
月の腰掛け
藤原村から、魚野川越しに月を待っていた。
夕方のうちは、東の山にまだ斜面の濃淡が残っていた。それが少しずつ消えて、いまは峰の輪郭だけが空を切っている。
川向こうの家々も、畑も、ひとつの暗がりに収まりかけていた。
月は、あの山の向こうにいる。
月の出の時刻は過ぎていた。けれど、ここでは山の高さの分だけ、余計に待たなければならない。
暦に書いてある時刻と、この場所で月に会える時刻は、少し違う。
一度、時計を見た。
それきり見るのをやめた。
魚野川の水音が聞こえる。
昼間なら目で追える流れも、暗くなると音ばかりになる。どこかで水がぶつかり、ほどけ、また流れていく。
空を見上げていても、その音で川のありかがわかった。
こちらに私がいる。川がある。その向こうに法音寺の屋根があり、さらに山が重なっている。
月は、まだ見えない。
ウチの犬、メチ子も待っていた。
道端へ鼻を寄せ、同じところを念入りに嗅いでいる。私には何もない場所だが、メチ子には読み終わらないものがあるらしい。
ときどき顔を上げて、こちらを見る。
まだ行かないのか。
そんな顔だった。
もう少し、と声をかけると、また鼻を下げた。やがて調べものを終え、私のそばに座った。
耳だけが、水音とは別の何かを追って動いていた。
狐も狸も待っていた。
川向こうの草むらで。
山へ続く道の途中で。
人が引き上げた畑の隅で。
狸の中には、足の悪いのが一匹いた。
母ちゃんは、その狸にこっそり餌をあげていた。
こっそり、と母ちゃんは思っていたのだろう。
部落の皆は、知っていた。
狸は畑を荒らす。土を掘り返し、丹精したものを食べる。朝になって畑へ出れば、腹の立つこともあったはずだ。
それでも、母ちゃんが餌をあげていることに、だれも文句は言わなかった。
母ちゃんも、わざわざ話さなかった。
皆も、わざわざ聞かなかった。
あの狸は、今夜どこにいるのだろう。
草の中で腹をつけているのか。歩く途中で立ち止まっているのか。
その場所からも、山の上は見えるだろうか。
メチ子の頭を撫でた。
手のひらの下で、耳が一度伏せられた。顔をこちらへ寄せてから、また前を向く。
私も山へ目を戻した。
何度も見ているうちに、峰の形を覚えてしまった。
あの頂の右側か。
もう少し低い、隣のくぼみか。
目を移しては、もとの場所へ戻す。空は広いのに、見ているところはだんだん狭くなる。
まだだった。
メチ子が座り直した。
私は足を踏み替えた。
川の音に耳を向けてみる。流れの中に、少し高い音と、低く続く音があった。
しばらく聞いて、それから顔を上げた。
山の端に、赤いものがあった。
ほんの小さな弧だった。
出た。
思わず声が出た。メチ子が振り向く。
私は山を指さしたが、メチ子はその指へ鼻を近づけた。
違う、あっち。
笑っている間にも、赤い弧は少しずつ厚くなっていた。
白い月を待っていた。
出てきたのは、赤い月だった。
山の黒さに接しているせいか、その赤さはずいぶん濃く見えた。遠くにあるはずなのに、手前へせり出してくるようだった。
上半分が現れた。
こんなに大きかっただろうか。
見慣れているつもりの月から、目が離せない。下のほうは、まだ山に隠れている。
あと少し。
もう少し。
待っていた時間が、その最後の縁に集まっていた。
そして、全部出た。
大きな丸。
赤い月。
山の頂に載っていた。
さっきまで何か言いたかったのに、丸くなった月を前にすると、言葉がなくなった。
メチ子も前を向いている。
狐も狸も、どこかで顔を上げていた。
月はゆっくり昇った。
その月が、法音寺の屋根の上に腰掛けた。
ああ、そこへ座るのか。
ずいぶん待たせておいて、今度はひと休みらしい。
屋根の線に、月の下の縁が重なっていた。
昼間なら、何気なく見て通り過ぎる屋根だった。
今夜は、月の腰掛けになった。
少し横へ動けば外れてしまいそうで、私はそのまま立っていた。
メチ子が立ち上がりかけた。
もう少し。
今夜は何度も頼んでいる。
メチ子はこちらを見て、座り直した。今度は私の足へ体を寄せてきた。
毛の温かさが、足もとにあった。
ゆったりとした時間が流れる。
その上を、月がゆっくり渡っていく。
皆の視線を独り占めするように。
川は流れている。メチ子はそばにいる。法音寺の屋根には、赤い月が腰掛けている。
母ちゃんにも見せたいと思った。
帰って話したら、戸口まで出てくるだろうか。もう少し高くなった月を見て、大きいね、と言うだろうか。
その前に、狸が来たかどうかを聞かされるかもしれない。
今日は来た。
餌も食べた。
そんな話を聞けたら、それもよかった。
ふと、細い空が見えた。
屋根と月の間に、隙間ができている。
月が腰を上げた。
ずっと見ていたのに、離れる瞬間はわからなかった。隙間は少しずつ広がり、屋根に載っていた丸が、空に浮かぶ丸になった。
赤さは、まだ残っている。けれど山から出たばかりのときより、いくらか淡くなっていた。
メチ子が立った。
今度は、私も引き止めなかった。
帰ろうか。
声をかけると、先に歩きだした。待った分を取り戻すような、軽い足取りだった。
私も続いた。
数歩歩いて、振り返った。
法音寺の屋根は、もう空いていた。
月はその上を、ゆっくり渡っている。
足の悪い狸が餌を食べに来るなら、帰り道が少し明るいといい。
魚野川の水音が聞こえていた。
メチ子が立ち止まり、こちらを待っていた。
家へ戻ると、母ちゃんがいた。
月が出たよ、と言った。
赤くて、大きくて、法音寺の屋根に腰掛けていたよ、と。
母ちゃんは戸口へ出て、空を見上げた。
私も隣に立った。ここからは、もう寺の屋根は見えない。月は家々の上に出て、さっきより白くなっていた。
そのとき、メチ子が吠えた。
顔を上げ、月に向かって吠えている。一度やめたかと思うと、また吠えた。
犬は、兎が嫌いなのかな。
メチ子は、しきりに月の兎に吠えていた。
まあ、仲良くしなさい。
母ちゃんは、そう言った。
メチ子は、もう一度吠えた。
母ちゃんは月を見ていた。
私も、その隣で見ていた。
月の兎は、黙っていた。