる

一方で、決定を待ったり、手続きに時間や費用がかかったりすることもあります。決まった結論に納得できず、しこりが残る場合もあるでしょう。

当事者同士で話せば、お互いに少しずつ譲って、折り合いを探せるかもしれません。話し合って決めた方が、遺恨が残りにくいこともありそうです。

ただし、話し合いも万能ではありません。力の強い人が押し切ることもあります。裁判などの制度を使えば、力関係が消えるわけでもありません。

どちらが正しいかを一言で決めるより、何が起きたのか、当事者の間にどれくらい力の差があるのかを見て、解決の方法を考える。そういうことなのだと思います。

AかBか。話し合えばC案ができるかもしれない

この本を読みながら、民主主義についても考えました。

多数決は、意見をまとめるための便利な方法です。ただ、A案とB案があったとき、多数決ではどちらかが選ばれ、もう一方は退けられます。

話し合いを続ければ、AとBを少しずつ取り入れたC案や、Aを修正したA′案ができるかもしれません。

もちろん、話し合いには時間がかかります。人数が増えれば難しくなりますし、声の大きい人に引っ張られる危険もあります。それでも、「勝った側が決めて終わり」以外の道を探す余地は残したいと思います。

本書に出てくる村長の姿も印象に残りました。村長は、命令する人というより、人々の間を調整し、争いの仲裁を引き受ける人として描かれています。物をため込むのではなく、人に分け与える。最後には、自分の財産が減っていくことさえあるそうです。

リーダーの力は、どれだけ持っているかだけでは測れない。周りの関係を保つために何を引き受けるのか。そんな見方が面白いと思いました。

農耕社会が広がる中で、何が縮小したのか

では、国家や制度がない方がよいのか。私は、そう単純には考えられません。

私は、国家を農耕社会の拡大に、アナキズムを狩猟採集民の暮らしに重ねて考えています。両者が同じだという意味ではありません。社会を大きくしていく力と、身近な範囲で自分たちの暮らしを決める力を比べるための見方です。

狩猟採集民の方が、個人として自由で健康な暮らしを送れていた面はあると思います。ただ、社会の広がりを決めたのは、一人ひとりの暮らしやすさだけではありませんでした。

農耕は、より多くの人口を支え、大きな集団をつくる力を持ちました。集団が大きくなり、数や組織力に差がつけば、農耕社会が広がり、狩猟採集の暮らしが縮小していく。それは誰かが意図して選んだというより、構造上避けにくい流れだったのだと思います。

社会が大きくなれば、食料や資源を管理する人が必要になります。争いを調整し、共同の仕組みやインフラを維持する役割も生まれます。行政や国家の制度が積み上がっていくのは、大きな社会を支える仕組みと切り離せません。

だから、国家をなくせば昔の暮らしに戻れる、とは考えにくいです。革命で権力者を入れ替えても、同じ規模の社会を支えようとすれば、また別の制度や権力が生まれるかもしれません。

環境問題の話では、「では、何年代の暮らしに戻るのか」と問われることがあります。でも、私が考えたいのは、過去に戻ることでも、生活水準を一律に下げることでもありません。

社会が大きくなり、制度に支えられる暮らしができた。その前提を認めたうえで、どこまでを制度や市場に任せ、どこを自分たちで決めるのか。そこには、今から考えられる線引きがあると思います。

制度を使いながらも、身近な問題について自分たちで話し合い、決める力を残す。私が考えたいのは、そういう暮らしの余地です。

自分で決める力を、手放さない

私は、ネパールで暮らすことを考えています。

そこで必要になるのは、誰かが決めてくれるのを待つことだけではありません。交渉をしたり、生活の中のトラブルを整理したり、自分たちで決めたりする力も必要だと思います。

もちろん、何でも自分たちだけで解決する必要はありません。制度や他の人に頼ることも大切です。ただ、できることまで丸ごと誰かに預けてしまうと、自分たちで暮らしを動かす力は少しずつ弱くなっていきます。

『くらしのアナキズム』を読んで、アナキズムは遠い政治思想というより、暮らしの中で問題を解決する力なのかもしれないと思いました。

トラブルが起きたとき、誰に委ねるのか。自分たちで決められることは何か。そんな問いから、暮らしの中にあるアナキズムを考えてみたいです。

今日は以上です。
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