
スピッツは、なぜ35年たっても古びないのか―「ロビンソン」「チェリー」から新曲まで、若い世代にも届き続ける理由
はじめに

気づけば、頭の中でスピッツが鳴っている。
聴いた瞬間に圧倒されるというより、しばらくしてから、いつの間にか頭の中でメロディが鳴っている。
『ロビンソン』。
『チェリー』。
『空も飛べるはず』。
何十年も前の曲なのに、懐かしいだけの音楽には聞こえない。
そう感じたことはないだろうか。
2026年、スピッツはメジャーデビュー35周年を迎えた。
35周年を迎えた2026年8月にも、新曲「見知らぬ糸」をリリースしている。
35周年を祝われるだけの歴史を持ちながら、いまも新しい曲を届ける現役のバンドでもある。
この二つが自然に同居していることこそ、まず不思議ではないだろうか。
なぜスピッツは、35年たっても古びないのだろう。
長く活動を続けたバンドが、途中で音楽性を大きく変えることは珍しくない。
しかしスピッツは、デビュー当時と現在とで、驚くほど基本的な姿を変えていない。
それなのに、いまの曲もまた新しく響く。
この矛盾のような現象を、メロディ、歌詞、バンドサウンド、ライブ、そして4人の関係という五つの角度から考えてみたい。
一般的な35周年記事であれば、名曲紹介や結成からの歴史を並べるだけでも成立するのかもしれない。
しかし、ここで考えたいのは、もう一歩先の問いである。
第1章 なぜスピッツのメロディは、頭の中に残り続けるのか

スピッツのメロディには、不思議な粘り気がある。
強烈なフックで一瞬にして耳を奪う、というタイプの曲ではない。
『ロビンソン』も『チェリー』も『空も飛べるはず』も、初めて聴いたときにすぐ「サビが来た」と身構えるほどの派手さはない。
それなのに、数時間後、あるいは数日後に、ふと口ずさんでいる自分に気づく。
耳を奪うのではなく、いつの間にか耳の中に住みついてしまう。
そんな感覚が、スピッツのメロディにはある。
草野マサムネの声そのものが、この効果を後押ししている。
張り上げるより、少し浮くように歌う声。
高い音域を無理に張らず、するりと通していく歌い方。
メロディにも、ときどき予想から少しだけ外れる動きがある。
その小さな違和感も、耳に残る理由の一つなのかもしれない。
『空も飛べるはず』も、決して派手なサビから始まる曲ではない。
静かに始まり、じわじわと高まっていく構成のなかに、後から効いてくるフレーズが仕込まれている。
サビで感情を爆発させて終わる曲は、聴いた直後の満足感は大きい。
しかしスピッツの曲は、聴き終えたあとにも余白が残る。
その余白に、聴き手自身の記憶が入り込む隙間があるのかもしれない。
私には「見知らぬ糸」も、派手な仕掛けで押し切るというより、あとからじわじわと残る曲に聞こえる。
35年前の曲と、今年配信された曲が、同じ手触りでつながっている。
このつながりの正体こそ、この記事で考えたいことの中心にある。
第2章 水彩画のような歌詞――意味を決めすぎないから古びない

草野マサムネの歌詞は、しばしば「文学的」「意味深」と評される。
しかし、それだけでは説明しきれない何かがある。
スピッツの歌詞には、具体的な単語や風景が確かに出てくる。
けれど、その情景がすべてを説明してくれるわけではない。
輪郭が少し滲んだ、水彩画のような風景。
色は完全には塗りつぶされておらず、細部は聴き手の想像に委ねられている。
例えば、代表曲に出てくる草花や生き物のイメージがある。
それらは図鑑的な説明としてではなく、ぼんやりとした情景の一部として置かれている。
その曖昧さのおかげで、聴き手は自分の記憶にある景色を、そこへ重ねることができる。
だからこそ、1990年代に十代でこの曲を聴いた人がいる。
そして、2020年代に初めてこの曲に出会った人もいる。
その二人が、それぞれ別の風景を思い浮かべながら、同じ曲を聴くことができる。
時代の空気や固有名詞を強く刻み込んだ歌詞は、その時代を知らない世代には届きにくくなることがある。
スピッツの歌詞は、時代を具体的に描きすぎない代わりに、誰もが自分の記憶を重ねられる余地を残した。
その余地こそが、歌を長生きさせているのではないだろうか。
意味を固定しないことは、時に「あいまい」と受け取られることもある。
しかし、その曖昧さが結果として、聴き手が自分の風景を入り込ませる余白になっている。
同じ曲でも、聴くたびに違う情景が浮かぶことがある。
歌詞に何を見るかは、聴き手に委ねる。
そういう距離の取り方が、結果として35年分の聴き手を受け止める余白になったのではないだろうか。
第3章 柔らかいのに、なぜこんなにロックなのか

