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月を掴んだ

    駅前の水たまりに、月が落ちていた。

    昼間の雨が残した、小さな夜だった。

    空を見上げる。

    月は遠い。

    足元を見る。

    こちらの月は、手を伸ばせば届く。

    私はしゃがんだ。

    背中を靴音が通り過ぎていく。

    傘の先が水面をかすめた。

    月が歪んだ。

    それでも、そこにあった。

    指を伸ばす。

    触れた。

    月が砕けた。

    白い輪郭がほどけ、光が散り、黒い水に呑まれた。

    空の月は、動かなかった。

    私は指先を見た。

    何もない。

    水面が静まる。

    月が戻ってきた。

    何事もなかったように。

    私はもう一度、手を伸ばした。

    今度は、指先だけでは足りなかった。

    手のひらを水に沈めた。

    冷たい。

    月が割れた。

    街灯も、信号も、ビルの窓も、手の中でばらばらになった。

    水をすくう。

    小さな夜が、手のひらに乗った。

    月もいた。

    ほんの一瞬。

    指の隙間から、夜がこぼれた。

    手のひらには、水の冷たさだけが残った。

    私は笑った。

    何がおかしいのか、自分でも分からなかった。

    立ち上がると、膝が鳴った。

    通り過ぎる人が、一瞬こちらを見た。

    濡れた手を握った。

    何もない。

    それでも、拳を開く気にはなれなかった。

    空の月は、何も知らない顔で浮かんでいた。

    私が触れたことも。

    壊したことも。

    あんなに本気で掴もうとしたことも。

    知らないままだった。

    それでいい。

    月は遠い。

    遠いものを、遠いまま眺めていればよかったのかもしれない。

    けれど、あの夜。

    私はしゃがみ込み、手を伸ばした。

    誰にも気づかれないほど小さな水たまりに、世界を相手にするような真剣さで。

    そして、月を掴んだ。

    手のひらは、まだ冷たかった。



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