
YOASOBIは、なぜ政治を歌わないのか——Z世代の沈黙と、タトゥーにざわつく日本の空気
導入:世界が熱狂したユニットは、なぜ「社会」を歌わないのか
2024年、YOASOBIは世界にいました。
「アイドル」はSpotifyのグローバルチャートを席巻し、アメリカ・ヨーロッパの大型音楽フェスに出演し、日本語の楽曲が言語の壁を軽々と超えていきました。「夜に駆ける」から始まったこのユニットの軌跡は、日本の音楽シーンにおいてひとつの革命と呼んでいいものだったと思います。
私はその成功を、素直に嬉しいと感じました。58歳のギタリストとして、日本の音楽がここまで世界に届くのだという事実は、単純に誇らしかった。
しかし、同時に気になっていることがありました。
YOASOBIは、社会について何も語っていない。
戦争も、格差も、環境問題も、政治も——あれほど多くの人に届く音楽を作るユニットが、そういったテーマを正面から歌ったことは、私の知る限りほとんどありません。それは偶然なのか。それとも、必然なのか。
この連載を60本以上書いてきた私には、「偶然ではないかもしれない」という直感があります。
YOASOBIの「語らなさ」は、このユニットだけの問題ではない。Z世代のアーティスト全般に共通する傾向であり、そして——タトゥーにざわつく日本社会の空気と、深いところでつながっている。
そう思いながら、書き始めます。
Part1:YOASOBIという構造——「小説を歌う」ことの政治性
1.「小説を歌う」という発明——自分の言葉を持たない自由
YOASOBIのキャッチコピーは「小説を音楽にするユニット」である。
公募小説や依頼小説を原作として楽曲化する——このフォーマットは、デビュー当初から一貫している。「夜に駆ける」は縦書き小説投稿サイト「monogatary.com」に投稿された短編小説が原作であり、「アイドル」はマンガ「【推しの子】」の主題歌として書き下ろされた。Ayaseが作曲し、ikuraが歌う。原作者の世界観を音楽という形に変換することが、このユニットの本質的な使命である。
この構造が持つ意味を、少し丁寧に考えてみたい。
「小説原作」という形式は、Ayaseとikuraを「自分の言葉で社会を語る」必要から、構造的に解放している。
ボブ・ディランは自分の言葉で「風に吹かれて」を書き、ベトナム戦争の時代を歌った。ジョン・レノンは自分の言葉で「Imagine」を書き、国家と宗教と所有を否定した。忌野清志郎は自分の言葉で「ラブ・ミー・テンダー」を変奏し、原発政策に異議を申し立てた。彼らが「政治的アーティスト」として記憶されるのは、自分の言葉で社会に向き合ったからである。
YOASOBIの場合、語るべき「言葉」はすでに原作小説の中にある。Ayaseとikuraの仕事は、その言葉を音楽に変換することである。原作者の世界観に忠実であることが求められるこの形式において、「アーティスト自身の政治的立場」を問われる契機は、構造的に生まれにくい。
これは意図的な設計なのか。それとも、結果としてそうなったのか。
どちらとも断言できない。しかしこの構造が「語らなさ」と深く連動していることは、確かである。「小説を歌う」という発明は、同時に「自分の言葉を持たなくていい自由」を生み出した——そう読むことができる。
2.間接話法の世代——Z世代のアーティストに共通する構造
しかしYOASOBIだけを取り上げて論じるのは、フェアではないかもしれない。
「自分の言葉ではなく、物語やキャラクターを介して感情を表現する」という手法は、Z世代のアーティスト全般に共通する傾向として見えてくる。
米津玄師はボカロPとしてキャリアを始め、架空のキャラクターに語らせることで感情を表現した。King Gnuの井口理は、楽曲の中でしばしば「語り手」と「作者」を分離する。Adoは顔出しをせず、様々な楽曲の「声」として機能することで、特定のアーティスト像を持たない存在になった。
これはアニメ・マンガ・ゲームに親しんで育ったZ世代の感性と、深く親和している。彼らにとって「キャラクターが語る」ことは自然な表現形式であり、「アーティスト本人が直接語る」ことの方がむしろ不自然に感じられるかもしれない。
