
地面にキスをした女——パティ・スミスと、広島という場所
【導入】地面にキスをした女
2025年4月28日、広島市中区。平和記念公園。
パティ・スミスは原爆慰霊碑に献花した後、地面にキスをした。
「だから私はここに来て許しを請いたかった。そして父のために地面にキスをした」
アメリカ人アーティストが、広島の地で、自国が落とした爆弾について、自分の言葉で語る。謝罪とも、祈りとも、継承とも読めるその行為を、私はしばらく手の中で転がしていた。
謝罪できるアーティストと、できないアーティストがいる。
語れる者と、語れない者がいる。その差はどこから来るのか。
この連載では70本以上にわたって、音楽家と政治の関係を問い続けてきた。前回、ザ・タイマーズについて書いた。忌野清志郎が「覆面」という迂回路を必要とした理由を考えた。今回はその問いが、太平洋を越える。パティ・スミスという女性が広島の地面にキスをするまでに、何があったのか。
【Part1】パンクの女王とは何者か

1946年12月30日、イリノイ州シカゴ生まれ。ニュージャージーで育ち、1967年、21歳でニューヨークへ渡った。
詩人になりたかった。写真家のロバート・メイプルソープと出会い、チェルシー・ホテルで共同生活を送りながら、言葉と表現の可能性を探った。やがて詩の朗読にギターが加わり、バンドが生まれた。1975年、デビューアルバム『Horses』が発表される。
このアルバムは今も、ロック史上の革命的な一枚として語り継がれている。ビートニク文学の精神とパンクの衝動が交差し、詩と音楽の境界線を溶かした。「パンクの女王」という称号が与えられたが、その実態はシンガーというより詩人であり、アクティビストであり、画家であった。一つの肩書きに収まらない、複合的な存在だ。
1979年、伝説的ロックバンドMC5の元メンバー、フレッド・スミスと結婚し音楽の第一線を退く。夫の死後、1996年にアルバム『Gone Again』で本格復帰。以降、コンスタントに作品を発表しながら、反戦・気候変動・人権問題について発言し続けてきた。イラク戦争への反対を公言し、トランプ政権を批判し、気候変動への行動を訴え続けた。政治を語ることが彼女にとって「余計なこと」ではなく、アーティストとしての自然な表現であり続けた。2007年、ロックの殿堂入り。
2016年、一つの出来事がパティという人間の本質を鮮明に示した。
その年、ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランが授賞式を欠席した。代役として壇上に立ったのがパティだった。式典でパティは途中で歌詞を忘れ、演奏を止めた。「本当に申し訳ありません。とても緊張しています」と率直に詫びた後、最初から歌い直した。
完璧ではなかった。しかしその不完全さの中に、言葉に対する誠実さがあった。飾らず、逃げず、その場に立ち続けた。パティ・スミスという人間を理解するには、あの授賞式の場面が一つの鍵になると私は思っている。
【Part2】父から継承した問い
パティが広島を訪れ続ける理由の根っこには、父の存在がある。
父は第二次世界大戦でフィリピンとニューギニアに従軍した兵士だった。大戦が終わった翌年の1946年にパティは生まれた。物心ついた頃から、父が戦争の記憶を引きずって生きていることを感じていた。
2025年4月28日の対談でパティはこう語った。「広島と長崎への米軍による原爆投下について、とても恐ろしい非人道的な行為だと感じていたが、父はそれを乗り越えることができなかった」
父は二つの原爆投下によって変わった。もともと国家主義者ではなかった彼は、あの出来事の後、あらゆる戦争に反対する積極的な平和主義者になった。パティはそんな父の姿を見て育った。
だからパティの謝罪は、彼女一代で完結する話ではない。
父が戦後の半生をかけて辿り着いた問いを、娘が受け取った。その問いへの答えを探しながら生きてきた。広島の地面にキスをするという行為は、その長い旅の一つの到達点だったのかもしれない。
