
もう一人の天才
昔、一緒に仕事をした天才技術者がいた。
難しい問題ほど、楽しそうだった。
誰も解けなかった課題を前にすると、目が少しだけ輝く。
新しい景色を見つける人だった。
私は、何度も驚かされた。
この人がいれば、会社はどこまでも行ける。
そんなふうに思ったこともある。
でも、あるとき気づいた。
その人が力を発揮できたのは、技術が優れていたからだけではなかった。
安心して挑戦できる場所が、ちゃんとあった。
そして、その場所を静かに守っている人がいた。
天才の横にいた人
その人は、自分から前に出ることがなかった。
発明をするわけでもない。
論文に名前が載るわけでもない。
会議で、一番たくさん話すわけでもない。
でも、その人がいると、周りが変わった。
議論が荒れそうになると、少しだけ言葉を変える。
誰かが抱え込みそうになると、そっと荷物を分ける。
余計なことが増えると、本当に必要なものだけを残す。
そして、天才技術者には、思い切り難しいことを考えさせる。
邪魔をしない。
急かさない。
失敗したときには、戻ってこられる場所を残しておく。
私は、その姿を見ているうちに、晏嬰という人物を思い出すようになった。
自分が主役になる必要はない。
誰かが力を発揮できるなら、それでいい。
そういう才能もある。
北極星を忘れない
組織には、もう1つ大切なものがある。
どこへ向かっているのか。
なぜ、その仕事をしているのか。
忙しくなるほど、その問いは見えなくなる。
目の前の課題。
納期。
予算。
品質。
会議。
それらを片づけること自体が、いつの間にか目的になってしまう。
私が関わってきたゲノム解析の仕事では、その先にいる人を忘れずに済んだ。
患者さんだった。
検査データの向こうにいる人。
その結果を待ちながら、不安な時間を過ごしている、一人の人だった。
「あの患者さんのために」
その言葉が出ると、議論の向きが変わることがあった。
技術も。
品質も。
コストも。
最後には、その人のところへ戻ってくる。
それが、私にとっての北極星だった。
左利きの会社
会社は、天才技術者だけでは続かない。
天才が思い切り考えられる場所をつくる人がいる。
どこへ向かうのかを、忘れない人がいる。
そして、その景色を信じて手を動かす人がいる。
この3つが重なることは、案外少ない。
だから、そんな組織に出会うと、いつまでも覚えている。
私は、そういう会社を「左利きの会社」と呼びたくなる。
教科書どおりではない。
効率だけでは説明できない。
誰が偉いのかも、簡単には決められない。
それでも、不思議と仕事が前へ進んでいく。
前に出る人がいる。
一歩下がって支える人がいる。
遠くを見ている人がいる。
その間をつなぐ人がいる。
そういう会社には、独特の空気がある。
受け継がれるもの
人は、技術を受け継ぐ。
知識も受け継ぐ。
仕組みも受け継ぐ。
でも、組織に残るものは、それだけではない気がする。
誰かが、誰かの才能を信じていたこと。
失敗しても、戻ってこられる場所があったこと。
忙しいときにも、患者さんのことを思い出せたこと。
そういうものは、資料には残らない。
けれど、人から人へ伝わっていく。
あの天才技術者の名前は、今でもよく覚えている。
そして、その横にいた人のことも、同じくらい覚えている。
たぶん、あの人も天才だった。
ただ、その才能は、前には出てこなかった。
誰かが力を発揮できる場所をつくる。
その人が咲くまで、急かさずに待つ。
そんな才能だった。
組織には、そんな人がいる。
名前の残らない場所で、
誰かの才能が咲くのを、
静かに待っている人がいる。
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