この「間接話法」という表現形式には、もうひとつの効果がある。
炎上リスクの構造的な低減である。
「語り手」と「作者」が分離されていれば、楽曲の中の言葉はアーティスト本人の発言として切り取られにくい。「これは物語の登場人物の言葉であり、私自身の意見ではない」という逃げ道が、構造として用意されている。SNSネイティブ世代として、発言が瞬時に拡散し文脈を失う時代を生きてきたZ世代のアーティストが、この構造を直感的に好む——それは理解できることである。
ただ、ここで立ち止まって問いたいことがある。
「間接話法」は表現の豊かさをもたらす一方で、「アーティストが社会に向けて直接語る」という行為の可能性を、じわじわと縮小させてはいないか。物語を介することで届く感情はある。しかし、物語を介さなければ届けられない「怒り」や「異議申し立て」もあるのではないか。
ディランがキャラクターを介して「風に吹かれて」を書いていたら——その問いは、意地悪に過ぎるだろうか。
Part2:Z世代と政治的沈黙——無関心ではなく「語らない」選択

3.Z世代は本当に政治に無関心なのか
「最近の若者は政治に無関心だ」という言葉を、私たちの世代はよく口にする。
根拠として挙げられるのは、たいてい投票率の数字である。確かに日本の10代・20代の投票率は低い。2021年の衆議院選挙における20代の投票率は36.50%、30代は47.12%——いずれも全体平均の55.93%を大きく下回っている。この数字だけを見れば、「若者は政治に無関心」という結論は説得力を持つように見える。
しかし、それだけで話を終えるのは、早計である。
気候変動について考えてみたい。2019年、スウェーデンの高校生グレタ・トゥーンベリが始めた「Fridays For Future」という気候変動への抗議運動は、瞬く間に世界中のZ世代を巻き込んだ。日本でも若者たちが街頭に立ち、気候変動対策を求めた。ジェンダー平等についても、フェミニズムへの関心はZ世代において著しく高い。格差問題、LGBTQ+の権利、人種差別——これらのテーマに対するZ世代の関心は、投票率という数字が示す「無関心」とは、明らかに矛盾している。
では、この矛盾をどう読み解くか。
ひとつの解釈は、「Z世代は政治参加の形式が従来世代と異なる」というものである。投票という行為への信頼が低いのではなく、政治への関与の仕方が変化している。SNSでの署名活動、ハッシュタグ運動、エシカル消費——「誰に投票するか」ではなく「何を買うか」「何をシェアするか」によって政治的意思を表明する世代として、Z世代を捉え直すことができる。
音楽の話に戻せば、YOASOBIが政治を歌わないことは、「Z世代のアーティストが政治に無関心である」証拠ではない。「政治への関与の形式が、楽曲という表現形式と結びつきにくい」という、より複雑な構造の反映として読むべきではないか。
4.「語らない」ことを選ぶ世代——SNSネイティブの直感
それでも、問いは残る。
なぜZ世代のアーティストは、音楽で政治を「語らない」のか。無関心ではないとすれば、「語らない」ことは意識的な選択なのか。
ここで59本目で書いたことを、もう一度思い出したいと思います。
コーネリアス・小山田圭吾の沈黙——東京五輪が露わにしたSNS時代の暴力
コーネリアス・小山田圭吾は、過去のインタビューでの発言についてSNS時代の暴力にさらされました。彼自身が語ったわけではない——過去の「語り」が、文脈を失い、数百万人の前に晒された。その結末は、東京五輪の開会式音楽担当を辞任するという形で訪れました。
Z世代のアーティストは、この種の出来事をリアルタイムで目撃しながら育っています。
SNSネイティブ世代として、彼らは直感的に理解している。ひとつの発言が切り取られ、文脈を失い、瞬時に数百万人に拡散される——その速度と暴力性を、身体感覚として知っている。上の世代が「炎上」を概念として理解するのに対し、Z世代は「炎上」を日常の風景として育ってきた。
「語らない」ことは、この環境への適応である。