ここで一つの事実に触れておきたい。2016年、バラク・オバマ大統領が現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問した。慰霊碑に花を手向け、核兵器廃絶を訴えるスピーチを行った。しかし謝罪はしなかった。国家の代表者として、謝罪という言葉を選ぶことができなかった。
個人の謝罪と国家の謝罪の間には、深い溝がある。その溝のこちら側に、パティは立った。国家の代理人としてではなく、父から問いを継承した一人の人間として、広島の地面に膝をつくことを選んだ。
「私の父がここにいたら、彼は泣きながら聞いて、あなたにハグをしたと思う」
この言葉を聞いたとき、アーティストはどこに立つのかという問いが、改めて鮮明になった。
【Part3】2013年1月31日、広島クラブクワトロ

私はその場にいました。
2013年1月31日、広島CLUB QUATTRO。パティ・スミスの来日公演です。当時の彼女の来日は2003年以来、10年ぶりでした。チケットを手に入れたとき、正直なところ、どんなステージになるのか見当がつかなかった。「パンクの女王」という称号は知っていた。しかし彼女の音楽を深く聴き込んでいたわけでもなかった。
開演前のクラブクワトロは、いつもと違う空気がありました。
あの箱はライヴハウスとしては中規模で、アーティストと観客の距離が近い。その近さが、あの夜は特別な意味を持っていた気がします。集まった観客の顔つきが、いつもと少し違った。何かを待っている、というより、何かを覚悟しているような表情だったかもしれません。
演奏が始まりました。
パティの声は、想像していたよりずっと澄んでいました。パンクという言葉から連想する荒々しさではなく、詩を読むような、言葉一つひとつを丁寧に置いていくような歌い方でした。ギターを弾き始めて45年の自分にとって、その声の重心の低さと安定感は、まず打ちのめされるものがありました。
演奏の途中、パティが語り始めました。
英語でした。通訳はいませんでした。私の英語力では、すべてを正確に聞き取ることはできなかった。どんな曲を演奏したかも、今となっては正確には覚えていません。しかし一つだけ、はっきりと残っていることがある。母国が広島に原爆を落としたことへの謝罪の言葉です。
言葉の意味を完全には聞き取れなかった。しかし彼女の表情と声のトーンと、その瞬間に変わった会場の空気が、何が起きているかを教えてくれました。言葉の意味を超えて、何かが伝わってくる瞬間というのがある。あれはそういう瞬間でした。
会場の空気が変わりました。
静寂と、緊張と、そして何か温かいものが混ざり合った空気。観客の誰もが、その言葉を真摯に受け止めていた。笑う者もなく、そわそわする者もなく、ただパティの言葉を聞いていた。広島という街で育ち、広島という街に住む者として、あの静寂の質は今も体の中に残っています。
演奏が再開されたとき、音楽の質感が変わっていた気がしました。
同じ曲を演奏しているのに、さっきとは違う。言葉が場を作り、その場が音楽を変えた。音楽と言葉は、切り離せないのだとあの夜感じました。
なぜパティはあの夜、広島のステージで謝罪の言葉を口にできたのか。
準備していたのかもしれない。あるいはその場の衝動だったのかもしれない。どちらであったとしても、その言葉が彼女の人生と地続きだったことは確かです。父から受け継いだ問いを抱えて生きてきた人間だけが、あの言葉を、あの場所で、あの声で言えた。
【Part4】素顔で語るということ
前回この連載でザ・タイマーズについて書いたとき、忌野清志郎がなぜ「覆面」を必要としたのかを考えた。
罵倒した相手がTシャツを売る日—ザ・タイマーズが37年後に突きつけたものとは
土木作業員の作業着、ヘルメット、フェイスマスク。あの仮面の下には本物の怒りがあった。しかし怒りを直接ぶつけるためには、迂回路が必要だった。「言いたいことを言ってパッと逃げられる」機動力のために、覆面という形式が選ばれた。
パティ・スミスは素顔で立った。
広島のステージで、平和記念公園で、被爆者の前で。仮面も、迂回路も、言い訳も必要としなかった。この差はどこから来るのか。