スピッツは、見た目も、草野の声も、強烈な「ロックスター像」を押し出すタイプではない。
叫ばない。
男らしさを誇示しない。
文学的で、柔らかく、時にポップに聞こえる。
それでも、演奏を聴くと、彼らは紛れもなくロックバンドである。
三輪テツヤのギターは、曲によってかなり歪んだ音を鳴らす。
穏やかなバラードの隣に、ギターが唸るようなロックナンバーが並ぶことも珍しくない。
田村明浩のベースはよく動き、ライブでは本人自身もステージを大きく動き回る。
﨑山龍男のドラムは、力強く楽曲全体を支えている。
草野マサムネ(Vo/Gt)、三輪テツヤ(Gt)、田村明浩(B)、﨑山龍男(Dr)。
この4人のバランスがあって、初めて「スピッツの音」になる。
表面は柔らかい。
しかし土台は、意外なほど強い。
激しく叫ばなくてもロックでいい。
男らしさを誇示しなくてもロックでいい。
そういう選択肢を、スピッツは1990年代以降の日本のロックシーンに、静かに提示してきたのではないだろうか。
はっぴいえんどやRCサクセション。
THE BLUE HEARTSやBOØWY。
先人たちも、それぞれの形で日本語ロックを切り拓いてきた。
スピッツが提示したのは、それとはまた別の角度からの提案だったように思う。
第4章 大きく見せない――スピッツがホールを大切にしてきた理由

スピッツは長く、ライブハウスやホールを中心にツアーを組んできたバンドである。
アリーナクラスの会場でのライブは行わない、と公言していた時期もあった。
その姿勢が変わったのは2009年1月だった。
さいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで、キャリア初となるアリーナ公演を実施した。
日本武道館での初の単独公演は、さらに遅れて2014年のことである。
つまりスピッツは、アリーナ公演を拒み続けてきたわけではない。
ただ、会場の規模に合わせて自分たちを大きく見せることを、急がなかった。
近年のツアーでも、ホールとアリーナを組み合わせた構成が続いている。
照明や映像といった演出は、当然使われている。
派手な仕掛けが一切ないわけではない。
それでも、演出が音楽より前へ出すぎることはない。
大きな会場に立っても、ステージの中心には、4人が曲を演奏している姿がある。
会場が大きくなっても、音楽との距離感を、大きくは変えなかった。
35周年の今年も、周年だけを理由に大規模な単独アリーナツアーへ振り切るのではなく、恒例のイベントを続けている。
2026年も「ロックのほそ道」「有明サンセット」「ロックロックこんにちは!」といった恒例イベントを開催。
さらに草野のラジオ番組から生まれた「ロク漫祭」も予定されている。
単独公演で自分たちの世界を大きく囲い込むのではなく、フェスやイベントの中に身を置きながら周年を祝う。
見せるライブより、曲を届けるライブ。
その優先順位を、35年間ほとんど動かさなかったのではないだろうか。
長くホールを中心に活動してきたことを見ると、会場を大きくすること自体を、成功の証明にはしてこなかったように見える。
第5章 35年、同じ4人――なぜスピッツの後継者は現れないのか

1987年の結成以来、スピッツは一度もメンバーチェンジをしていない。
草野マサムネ、三輪テツヤ、田村明浩、﨑山龍男。
1987年の結成以来、この4人の組み合わせは変わっていない。
メンバーにはそれぞれ個人での活動もある。
草野には長年続くラジオ番組もある。
ただ、各メンバーが大規模なソロ活動へ分散し、その合間にバンドが動くような形にはなっていない。
スピッツに影響を受けたと語るアーティストは多い。
2015年には代表作『ハチミツ』の20周年を記念したトリビュートアルバムが作られた。
ASIAN KUNG-FU GENERATION、クリープハイプ、indigo la Endが名を連ねている。
9mm Parabellum Bulletや10-FEETなど、後の世代のバンドも参加した。
このアルバムは、スピッツから影響を受け、リスペクトしているアーティストを集めた企画として発表された。
参加アーティストは、それぞれ自分たちの音でスピッツの曲を再構築している。
『ハチミツ』の発売当時、まだ子どもだった世代がいる。
あるいは、音楽活動すら始めていなかった世代もいる。
その世代が、後にスピッツの曲を自分たちの音でカバーしていることになる。
影響を受けたと語るアーティストの幅は広い。
その幅広さ自体が、スピッツが特定のジャンルの内側だけで語られる存在ではないことを示しているのではないだろうか。
それでも、「第二のスピッツ」と呼べる存在は、簡単には思い浮かばない。
仮に、草野マサムネの声質やメロディの型だけを真似たバンドが現れたとする。
それでも、その時点でスピッツにはならないだろう。
声だけでもない。
歌詞だけでもない。
4人の演奏だけでもない。
メロディ、声、歌詞、演奏、そして4人の関係。
その配合そのものが、スピッツというバンドをかたち作っているのではないだろうか。
後継者が現れないことは、弱さではなく、そのオリジナリティの証明なのかもしれない。
35周年のいま、過去のヒット曲を振り返る動きがある一方で、8月には新曲「見知らぬ糸」が届けられた。
「変わらない」と「止まっている」は違う。
スピッツは、別のバンドへ変身し続けたわけではない。
しかし、同じ場所に止まっていたわけでもない。
自分たちの音楽の輪郭を保ったまま、少しずつ更新してきた。
だからこそ、35年前の曲もいまの曲も、同じスピッツとして自然につながっているのではないだろうか。
おわりに 変わらないのではなく、濁らない

35年。
『ロビンソン』も『チェリー』も、いまなお聴かれている。
そしてスピッツは、新しい曲も作り続けている。
気づけば、頭の中でメロディが鳴っている。
目を閉じれば、水彩画のような風景が浮かぶ。
柔らかい歌の奥では、4人のロックバンドが鳴っている。
スピッツは、変わらなかったのではない。
自分たちの音楽を濁らせることなく、少しずつ更新し続けてきたのではないだろうか。
35年たっても、スピッツのメロディは、いつの間にか頭の中で鳴り始める。
その瞬間、彼らの音楽にはまだ「昔」という言葉が似合わない。
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