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本能寺の変1582 重要 ◎第72~73話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    重要 ◎第72~73話 11光秀の年齢 

    3光秀と土岐氏 

    ←はじめに ←目次 ←重要 ◎目次 11 光秀の年齢 ← 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
    →その一因 目次大 目次中 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 
    →【 重要史料 】 【 人物 】 
    *加筆修正 

    11光秀の年齢 3光秀と土岐氏

     1三人の娘~2光秀・勝家・一益  重要 ◎第68~71話 ◎小68~71
     3光秀と土岐氏          重要 ◎第72~73話 ◎小72~73
     4光秀、最大の敵         重要 ◎第74~76話 ◎小74~76
     5結論~6人格形成        重要 ◎第77~78話 ◎小77~78
                               ◎小68~78

     ◎第72話 ◎小72   第72話

      土岐氏の跡目争い。
      頼武と頼芸。
      守護の座をめぐる兄弟の戦い。【 人物 】

      光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
     
     光秀の明智氏は、頼武派。
      長井新左衛門(父)と若き日の斎藤道三(子)は、頼芸派。
      おそらく、この様な図式だったのではないか。

      とすれば、明智氏は道三と敵対関係にあった、という事になる。

       【参照】9 光秀という男
      
         2立入宗継の証言 重要 ◎第53~54話 ◎小53~54
           7美濃の争乱   63   64

      光秀は、土岐頼純の家臣。
     
     頼武の後を継いだのが頼純である。
      おそらく、光秀は、その家臣だった。
      世代的に見れば、そう、なる。【 人物 】

      斎藤道三の下剋上が始まった。
     
     天文年間は、元年1532~二十三年1554まで。

      天文二年1533。
      父、長井新左衛門、死去。
      道三がその後を継いだ。【 人物 】

      頼純は、道三に殺害された。
     
     天文十六年1547のことである。
      六角承禎がそれを証言している(一部抜粋)。

       また、父左近大夫(道三)、代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、
       諸職を奪い取り、

       彼の者(道三)、斎藤同名に成りあか(上)り、

       剰(あまつさ)え、次郎殿(頼純)を聟(むこ)に取り、
       彼が早世候て後、舎弟八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ、
       事に左右をよせ、生害させ申し、
       其の外の兄弟衆、或いは毒害、或いは隠害にて、
       悉(ことごと)く、相果て候、

       其の因果歴然の事、
                                【 重史 024】 
        (「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条2/2)

       これらについては、後述する。

      光秀は、主君を失った。
     
     以後、牢人となる。

      光秀は、越前へ逃げた。
     
     光秀には、越前で暮らした時期があった。
      「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住」、とある。
      
    称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎に現存する。
      光秀は、懇意にしていたらしい。
      天文十六年1547~永禄十一年1568の内の10年間。
      その門前に、居住した。

       惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、
       越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
       念珠(ねんごろ)にて、
             【 重史 025】(「遊行上人三十一祖京畿御修行記」)

      これについては、後述する。

      光秀は、まだ、独身だった。
     
     天文十六年1547~同二十三年1554は、独身時代。

      そして、次へ繋がる。
      弘治年間1555~1557の終り頃に、妻木氏を妻に迎え。
      永禄1558~の初め頃に、長女が生まれ、
      永禄六年1563に、三女が生れた。

      道三は、土岐頼芸を追放した。
      ここに、道三の下剋上、成る。
     
     天文十九年1550。
      道三は、土岐頼芸を追放した。
      頼芸は、尾張へ逃れ織田信秀を頼った。
      法華坊主の子倅が美濃一国を奪い取った。

       父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
       家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
       大桑を追ひ出し侯。

       それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
       信長の父の織田弾正忠を憑(たの)みなされ侯。
                         【 重史 027】(『信長公記』)

     ◎第73話 ◎小73   第73話

      本能寺の変と頼純殺害の年から光秀の生年を推測する。
     
     天正十年1582、本能寺の変。
      天文十六年1547、頼純殺害。

      本能寺の変の時、五十歳とした場合。
     
     本能寺の変の時1582、光秀の年齢が五十歳だったとすれば、
      光秀は、天文二年1533の生れとなり、
      天文十六年1547は、十四歳になる。
      これでは、家臣として若すぎる。
      故に、これは適合しない。

      本能寺の変の時、五十五歳とした場合。
     
     光秀は、享禄元年1528の生れとなり、
      天文十六年は、二十歳。
      戦力的に見て、家臣としては、この辺りが下限になるではなかろうか。

      とすれば、弘治年間1555~1557、
      光秀が妻木氏を娶った頃は、二十八~三十歳となる。

      そして、永禄十一年1568、信長に出会った頃は、四十一歳となる。

      本能寺の変の時、六十歳とした場合。
      
    大永三年1523の生れとなり、
      天文十六年は、二十五歳。
      もう、立派な武士である。

      とすれば、弘治年間は、三十三~三十五歳。
      当時としては、晩婚である。 

      そして、永禄十一年は、四十六歳。
      まだまだ、これからと言える年頃。

      これも、該当するだろう。
      ならば、その上限とは、・・・・・。

      永禄十一年1568、信長は三十五歳。
      
    本能寺の変の十五年前である。
      皆、若かった。
      
    同、柴田勝家、四十七歳。
      同、滝川一益、四十四歳。
      同、丹羽長秀、三十四歳。
      同、羽柴秀吉、三十二歳。

       【参照】◎第70話 ◎小70 第70話 信長の部将たち。

      光秀は、信長の目に止まった。  
      
    その様な年齢だった。
      となれば、おそらく、四十代半ば。

      四十代終り~五十代ではない、と思う。
      それでは、遅すぎるだろう。



     ⇒ 次へつづく

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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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