しかしここで、私は少し立ち止まりたくなります。
「適応」と「萎縮」は、どこで分かれるのか。リスクを理解した上で「語らない」ことを選ぶのは、確かに賢明かもしれない。しかしその選択が積み重なったとき、「語れる空気」そのものが失われていくのではないか。
忌野清志郎が「ラブ・ミー・テンダー」を歌ったのは1988年のことです。あの時代にもリスクはあった。実際、アルバムは発売中止になった。それでも忌野は語りました。語ることへの代償を承知の上で。
Z世代のアーティストに「なぜ語らないのか」と問うことは、フェアではないかもしれない。時代の構造が、語ることをより困難にしている。しかし同時に、「語らないことへの慣れ」が、次の世代の「語る力」を静かに奪っていくとしたら——それは、音楽にとっての損失ではないか。
答えは、出せません。ただ、58歳のギタリストとして、この問いをZ世代のアーティストたちに投げかけずにはいられない。
Part3:タトゥーにざわつく日本——Ayase、あいみょん、そして「許容範囲」の問題
5.Ayaseのタトゥー——事実と臆測のあいだ
まず、確認できる事実から始めたい。
YOASOBIのAyaseがタトゥーを入れていることは、本人のSNSへの投稿や公開されているライブ映像などから確認できる、公知の事実である。タトゥーのデザインや入れた経緯についての詳細は、Ayase自身が多くを語っていないため、ここでは触れない。
問題は、この「事実」の周辺で何が起きたか、である。
ネット上では一時期、「AyaseのタトゥーがNHKへの出演を妨げているのではないか」という臆測が広まった。NHKが出演者のタトゥーに対して慎重な姿勢を取ることがある、という一般的な認識を背景に、「だからYOASOBIはNHKに出演しにくいのではないか」という推測が、さも事実であるかのように流通した。
しかしこれは、あくまでネット上の臆測である。
NHKがAyaseのタトゥーを理由にYOASOBIの出演を制限した、という事実は、私の知る限り公式には確認されていない。NHK側もYOASOBI側も、そのような説明をした記録はない。この点は明確にしておく必要がある。
それでも、この臆測が広まったこと自体は、ひとつの事実として記録に値する。
「タトゥーがあるアーティストは、公共放送に出演しにくいかもしれない」——この推測が、多くの人に「ありえる話」として受け取られた。その背景には、日本社会におけるタトゥーへの根強い偏見がある。タトゥーは犯罪と結びつくものだ、反社会的な印だ、公共の場にふさわしくない——そのような意識が、まだ日本社会の底流に流れているからこそ、臆測はリアリティを持って拡散した。
ここで問いたいのは、NHKの方針でも、Ayaseの選択でもない。
「タトゥーがあるだけで、出演の可否が臆測される」という構造そのものである。
6.あいみょん、そして「ざわつく」日本の空気
あいみょんのタトゥーが話題になったのは、比較的近年のことである。
彼女がタトゥーを入れていることが知られるようになると、ネット上では様々な反応が生まれた。「意外だった」「イメージが変わった」「好きだったのに」——賛否というより、「ざわつき」と呼ぶのが適切な反応の波が、SNSを流れた。
少し冷静に考えてみたい。
あいみょんは法律を犯したわけではない。他者を傷つけたわけでもない。自分の身体に、自分の意思で、タトゥーを入れた。それだけのことである。
しかしその「それだけのこと」が、日本では「ざわつき」を生む。
このざわつきの正体は何か。いくつかの層に分けて考えると、見えてくるものがある。
まず歴史的な層がある。日本においてタトゥー(刺青)は、長らくヤクザや反社会的勢力と結びついたイメージを持ってきた。江戸時代の入墨刑に由来するという説もある。この歴史的な連想が、現代においても根強く残っている。
次に制度的な層がある。多くの銭湯、温泉施設、スポーツジムでは、タトゥーのある利用者の入場を制限している。これは「他の利用者が不快に感じる可能性がある」という理由によるものが多い。つまり「ざわつき」は個人の感情ではなく、制度として組み込まれている。
