
40年間の末路 第17章 浮気発覚 ドキュメンタリー小説|自叙伝|30代
それは宇都宮に来て3年目、2005年のある夏の日だった。
仕事を終えて19時に帰宅し、玄関を開けると、そこに仁美が立っていた。
鬼の形相で腕を組み、仁王立ちして、目が据わっていた。
「ただいま」を言う間もなく、靴を脱ぎかけた足が、止まった。
「ねぇパパ…マリリンって誰よ?」
声は低く静かで、殺気立った口調に、全身の血の気が引き、胃がきゅっと縮んだ。背筋を冷たい汗が伝わっていった。
「え?」
一瞬何のことか理解できなかった。
「浮気してるでしょ?」
「えっ?!」
玄関の三和土に立ったまま、次の言葉が出てこなかった。
(なぜバレた!?)
次の瞬間その言葉の意味がようやく理解できた。
この日夏休みで帰省した長女愛里が自宅のパソコンを使ったのだと、凡そ察しがついた。
当時はパソコンのメールソフトにはパスワード等のセキュリティをかけていなかった。
今まで僕以外にパソコンは使わないので、セキュリティをかける意味もなかった。
しかし高校生になった愛里は、夏休みの宿題を提出するため自宅パソコンのメールソフトOutlookを立ち上げ、愛里のアカウントを追加設定しようとした際に、僕がマリリンに宛てたメールを発見し、愛里はそれを仁美に見せたに違いない。
完全に油断していた。
岩手時代から続けていた出会い系のやりとりや、オフ会の記録は、証拠が残らないよう念入りに送受信履歴は消していた。マリリンとのやりとりも、同じように処理していた。
まだガラケーが主流でLINEも知らない時代だった。
しかし直近の一通だけ、消し忘れていた。
よりによって、最近のデートの内容を赤裸々に綴ったメールだった。
「先週のディズニーランドは楽しかったね。またあの日の夜も…」
など日時、場所、交わした言葉から性行為まで克明に書いてあった。
作り話だと言い訳できる余地がないほど具体的だったので、ほかの言い訳を考える脳みそすらフリーズしていた。
仁美は畳みかけるように続けた。
「いつから?どこで会ってたの?何回シたの?」
壁際に追い詰められた気分だった。ヘタな言い訳をすれば傷口が広がるだけだとわかっていた。ここで嘘をついても、どこかで綻びる。すでに決定的な証拠を握られている以上、弁解の言葉を並べても意味がなかった。
観念して、洗いざらい白状した。
マリリンこと茉梨は職場の同僚で、十七歳年下だった。どこで出会ったか、どういう経緯でそうなったか、どのくらい続いていたか。聞かれたことには、すべて答えた。
答えながら、自分の言葉が三流のテレビドラマのセリフのように聞こえた。
自白が終わると、長い沈黙があった。
仁美は何も言わなかった。泣きもしなかった。ただじっと、僕を睨んでいた。
仁美の目は時々少し泳いでいたが、まるで捕まえた獲物をどう料理しようか、思案している顔つきだった。
怒りや悲しみや軽蔑を含んだ眼差しが浮かんでは消えた。
高校の図書室で初めて仁美と目が合った時、仁美の表情が読めないことは何度もあったが、この夜の仁美の表情は、どこに落ち着くのか、全く読めなかった。
子ども達はリビングにいた。声は聞こえなかったが、気配を感じた。
「ごめんなさい。
とりあえず家に入ってもいい?」
仁美は何も言わなかったので、ここでようやく靴を脱いだ。
すると子ども達がサッと、別室に逃げ込んだ気配を感じた。
パタパタと消えていった足音のあと、家の中はひどく冷え切った静寂に包まれた。
子どもたちを怯えさせ、逃げ込ませてしまったという事実は、自分の犯した罪の重さを何よりも残酷に物語っていた。
僕が壊したのは仁美との関係だけではない、子どもたちの平穏な日常そのものだったのだ。
その重圧に押しつぶされそうになりながら、リビングのテーブルに二人で座った。
しばらくの沈黙の後で仁美はようやく次の言葉を口にした。
「今すぐマリリンの家に連れてって」
時間は既に20時を少し回っていた。
最悪の事態を想像しただけで、鳥肌が立った。