一つ目は、表現文化の差だ。
アメリカのロックには、アーティストが政治を語ることへの社会的な許容がある。ボブ・ディランが公民権運動を歌い、ウディ・ガスリーが労働者の痛みを歌い、ブルース・スプリングスティーンがアメリカの矛盾を歌ってきた。その積み重ねの中に、パティは立っている。政治を語ることが「余計なこと」ではなく、アーティストとしての自然な表現として受け入れられる土壌がある。
日本は違う。
この連載で繰り返し見てきたように、スポンサー、レコード会社、テレビ局、メディア——複数の圧力が重なり合い、音楽家が政治的な発言をすることへの見えない抑制が働く。忌野清志郎が『COVERS』の発売中止という形でその構造にぶつかったように、語ることへのコストは日本では高い。
二つ目は、立場の差だ。
パティが広島で語ったのは、「加害国の市民」としての言葉だった。これは日本のアーティストには物理的に不可能な立場である。ただし、この「立場の差」は免罪符にはならない。日本のアーティストには日本のアーティストとして語れることがある。語れる立場にいながら語らないことと、語る言葉を持ちながら構造に押しつぶされることは、同じではない。
三つ目は、個人の覚悟の差だ。
どちらの文化圏であっても、最終的に「語るか語らないか」は個人が決める。パティが素顔で立てたのは、彼女の言葉が彼女の人生と完全に地続きだったからではないか。父から受け継いだ問いを抱え、半生をかけてその答えを探してきた人間の言葉には、ぶれようがない。言葉と人生が一致しているとき、人は素顔で立てる。
ここで断定はしない。
日本のアーティストが素顔で政治を語れない理由を「文化の差」だけで説明することは、構造の問題を個人の問題にすり替える危険がある。しかし構造のせいにするだけでは、個人の覚悟の問題から目を逸らすことになる。その両方を同時に見ることが必要だ。
覆面が必要だった忌野と、素顔で立てたパティ。どちらが正しかったのかではない。どちらも、自分の方法で、自分の言葉を語ろうとした。その事実だけは確かだ。
【Part5】2025年、被爆者との対話

2025年4月28日、広島市中区。平和記念公園のメモリアルホールに、約250人の市民が集まっていた。
パティ・スミスと、被爆者の小倉桂子さん(87歳)の対談。「Dialogue in Hiroshima(広島での対話)」と書かれたバナーの前に、二人が座った。
その日パティはすでに原爆資料館を見学し、慰霊碑に献花していた。そして地面にキスをした。導入で書いたあの行為は、対談が始まる前のことだった。
小倉さんがパティに尋ねた。「広島は何年ぶりですか」
パティは答えた。「10年ぶりくらい」と。
2013年1月31日、広島CLUB QUATTROのステージから、12年が経っていた。あの夜英語で語られた謝罪の言葉から、12年。パティにとって広島は、一度訪れて終わる場所ではなく、繰り返し戻ってくる場所になっていた。
対談の中でパティは父の存在を語った。フィリピンとニューギニアに従軍し、原爆投下の後に積極的な平和主義者になった父。「父はそれを乗り越えることができなかった」という言葉の重さを、小倉さんは静かに受け取った。
そして小倉さんはこう言った。
「わたしもアジアの国々の人たちに謝罪しなければならない。戦争こそがいけない」
加害国のアーティストと、被爆者が、互いに謝罪し合う。この逆説的な構図の中に、戦争というものの複雑さが凝縮されていた。被害と加害は、一つの国、一つの人間の中に同時に存在する。小倉さんの言葉は、そのことを静かに示していた。
パティは時折言葉を詰まらせながら語った。
「私の父がここにいたら、彼は泣きながら聞いて、あなたにハグをしたと思う」
「たとえ私に起こったことではなくても、もうそれは私の一部。あなたも私の一部になっています」
この言葉の中に、パティ・スミスという人間の核心がある。「私に起こったことではない」——原爆を投下したのはパティではない。生まれたのは終戦の翌年だ。しかし彼女はその出来事を「自分の一部」として引き受けることを選んだ。引き受けることを選んだとき、他者の痛みもまた「自分の一部」になる。
