
桃太郎と鬼は、実は友だちだったのでした
2024年に映画化されヒットした『ウィキッド』という作品がある。
2010年の夏、初めて劇団四季で観劇した際、えらく深く心に突き刺さってしまった。それから何度も劇場に足を運んだ。ただこの作品はアメリカの童話『オズの魔法使い』をベースにしていることもあり、自分のようなコアなファンを除けば『美女と野獣』のようなディズニー作品や、あるいは『オペラ座の怪人』ほどの大ヒットには、当時の日本で起きなかったと記憶している。
そもそも『ウィキッド』は『オズの魔法使い』に登場する善い魔女と悪い魔女が実は友だちだった、というところから始まる。
この時点でもう、物語としては少し妙である。主人公にとって敵役であるはずの悪い魔女が、主人公の味方である善い魔女と通じている。日本でいえば「桃太郎と鬼は、実は友だちだったんだよ」というようなものだ。
桃太郎の世界では、鬼は鬼らしく、桃太郎を苦しめる悪い存在でなくてはならない。敵と味方がはっきり分かれているからこそ、物語はわかりやすく進んでいく。けれど生きていると、そうはいかない。
善い魔女と悪い魔女が親友だったように、桃太郎が鬼の死を悲しむこともあれば、自分にとって敵だった人が自分の幸せを願っていることだってある。
自分は中学まで、大正生まれで男尊女卑の思考が強い祖母と同居していた。祖母は、私が私立学校に行くことを「女の子なんだから」と最後まで反対していた。
・・と、私は長いあいだ記憶していた。ところが最近、両親に聞いてみたところ、私が希望していた学校に合格したとき、祖母は大喜びして、近所の人にまで自慢していたという。そんなバカな。私にとって祖母は、長年、自分が行きたいと思う道を阻害する巨大な敵のはずだった。
今なら「女の子に高い教育を受けさせるくらいなら、その分お兄ちゃんに」と考える祖母の気持ちと「孫娘が難関を突破して進学したことが誇らしい」と思う祖母の気持ちは、同時に成立するのだと理解できる。人間は一色ではない。
だが当時の私は「おばあちゃんは私のことが嫌いなんだ。くそっ、負けるものか!」そういう単純な物語を支えにして、踏ん張って生きてきた。だからこそ「敵であるはずの祖母が、自分の進学を喜んでいた」という事実は、非常に都合が悪かった。
幼い子ども向けの勧善懲悪の物語と違って、現実は少しばかり複雑である。
家族療法でも、自分が長年「悪役」だと思っていた存在が、くるりと反転することがある。たとえば「自分の祖父は戦争から帰ってきてから家族に暴力を振るい、アルコール依存症になった。祖母や父を悲しませた祖父は最低だ」という物語の中で、悪役は明確だ。祖父が悪い。
もちろん、家族に暴力を振るうことが正当化されるわけではない。だが当時の戦場がどれほど凄惨な場所だったのかを知ったとき。PTSDなんて概念は存在せず「男は泣くな」という世界の中で、祖父が必死でかみ殺して飲み込んだ恐怖や慟哭の記憶を、ほんの少しでも想像できたとき。長年「悪役」という記号でしかなかった祖父が、ひとりの人間として見えてくる。
あの人は敵だった。でもあの人にも、あの人の人生があった。私のことを否定したあの人は、別の場面では私のことを誇りと思っていたかもしれない。そうした矛盾を、矛盾のまま置いておく。
ちなみに『ウィキッド』を最初に観た多くの人が惹かれるのは、大きな権力に立ち向かい、自分の意思を貫こうとする「悪い魔女」エルファバの生き方である。ところが、二度、三度と観ていくうちに、特に女性は「善い魔女」グリンダの生き方に共感すると言われている。
天真爛漫だった少女が、社会から「こういう女性でいてほしい」と求められるようになり、その期待を完全には振り切れないまま、清濁をのみ込みつつ、自分の運命を生きようとする。善い魔女と悪い魔女。味方と敵。正しい人と、間違った人。
『ウィキッド』最大の魅力は、私たち自身が「あの人は悪い人だった」あるいは「私の何が悪かったのか」という物語から、いつか自由になる日が来るかもしれない希望を見せてくれるところにある。ような気がしている。
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