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『水の音』|シロクマ文芸部|第八夜  〜午前3時の夢洗濯店 〜|水の音 


    水の音がしました。

    午前3時。

    眠れないまま、

    あなたはベッドの中で、

    今日のことを考えていました。

    言わなければよかったこと。

    言えばよかったこと。

    誰かの表情。

    明日の予定。

    考えるのをやめようとするほど、

    次々に浮かんできます。

    そのあいだにも、

    水の音は途切れません。

    ちゃぷん。

    ……

    ちゃぷん。

    ……

    音は、

    部屋の外から聞こえてきます。

    こんな時間に、

    誰かが洗濯をしているのでしょうか。

    あなたが扉を開けると、

    いつもの廊下がなくなっていました。

    代わりにあったのは、

    青いタイルの小さな店。

    丸い窓の洗濯機が、

    静かに並んでいました。

    入口には、

    銀色の看板。

    『夢洗濯店』

    『今夜のことは、今夜のうちに』


    店の奥から、

    小さな声がします。

    「まだ起きてるの?」

    あの灰色の子猫が、

    洗濯物の籠から顔を出しました。

    今夜は、

    車掌の制服でも、

    船頭の服でもありません。

    薄い水色の三角巾。

    白いシャツ。

    星の刺繍が入った、

    紺色のエプロン。

    首には、

    いつものエメラルドの懐中時計。

    「ここで何してるの?」

    「洗濯。」

    「何を洗うの?」

    猫は、

    空の籠を指しました。

    「今日一日。」

    「一日って、

    洗えるの?」

    「眠れないくらいならね。」

    猫は、

    あなたの前に籠を置きます。

    「今日、

    頭から離れないものを入れて。」

    あなたは籠を覗きました。

    何も入っていません。

    けれど、

    今日言われた一言を思い浮かべると、

    灰色のハンカチが、

    籠の中へ落ちました。

    誰かの冷たい表情は、

    少し硬いシャツ。

    自分の失敗は、

    重たい靴下。

    明日の心配は、

    長い長いマフラーになりました。

    「ずいぶんあるね。」

    「多すぎる?」

    「洗濯物は、

    多いほうが回しやすいよ。」

    猫は、

    すべてを丸い洗濯機へ入れました。

    最後に、

    懐中時計の蓋を開けずに、

    エメラルドへ前足を触れます。

    緑色の光が、

    一滴だけ落ちました。

    「それは洗剤?」

    「眠りのしずく。」

    「大切なものじゃないの?」

    「朝になれば戻るから、

    たぶん大丈夫。」

    「たぶん?」

    猫は聞こえないふりをして、

    スイッチを押しました。

    くる。

    ……

    くる。

    ……

    洗濯機の中で、

    今日一日が回り始めます。

    言葉も。

    表情も。

    失敗も。

    明日の心配も。

    青い水の中で、

    ゆっくり形を失っていきます。

    「全部、

    なくなっちゃうの?」

    「なくならないよ。」

    猫は丸い窓を見ながら言いました。

    「余計な重さだけ、

    水に溶けるの。」

    「大事なことまで、

    忘れない?」

    「大事なことは、

    洗っても残るからね。」

    くる。

    ……

    くる。

    ……

    眺めているうちに、

    まぶたが少し重くなります。

    やがて、

    洗濯機が止まりました。

    チン。

    猫が扉を開けると、

    中から小さな雲が、

    ふわりと飛び出しました。

    灰色だったハンカチは、

    月明かりの色。

    硬かったシャツは、

    柔らかな雲の色。

    重たい靴下は、

    夜明け前の空の色。

    長すぎたマフラーは、

    手のひらに収まるほど、

    短くなっています。

    「明日の心配、

    小さくなったね。」

    「縮んだみたい。」

    「明日のものは、

    たまに縮むんだよ。」

    猫はそれらを、

    店の天井に渡された細い紐へ、

    一つずつ干しました。

    窓の向こうには、

    星空が広がっています。

    夜風が吹くたび、

    洗い終えた今日一日が、

    静かに揺れました。

    ゆら。

    ……

    ゆら。

    ……

    「乾くまで、

    待たなくていいの?」

    「朝までには乾くよ。」

    「取りに来たほうがいい?」

    猫は少し考えます。

    「必要なら。」

    「必要じゃなかったら?」

    「そのまま、

    雲にしておく。」

    あなたは、

    小さな椅子へ腰掛けました。

    店の中には、

    洗濯機の残した、

    かすかな水の音。

    ちゃぷん。

    ……

    ちゃぷん。

    ……

    猫は空になった籠の中へ入り、

    くるりと丸くなりました。

    「寝るの?」

    「洗濯が終わったからね。」

    「私も、

    ここで寝てもいい?」

    猫は、

    もう目を閉じています。

    「夢を汚さなければね。」

    「どうしたらいい?」

    「何も考えなければ、

    だいたい大丈夫。」

    窓の外で、

    干された一日が、

    星の光を受けています。

    今日のことは、

    もう洗い終わりました。

    明日のことは、

    まだ籠に入っていません。

    今ここにあるのは、

    空っぽになった夜だけです。

    しゃら。

    ……

    しゃら。

    ……

    今夜はもう、

    今日を抱いたまま、

    眠らなくていいのです。

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