対談の終わりに、パティは1988年に発表した代表曲「People Have the Power」の歌詞を読み上げた。民衆の力と平和への信念を歌ったこの曲が、伴奏もメロディーもなく、言葉だけで朗読されるとき、音楽が祈りに変わる瞬間がある。あの場にいた250人は、その言葉を音楽として受け取ったのではないかと思う。
2013年の広島クラブクワトロから、2025年の平和記念公園へ。
パティ・スミスにとって広島は、訪れる場所ではなく、戻る場所になっていた。そして戻るたびに、彼女の言葉は深くなっていた。謝罪から対話へ、対話から継承へ。継承とは、過去の痛みを次の世代に伝えることではなく、その痛みを自分の問いとして引き受け続けることではないか。
その軌跡は、アーティストが社会とどう関わり続けるかの一つの答えを示している。
いや、答えではないかもしれない。問いの深め方、と言った方が正確だろう。
【Part6】言葉を持つ者の責任

広島に住んでいます。
この街で生まれたわけではありませんが、長くここで暮らし、週末にはステージに立ってきました。ギターを弾き、歌い、マイクの前に立つ。言葉を持つ者として、この街の記憶と共に生きてきた、という感覚は確かにあります。
しかしパティ・スミスの話を調べ、2013年のあの夜を思い出しながら、一つの問いが浮かびました。
私はこの街で、何を歌ってきたのか。
パティは言いました。「核兵器は破壊につながるだけだ」と。その言葉に嘘はない。彼女の人生全体が、父から受け継いだ問いが、その言葉を支えている。言葉と人生が一致しているとき、人は素顔で立てる——Part4でそう書きました。
では私はどうか。
ギターを弾き始めて45年、ステージに立ち続けてきました。その間、政治を語ったことはほとんどない。「場の空気」を読んだ。「余計なことを言うな」という圧を、内側から自分にかけてきた。前回タイマーズについて書いたとき、そのことをすでに一度省察した。しかしパティの話を通じて、同じ問いが別の角度から戻ってくる。
覆面が必要だった忌野と、素顔で立てたパティ。その間に、私はいる。
覆面をかぶるほどの怒りがあるわけでもなく、素顔で語れるほどの覚悟が固まっているわけでもない。その中間のどこかで、言いたいことを言わずに45年が過ぎた。それは臆病だったのか。それとも、言葉を持つことの責任の重さを、無意識に感じていたからなのか。
「言葉を持つ者の責任」とは何か。
それは正しいことを言うことではないと、今は思っています。正しいことを言うためには、正しさの基準が必要になる。しかし世界はそれほど単純ではない。パティが広島で語ったことも、忌野が生放送で叫んだことも、「正しいこと」として整理できるような話ではない。
言葉を持つ者の責任とは、自分が本当に思っていることを、自分の言葉で語る勇気ではないか。
パティが素顔で立てたのは、彼女の言葉が彼女の人生と地続きだったからだと書きました。では私の言葉は、私の人生と地続きになっているか。広島という街で、この街の記憶を背負って、ギターを弾き続けてきた者として、まだ語っていないことがあるのではないか。
答えはまだ出ていません。
ただ一つだけ確かなことがある。2013年1月31日、広島CLUB QUATTROのステージで、パティ・スミスが英語で語った言葉の意味を、私は完全には聞き取れなかった。あの夜何の曲を演奏したかも、今となっては正確には覚えていない。しかし言葉が場を作り、その場が音楽を変えた——あの感覚だけははっきりと残っています。それが何だったのかを、今もまだ考え続けています。
地面にキスをした女は、12年後に再び広島に戻ってきた。
そしてまた戻ってくるだろう、と私は思っています。問いを深め続ける人間は、問いのある場所に戻り続ける。
私もまた、この街のステージに戻り続けるでしょう。いつかその場所で、まだ語っていない言葉を、語れる日が来るかもしれない。
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