そして同調圧力という層がある。「普通ではない」外見を持つ人間への排除感——これは日本社会が持つ強力な同調圧力の、ひとつの現れである。タトゥーは「普通ではない」外見の、わかりやすい記号として機能する。
あいみょんがタトゥーを入れたことで「ざわつく」ネット民に向けて、私はここで少しアイロニーを込めて言いたい。
あなたがざわついているのは、あいみょんのタトゥーのせいではない。あなた自身の中にある「許容範囲」の境界線が、揺さぶられているからではないか、と。
7.身体表現への圧力と音楽表現への圧力——同じ根を持つもの
ここまで書いてきて、ひとつのことが見えてくる。
「タトゥーを入れることへの圧力」と「音楽で政治を語ることへの圧力」は、同じ根を持っている。
どちらも本質的には、「日本社会が許容する表現の範囲」の問題である。その範囲の内側にいる限り、アーティストは称賛される。しかしその範囲の外側に踏み出した瞬間——タトゥーを入れる、政治を語る、権力を批判する——「ざわつき」が生まれ、排除の圧力が働く。
57本目で書いた忌野清志郎のことを、ここで思い出したい。
忌野は「ラブ・ミー・テンダー」に原発批判の歌詞を乗せ、アルバムの発売中止という制裁を受けた。61本目で書いたジョン・レノンは「Imagine」を歌い、FBIに監視された。彼らが受けた圧力は、国家や企業という「権力」から直接加えられたものだった。
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現代の圧力は、より分散している。
国家が直接アーティストを制裁するのではなく、「ざわつくネット民」という無数の個人が、集合的に圧力を形成する。タトゥーのあるアーティストへの「ざわつき」も、政治を語るアーティストへの「炎上」も、その構造は同じである。誰かが命令しているわけではない。ただ「許容範囲の外側」に踏み出したアーティストに向けて、無数の「ざわつき」が集まってくる。
この分散した圧力は、実は権力による直接的な制裁よりも厄介である。
権力による制裁には、抵抗の対象が明確にある。忌野はレコード会社と戦うことができた。レノンはニクソン政権と戦うことができた。しかし「ざわつくネット民」には、戦う相手がいない。無数の個人の「ざわつき」に、どう抵抗すればいいのか。
YOASOBIが語らないのも、あいみょんのタトゥーがざわつきを生むのも——その背景には、この「分散した圧力」の存在がある。誰も命令していない。しかし空気は確実に、「許容範囲の外側に出るな」と告げている。
「空気を読む」という日本語の表現が、これほど精確に機能する社会は、世界でも珍しいのかもしれない。
結び:58歳のギタリストが、タトゥーについて思うこと

私はタトゥーを入れていません。
45年ギターを弾いてきて、一度もその選択をしなかった。理由を問われれば、「なんとなく」としか答えられない。怖かったわけでも、嫌いだったわけでもない。ただ、しなかった。
しかし正直に言えば、「しなかった」理由のどこかに、「周囲の目」があったかもしれないとも思います。58歳になった今、それを認めることはそれほど難しくない。
あいみょんがタトゥーを入れたとき、ネット民がざわついた。Ayaseにタトゥーがあると知って、NHK出演を臆測する人がいた。その「ざわつき」を眺めながら、私は少し居心地が悪くなりました。
ざわついている人たちを責めたいわけではありません。「許容範囲」は、個人の問題である以上に、社会が長い時間をかけて形成するものだから。ひとりひとりの「ざわつき」は、その社会の産物である。
ただ、こう思います。
タトゥーにざわつく空気と、政治を語るアーティストを炎上させる空気は、同じ空気ではないか。YOASOBIが「語らない」のも、その空気の中で生きているからではないか。そしてその空気を作っているのは、権力でも制度でもなく——私たち自身ではないか。
「許容範囲」を決めるのは、誰ですか。
その問いを、開いたまま終えます。
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