
「百人一首を旅しよう!」短歌と写真で今と繋がる〜第三十三回●権中納言敦忠●〜
後朝の歌・第二弾は平安きってのプレイボーイ権中納言敦忠こと藤原敦忠(906〜943)です。
同じく色男として有名な在原業平を母方の曽祖父に持ち、父・藤原時平は左大臣で時の権力者かつ氏の長者。敦忠は美男子で人柄も良く詩歌管弦に秀で三十六歌仙の一人と、まあ絵に描いたような完璧なエリートですが、政治的人物でもあります。
まずは歌から。
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば
昔はものを 思はざりけり

意味)貴女に逢って愛し合った後のこの苦しい胸の内に比べたら、昨日までの物思いなど何でもないと感じますよ。
「逢ひ見る」は男女が契りを交わすこと。「昔」は恋が成就する前。
この交際相手は有名な第二十回・右近の可能性もありますが、叔父藤原忠平の娘とも、同じく叔父の仲平の娘とも考えられています。
藤原忠平は貞信公の名で百人一首に撰ばれています。
ちなみに仲平の娘は後に敦忠と結婚して妻の一人になりました。
しかし曽祖父・業平に似たのか、敦忠も斎宮雅子内親王と交際(業平は伊勢斎宮との禁断の恋が有名)。内親王は退下後、別の男性(敦忠のいとこ)と結婚したため敦忠の恋は悲恋に終わりました。

さて冒頭で記述した通り、敦忠も政治的人物と言えるでしょう。実の父・時平はあの菅原道真を讒言によって失脚させた人物とされています。
時平の妹穏子が産んだ皇太子が21歳で他界すると、清涼殿の落雷をはじめとする災害や不幸が相次ぎ、それらは道真の怨霊と恐れられました。穏子の産んだ皇太子は敦忠の姉妹と結婚し、男児を産みますが5歳で夭折。
子や孫の死を受けて、時平は道真の左遷を取り消すなど慰霊しますが効果がなく、自身も39歳で亡くなりました。
敦忠もこうした流れを見て「自分も必ず死ぬだろう」と短命を予期。38歳で本当に亡くなってしまいました。

平安貴族ならではの優美さと、裏で行われていた壮絶な政治的駆け引きを感じる一首でもあります。道真も菅家として百人一首に登場しますから今後のお楽しみに。
では最後にもりやま作を。
あさぼらけ 須磨の浦辺に 寄する波
君が袖香を しのびぬるかな

最後までお読みいただきありがとうございました。次回も後朝の歌を取り上げます。どうぞお楽しみに!
前回・待賢門院堀河、第二十回右近については下記からご覧いただけます⤵︎